《魔法使い》には猫、《使い魔》にはあたし
はせがわみやび
第1章 使い魔
第1話 黒猫の頭が、ここではないどこかに突っ込まれていた。
猫のご主人さまの話をしよう。
猫の主人になった話ではない。
猫が、あたしのご主人さまになった話だ。
※
「ユズハおねぇちゃん、ちこくさんだよっ!」
身体を揺すられて目を開けた。
自宅の天井が目に映り、その手前に今年小学三年生になる妹の顔がどんとアップになっている。
「ん……」
「ほら、ユズハおねぇちゃん。学校、ちこくしちゃうよ?」
「あー……。ユカリ、今日もかわいいねー。ほれ、ぎゅーっと」
「わふ! お、おねえひゃん!」
もがもがと腕の中で身じろぎ、妹はじたばたしている。相変わらずかわいいやつである。
「は、はなれてくれないと、もう、起こしてあげないよ!」
「ええ!?」
あわてて腕から解き放つ。
そんな──これは姉と妹のかわいいちょっとしたスキンシップ。咎められるようなことではないはず……。
だって、昨日まではこれがふつうだったのに。
「もう、あたしも三年生なの」
「うん」
「そーゆーのは、シスハラって言うって、先生が言っていたよ」
「おのれ。妹に余計なことを吹き込みおって」
「おねえちゃん、聞こえてる?」
じとっとした瞳に、氷のように冷たい声で言われて、あたしの心は凍った。
くう……そうか、もう妹もそういうことを気にする学年なのだな。
がっくりと枕に顔をうずめる。あたしはシスハラ姉貴になってしまったのか。
「それに、あと三回ちこくで一週間のバツそうじとうばんってわかってて、そこまで寝ていられるどきょーは、すごいって思うんだ」
「はっ、それもそうだった!」
「反省してくれればいいんだよ、ユズハおねえちゃん」
「わかった。妹よ、感謝する」
「じゃあ、あと五分以内に降りてきてね」
慌てて枕元の時計に視線を投げた。
七時──五十二分。
「了解であります!」
「ん」
我が家の総司令官である妹殿は階段をとたとたと降りて行った。
あたしは布団を蹴飛ばした。
片手でパジャマのボタンをはずしながら、もう片方の腕を伸ばしてハンガーにかかった制服を掴む。靴下、夜に選んでおいてよかった!
「おかぁさぁんー! おねぇちゃん、起きたー!」
っと、扉、開けっ放し!
慌てて閉めてからパジャマを脱ぎ捨てた。
三分でリビングへと駆け降りる。
食卓では父と妹がハムエッグをつついていた。
「ユズハ。トーストでいいの? って、ほらユズハ、まーた髪留めが曲がってるわ。もう」
「ふぁりふぁと」
かあさんの差し出してくる厚切りトーストを口に咥えたまま感謝。
「ちゃんとすればあなただって可愛いんだからね、ユズハ」
「ふぁい」
しかしそれは、素のままではかわいくない、と言ってませんか?
大急ぎで玄関を出る。
忘れ物を思い出した。
食卓に戻る。
「いもうとよ!」
「ユズハおねえちゃん! ステイ!」
ぐっとこらえた。
そうだった。合意なきスキンシップはシスハラだと言われたばかりではないか。
「よし!」
「いもうとよ!」
今度は合意のもとに互いにぎゅーっと抱き合う。
エネルギー充填120パーセント!
「あんたたち、毎朝それやっててよく飽きないわねー」
ちがいます。母よ、あたしはシスハラ疑惑を乗り越えたバージョン2のユズハなのですよ。
それに──。
「かーさんたちだって毎朝やってるじゃん」
父さんがコーヒーを吹き出し、広げていた新聞を台無しにしていた。
「じゃ、行ってきます!」
うむ、とうなずく父と、真っ赤になりつつ見送ってくれる母。行ってらっしゃいを忘れない妹。それがいつまでも続くと思っていた朝の風景だった。
玄関を出て、最初の細い路地に入る。
裏道だ。誰も歩いてない。太陽も輝く初夏の朝で、まだ色づかない紫陽花の花が垣根の向こうで揺れている。
路地裏をせっせと歩くと少し汗ばんでくる。夏が近いからだ。今日は暑くなるのかも、と思う。
そのとき、あたしの視界を黒い塊がよぎった。
ん?
目の高さにある塀の上を真っ黒な日本猫が歩いてゆく。
子猫だ。
びろうどみたいな毛なみの見かけない黒猫。
塀の角を曲がり、子猫は背の高い木の向こうへと歩いていった。
遅刻しそうな時刻だ。放っておいて学校に急ぐべきところ。
けれど、我慢ができなかった。
だって、子猫である。
大急ぎで追いかける。
「ちょっとだけ目の保養をっと……」
角を曲がって塀の上に視線を投げて──そこであたしは息を呑んだ。
黒猫の頭が、狭い穴の向こうの、ここではないどこかに突っ込まれていた。
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