第3話 お布団は見事に堀の中にダイビングしていた。
その少女は歌を歌っていた。
たぶん、歌、だと思う。
金色の長いくるくるの髪をしていて、お人形さんみたい。
あたしと同じかひとつ下くらいの歳だ。
妹のユカリを思い出してしまう。
ナイトウェアらしき服を着ている。空色のふんわりした服だ。袖と襟元には瀟洒なレースの飾り。胸元に白いモコモコな房飾りがふたつ付いていた。ちょっとネグリジェみたいにも見える。服の生地はとっても薄いみたいで、身体の線までわかってしまう。ウエストなんてあたしの半分くらいしかないんじゃないだろうかってほど。
めちゃくちゃかわいい。飛び出してぎゅってしてしまいたいほどだ。でも──。
蝋燭の明かりを受けて、彼女の後ろの壁の模様が透けて見えていた。
幽霊──だ。
あたしはごくりと唾を呑む。
Tの字になった曲がり角に隠れて、あたしとレモンは廊下を歩く少女を見つめていた。
歌いながらゆっくりと歩いている。ときおり立ち止まってくるっと回ったり。
まるで寝ていたところをたった今飛び出してきたって格好で、寒くないのかな、と考えてしまってから、幽霊だしなと考えなおした。
幽霊なんだ、この子。
うう、怖い。
きれいだけど、怖いよ。
レモンと一緒でなければ逃げ出していたと思う。
「何、歌ってるんだろう」
ひそめた声であたしはつぶやいた。今までは理解できたのに、目の前、十歩ほど向こうをゆっくりと歩いている少女の歌が理解できないのが不思議だった。
「聞き取れないのか?」
「うん」
「ああ──そうか。ユズハは人間の耳で聞いているんだな。言ったろ、俺たち魔法使いの耳のほうを使えって。意識を集中しろ。そっちのほうが性能いいんだし」
「む──なによ……それ」
声が大きくなりそうになって慌ててひそめた。
猫の耳って、この新しく生えた黄色いネコ耳のこと? 集中しろって? でも、使えと言われてもなあ。どうやって使えばいいのやら。なんて考えていたら、急に声が二重に聞こえてきた。
叫びそうになってレモンに睨まれる。
あぶないあぶない。
えっと、集中ね。集中。
あ。
声がはっきりした。クリアだ。前よりずっと小さな音まで聞こえそう。
歌が──歌詞が──わかる。日本語じゃない。でもわかってしまう。ふしぎ。
一人めは、覗き込んだ井戸に落ちた。井戸の底で、頭を打って死んだ。
二人めは、昼なお暗き森へと入った。狼に追われて、喰われて死んだ。
三人めは、波しぶき立つ海で泳いだ。高波にさらわれ、水底に沈んだ。
げげ! な、何、これ。この歌詞ってば、いったい……。
めちゃくちゃダークで怖いんですけど。
「童歌だな。かなり……古いやつだ」
「わらべ──うた?」
「地球にだって童謡くらいあるだろ?」
「マ、マザーグース、とか?」
学校でも教わったことがある。確か英語の時間だ。
マザーグースっていうのはイギリスの童謡で、有名なのは『ロンドン橋落ちた』とか『十人の黒人の子ども』とかだろう。どれも短い歌詞だから、英語に慣れるためにとか言って、授業時間に覚えさせられたのだ。だから知っていた。
「日本人なら、日本の童歌をだな──ま、いいけど。現代っ子め」
「レモンだって、若いじゃん」
そうなのだ。こいつは王様だけど、王の急死で即位したばかりってことは、偉そうなことを言ってても、そんなに歳取っていないはず。
「怖がってるくせに」
「……怖いもん」
そこは否定しない。
六人めは、大鳥のように羽ばたいた。太陽に焼かれ、真っ黒に焦げた。
七人めは、怠け者。毎日寝てばかり。眠ったまんま、くらあい墓の中。
八人めは、臆病で、毎日泣いていた。涙が尽きて、干からびちゃった。
「数え歌だ。子どもに数を教える歌だよ。一から順に歌ってるだろ?」
「そ、そういえ、ば……?」
一から始まった歌は、八にまで辿りついていた。
どの歌詞も死んでゆくことを歌うばかりで、誰も助からない歌だった。
「こ、怖くない? これ」
「童謡なんて、みんなそんなもんだ」
九人めは、過ちを犯して狭い牢の中。ひとり孤独に自らの死を看取る。
十で、とうとう誰もいない。
お城は空っぽ消えちゃった。
歌が終わって、少女が立ち止まった。
くるりと振り返った。
顔が、見える。
「ひっ」
あたしは息を呑む。
少女の額には猫の足あとが鮮やかに浮かび上がっていた。
そして、青い瞳から血の涙を流していたのだ。頬を伝って、流れて、落ちる。
見えているのだろうか。
じっとあたしたちのほうを見つめると、言った。
みんなは──どこ?
