色々な色 ④歴史を動かしてきた紫

 色に関する蘊蓄うんちくと言いながら、カブトガニやコオリウオを紹介している今回のシリーズ。前々回は赤、前回は青を取り上げましたが、今回はこの二色を混ぜた時に出来る「紫」に目を向けたいと思います。


 数ある色の中でも、紫ほど高貴さや上品さを感じさせるものはありません。

 事実、紫は古くから格式の象徴として使われてきました。


 聖徳しょうとく太子たいしの定めた冠位かんい十二じゅうにかいにおいて、紫のかんむりは最高位の役人が身に着けるものでした。


 冠位かんい十二じゅうにかいは役人を12のくらいに分ける制度で、推古すいこ11年(603年)に定められました。

 12のくらいに分けられた役人は、身分に応じたかんむりを身に着けました。くらいの名前と順位、かんむりの色は以下の通りです。


大徳だいとく→紫

小徳しょうとく→薄い紫

大仁だいじん→青

小仁しょうじん→薄い青

大礼だいれい→赤

小礼しょうれい→薄い赤

大信だいしん→黄色

小信しょうしん→薄い黄色

大義だいぎ→白

小義しょうぎ→薄い白(灰色)

大智だいち→黒

小智しょうち→薄い黒

                  (諸説あり)


 これ以前、役人の地位や職務は、生まれた一族によって固定されていました。どれほど優秀でも、小さな一族に生まれた人が高い地位にくことはありませんでした。


 対して冠位かんい十二じゅうにかいは、「一族」ではなく、「個人」にくらいを与える仕組みです。


 くらいは生まれた一族ではなく、個人の能力によって決められました。

 各人の地位は一代限りで、子供に受け継ぐことは出来ません。代わりに出世と言う制度が採用され、優秀な人はどんどん昇進していけるようになりました。


 代表例が、遣隋けんずい使で有名な小野おのの妹子いもこです。

 彼は小さな一族のでしたが、最終的には大徳だいとくにまでのぼめています。


 なんだか難しい冠位かんい十二じゅうにかいですが、要は現代の会社と一緒です。

 課長の子供だからと言って、無条件に課長になれるわけではありません。反面、能力によっては、課長の子供が部長、果ては社長に出世することも可能です。


 今でこそ当たり前のシステムですが、当時としては画期的な試みでした。


 冠位かんい十二じゅうにかいが制定されたことにより、出自のよくない人々にもチャンスが与えられます。また同時に、純粋に有能な人材を、政治に関わらせることが可能になりました。


 とは言え、完全に家柄の呪縛から逃れられたわけではありません。


 上のくらいに就くのは、ほぼ大きな一族の出身者でした。小野おのの妹子いもこのような例は、非常にまれだったと考えられています。


 また蘇我そが蘇我そがの馬子うまこは、聖徳しょうとく太子たいしと共にくらいの決定権を持っていたと言います。


 蘇我そがは当時最も力を持っていた一族で、聖徳しょうとく太子たいしと血縁関係にありました。馬子うまこの息子・蘇我そがの蝦夷えみしと孫の入鹿いるかは、大化たいか改新かいしんで暗殺されたことでも有名です。


 さて歴史と紫の関わりと言えば、江戸時代に起きた「紫衣しえ事件じけん」も有名です。


 紫衣しえとは読んで字のごとく、紫色の法衣ほうい袈裟けさを指します。


 お坊さんにはくらいがあり、身分によって衣服の色が定められています。宗派によって差はありますが、多くの場合、紫衣しえくらいの高いお坊さんだけに着用が許されています。


 江戸時代も同様で、紫衣しえを身に着けられるのは高僧だけでした。しかも着用には天皇の許可が必要で、代わりに納められる礼金は朝廷の収入源になっていました。


 しかし慶長けいちょう18年(1613年)、幕府は朝廷に対し、許可を出す際は自分たちの許しを得るように命じます。更に元和げんな元年がんねん(1615年)には、無闇に許可を出すことを禁じました。


 ところが、朝廷が幕府の命令を聞くことはありませんでした。

 勿論もちろん、いつまでも看過かんかされているわけがありません。


 寛永かんえい4年(1627年)、幕府は1615年以降に出された許可を取り消すと発表します。


 一方的な宣言は朝廷、そして仏教界の大反発を招きました。特に大徳だいとくの住職であった沢庵たくあん宗彭そうほうは、幕府に抗議文まで提出します。


 この一連の騒動を、先に述べた通り「紫衣しえ事件じけん」と呼びます。


 沢庵たくあん宗彭そうほうは後に徳川とくがわ家光いえみつの相談役となる人物で、たくあんの生みの親とも言われています。詳しくは『亡霊葬稿ゴーストライターダイホーン』の番外編(『食卓に潜む坊さんたち』)をご覧下さい。

https://kakuyomu.jp/works/1177354054880992614/episodes/1177354054881217721


 時の将軍・徳川とくがわ秀忠ひでただは、幕府に異を唱えた沢庵たくあん流罪るざいに処しました。

 また1615年以降に許可を得た僧侶に関しては、幕府に対する詫び状を書かせています。これにより、僧侶たちは紫衣しえを着ることを認められたそうです。


 このように紫は、古くから権威の象徴として扱われてきました。

 しかしなぜ、数多あまたの色の中から紫が選ばれたのでしょうか。


 無論、紫が上品で、深みのある色であることも理由の一つでしょう。

 そしてまた同じくらい影響したと思われるのが、「手間」です。


 長くなったので、今回はここまで。

 色にまつわるシリーズは、「明日自慢出来る(かも知れない)話」史上最長の⑤に続きます。


 参考資料:色彩心理のすべてがわかる本

           山脇恵子著 ナツメ社刊

      週刊日本の100人 №19 聖徳太子

               (株)デアゴスティーニ・ジャパン刊

      週刊日本の100人 №46 徳川家光

               (株)デアゴスティーニ・ジャパン刊

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