第2話 猫が、しゃべってる!?

「なななな、な!」


 なんだ、これ!

 首から先が暗い穴の先に突っ込まれた猫の姿がそこにあった。

 背中からお尻にかけて、子猫の黒い身体が見えている。もちろん尻尾も。

 細い塀の上で脚に力を込めて、じたばたと穴の先に進もうとしている猫そのもの。

 ところがその穴というのが、黒い穴だったりする。

 近づいてよく見ればわかるのだけど、壁の上の何もない空間に黒い穴が開いていて、そこに子猫が頭だけ突っ込んでいるわけ。

 息を呑んだまま見つめていたら、さらに奇妙なことが起きた。

 猫の毛の色が変わったんだ!

 見えない穴に突っ込んだ子猫の首のあたりの毛が黄色く変化してゆく。

 びろうどみたいに艶のある黒い毛並みだったのに、それが刷毛で塗っていくように明るい黄色い色へと変わっていった。背中もお腹も。後ろ足の先までも。お尻を越えて尻尾の先まで。全身がきれいな──。


 レモンイエロー。


「うっそ……」

 じたばたと左右に身体を振りながら、レモンイエローになった黒猫は黒いトンネルの向こうに少しずつ入ってゆく。

 首が見えなくなり、胴体が入り、石壁の上から、だらりと真っ黄色な尻尾がぶらさがっている。


「ねこ、ちゃん……?」


 声をかけてみたけれど、聞こえていないようだった。それもそうか。残っているのは尻尾だけなんだし……。音を聞く耳は穴の向こうだ。何となく納得してしまう。

 道の両側は石壁の続く細い小路。人通りはない。今この光景を見ているのは、あたしだけ、ということだ。

 見えない穴の中に子猫は入っていった。身体は穴の向こうなんだろう。

 何もない空中から尻尾だけが垂れているように見える。

 柔らかそうな黄色の尻尾が、皐月の日差しに艶のある光沢をきらめかせて。風に押されたかのように左右に揺れていた。

 ふよふよと揺れる尻尾を見ていたら、なんだかうずうずしてきた。

 指先で突ついてみる。


 ひょこ。


 おおお! いい! これはいいしっぽだ!

 登校中だということもすっかり忘れて、あたしは夢中になってしまった。

 けれど──そのとき。

 尻尾が徐々に短くなっていることに気づく。何もない空間の向こうへとするすると引き込まれて短くなってゆく。縮んでゆく。かわいい尻尾が。

 逃げちゃう!

 あたしは見えない穴の中に向かってとっさに手を突っ込んでいた。手の先が猫の身体に当たる。手ごたえを感じて、そっと掴もうとして。


『いてぇぇぇぇぇ!』


 そんな声を聞いた気がする。

 けれど、そのときにはもう、あたしは声どころではなくなっていた。

 ぎゅん、と。

 猫が消えた穴の向こうから、あたしの身体は引っ張られたんだ。

 何もないはずの空間に向かって! 

 足の裏がふわっと地面から離れる。セーラーの襟とスカーフとスカートがバタバタとはためく。


「ええええっっ!?」


 手を離せば良かった、と気づいても後の祭り。

 あたしは身体をまるで細く引き伸ばされたかのような感覚に襲われる。ひょっとしたら、本当にそうなっていたのかもしれない。

 自分の周りにあった路地裏の景色はあっという間に真っ暗な闇へと取って代わり、身体が縦に引き伸ばされるような感覚に怖くなった。

 耳鳴りがする。頭が痛い。まるでエレベーターで一気に降ろされたときの、食べたものが喉元までせりあがってくるあの気分。

 どーなってるの!? 

 心臓がドキドキと早鐘を打っている。

 まっくら。何も見えない。

 不意に風が止まった。ふっと身体が軽くなる。無重力の中に放り出されたみたい。宇宙なんて行ったことないけど。たぶんきっとこんな感じなんだろう。

 保っていた意識がそこで切れた………………。

 ………………。

 …………。

 ……。


「…………おい」


 ぺし。何か柔らかいもので頭を叩かれた。


「ん……」

「起きろ、こら」

「うぅん」

「起きろってんだよ! ガキ!」


 むか。なに、それ。あたしにはユズハっていう立派な名前があるし、もう中学二年生で子どもなんかじゃ……。

 そうっと目を開けた。世界が斜め。あ、違う。自分が倒れているんだ、と気づく。あたし、寝ていた? あれは夢だったか。草の匂いがする。倒れている自分の頬に、青草の先がちくちくと刺してきていた。こそばゆい。

 あたしの目を何かが覗き込んでいた。あー……まだ夢を見ているんだ、これ。


「あと十五分……」

「ボケてんじゃねえ。てか、言い訳にしても十五分は長すぎだ! さっさと起きろっての。そして俺の尻尾を放せ!」


 言われて、自分の手が何かを握っていることに気づいた。確かに黄色い尻尾を握っている。ごめんごめん。

 …………黄色?

 視線をゆっくりとあげて声を発した相手を見る。

 真っ黄色な猫だぁ……と、ぼんやりと思う。


「ねこ……?」

「おう」


 不機嫌そうな声で返事がきた。怒らせてしまって、る?

 いや、待て。それよりも、だ。あたしの頭に、ようやく常識が戻ってきた。ありえない。そんな柄の猫はいない。


「黄色なんてありえ……」


 ……待って。ちょっと待って。

 途中でもっと重要なことに気づいた。猫が黄色いことより重要なことだ。


!」


 一発で意識がはっきりした。

 あたしは、自分が大変な事態に巻き込まれてしまったことに、遅ればせながらようやく気づいたのだった。


 猫が、しゃべってる!?

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