どこに行ったの?
ねえ?
こちらに向かって手を伸ばしてくる。十歩は離れていたはずなのに、少女の手が、まるですぐ近く、あたしに触れるばかりぬっと迫って、
「いやあああああああ!」
喉の奥から声が出ていた。頭を抱えてそのままうずくまる。やだ! 何も見えない。見たくない!
怖い! 怖いって、これ!
「きゃあああああああああああああああああああああああ!」
「ユズハ! ばか! 落ち着け!」
「いやいや! やだあああ!」
ガシャアアン! バキィィ! と。
城のあちこちから何かが壊れる音が聞こえた。その音にまた恐怖が込みあげてきて、さらに悲鳴をあげる。
「ばかユズハ! てめ!」
うずくまっていたあたしの背中に飛びついたレモンは、そのまま肩によじ乗ると、頭の後ろを、「いいかげんにしろ!」と叩いてきた。ぺしっと。
「怖がるな!」
「無理だよぉ!」
「ユズハ! ……くそっ」
頬に湿った感触を感じた。
レモンに舐められたのだとすぐには気づかなかった。
「落ち着け。もういねーよ」
「へ……?」
ふたたびあたしの頬をレモンの舌が舐める。ざらついた猫の舌は本気で舐められると意外と痛いものなんだけど、そのときはふんわりと優しかった。たぶん気を使ってくれたんだろう。
「だから、大丈夫だって……」
優しい声。
あたしはようやく抱えていた手を下ろして顔をあげた。
少女の姿は消えていた。
「あれは……なんだったの?」
「幽霊だ。言ったろ。ひと月前から、あれが出るようになったんだ。そのときから、この国は呪いが降りかかってくるようになった」
呪い……。
飴の雨が降る、とか?
「今夜はやけにはっきりと姿が見えたな。声まで聞こえたのは初めてだ。いつもはもっとうっすらと影みたいなんだが……。ユズハがいたからかもな」
「あたしが?」
「言ったろ。おまえは魔力が強いってさ」
レモンがにやりと笑ってみせた。
たぶん、あたしを元気づけようとしてくれたんだと思う。
「立ったほうがいいぜ。石の床にそんな風に尻をつけてると、風邪ひくぞ。今夜はもう出てこないだろうから、夜更かししないで、さっさと寝ちまいな」
「む。夜遅く付きあわせたの、そっちじゃん。言われなくても!」
「寝床にありつけるかわかんねーけどな」
「へ?」
「寝られなくても、俺のせいじゃねーぞ」
「は?」
何のこっちゃ?
レモンの言葉の意味を図りかねていると、お城のあちこちから人間たちと猫たちの悲鳴が聞こえてきた。なんだなんだ? 今度は何が起こったんだ?
「ほうら。これはおまえの悲鳴のせいだぞ」
レモンが言った。
「旦那様ー!」
廊下の向こうからセバスティアンが走ってくる。なんだか慌てていた。
やってきた執事猫が話してくれたところによると──。
恐怖に駆られたあたしの叫びは、城にいる魔法使いの猫と使い魔たちの心も掻き乱したらしくて、それは魔法の暴走という形になって現れたらしかった。
うずくまったあたしの耳に聞こえてきた、あの、ガシャアアン! バキィィ! って音の正体は魔法の暴走による破壊音だったのだ。
あたしの魔力は確かに大きいらしい。被害は城すべてに及んだ。
城中のありとあらゆる部屋の中で、
布団がふっとんだ。
窓を壊して布団が外に飛び出した。
就寝中の人間も猫も、はずみで床に転がり落ちた。
お城の中では、安眠を妨げられた者たちからの不満の大合唱が沸き起こっている。
だが、原因が王の使い魔のしわざと知っては、怒るに怒れないらしくて……。声はたちまち小さくなっていった。どうやら、あたしがレモンの使い魔として城にやってきたことはもうお城の中で知れ渡っているようだ。
それでも不平のつぶやきは聞こえてくるんだけどさ。廊下を歩いていると耳に入ってきてしまう。あ、あたしだって怖かったんだよ?
それに、あたし自身も部屋に帰って思わず悲鳴をあげてしまうことになった。
大惨事だった。
暖炉の脇のベッドの上から布団は飛び出していた。その際に、近くにあった水差しやら燭台やら、ありとあらゆるものをひっくり返していったようだ。床に転がった蝋燭は幸い消えていたけれど、他に燃え移っていたら大火事になっていたところ。これは笑えない。
窓から首を突き出して、闇の中、火を点けなおした蝋燭をかざして下を見る。
「あちゃあ……」
お布団は見事に堀の中にダイビングしていた。
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