第41話:湖面の月とは李白の死因なり(後編)



 ◆◇◆◇◆◇



 一台の高級車が、再び山道を走っていく。


「収穫はあったようだな」

「もちろん。君のおかげでね」


 車内にいるのは運転手のほかに、七城の家を後にした朝日と狭霧だ。朝日にとって、今日一日は収穫があったのかなかったのかはっきりしない日だった。ただ、帰り際に深々とお辞儀をして見送った、あの呼ビ子の少女の姿が妙に脳裏に焼き付いている。


「初めから、これを予測して私を呼んだのか?」


 朝日は狭霧に尋ねる。


「そうでもないよ。本当ならば、俺一人で鎮めるつもりだった。君の乱入は予想外さ」


 涼しい顔で狭霧は答える。本気なのか冗談なのか、言葉からは何一つ読み取れない。


「よく言う。特等席であんな鬼を見せられて、桜木流が黙っているとでも思っていたのか?」

「桜木流が黙っているかどうかは分からない。でも――――」


 と、狭霧は朝日の方へと顔を近づける。その分、朝日は窓際に寄った。


「君ならば、もしかしたら舞台に上がってくれるかも知れないと期待していた」


 また、これだ。狭霧は朝日の意志など関係なしに、勝手に彼女に期待を寄せてくるのだ。改めて、朝日は深々とため息をつく。


「ならば最初からそう言え。思わせぶりなことばかりするからあんたは気に食わないんだ」

「即興だからこそ意味を成す舞踊もある。今回はそれだっただけさ」


 何を言おうと、狭霧の反応は霧のようだ。一切手応えがなく、ただすり抜けていく。目をやれば、そこには絶世の美男子がいるというのに、その言葉は空虚で温度というものがない。


「ふん、鬼だろうと人だろうと、他者の痛みの分からないあんたに、人の心に届く舞が舞えるとでも? 観客をあまり侮らない方がいい」


 だからこそ、朝日はいつものように嫌みを言ったつもりだった。しかし、狭霧の鷹揚な反応は返ってこない。ちらりとそちらに目をやると、彼は黙ったままだ。


「……少し言い過ぎたか? だとしたら悪かった」


 もしかすると、知らずに狭霧の痛いところを突いたのかもしれない。会心の手応えに喜べず、むしろなんだか罪悪感のようなものを感じてしまい、朝日は少しだけ弁解してしまった。


「いや、俺もまだまだ研鑽が足りないと思っただけだよ」


 少しして狭霧はそう答える。果たして朝日の言葉に傷ついたのかそうではないのか、返答からは分からなかった。



 ◆◇◆◇◆◇



「……怖気立つような鬼だった」


 話題を変えたくなり、朝日は先の鎮メ物の感想を口にする。さすがは古の頭角、その殺気も気魄も、現代を生きる頭角とは比べものにならない凄みがあった。だが、朝日は知らない。そんな荒ぶる鬼に、ひるむことなく堂々と立ち向かうことのできた己という存在の価値を。自らが知らず磨き上げた、人太刀の切れ味を。


「かつて鬼神と恐れられた天瀬幸貞だ。そう思うのも無理はないよ」


 恐れを口にした朝日だが、狭霧はそれを揶揄することはない。


「けれども同時に、私は哀れにも思った。鬼も泣くんだな」


 朝日の脳裏に、涙を流す天瀬の姿が蘇る。自業自得、因果応報。そう片づけるのはたやすい。けれども、朝日の心にわき上がったのは憐憫という二文字だった。


「鬼だからこそ、泣くんだよ」


 狭霧は静かにそう言う。かすかな感情が、その美声に混じる。


「彼の渇望が、彼を人からかけ離れた鬼に変えてしまった。たとえ引き返せないと分かっていても、たとえその先が破滅と分かっていても、いや、だからこそ天瀬幸貞は鬼に変わったんだ。変わりたかったんだ。変わらなければならなかったんだ」


 常になく感情を込めて狭霧は言う。深く、静かに、灰の中でなお熱を発し続ける埋み火のように。朝日はそこに、頭角という異種の血の濃さと重さを聞いた。その暗い血は、今なお狭霧の中で脈打っているのだ。そう考えると、角折リとは何なのか。まるで、頭角に与えられた介錯人のようだ。彼らはその刃を受け、従容として死出の旅路に向かう。


「あんたもそうなのか?」


 朝日はそう尋ねずにはいられない。先程変じた天瀬を見た時よりも、肌が総毛立つ。隣に座る當麻狭霧という男が何を考え、何を望んでいるのか。それが心底分からない。分かりたいのか分かりたくないのかさえ分からない。誰よりも何よりも、深く暗い深淵を覗き込んでいる気がして、それがどうしようもなくぞっとする。


「さて、どうだろう?」


 案の定、狭霧の返答は思わせぶりだ。だが、もはや朝日は我慢の限界だった。


「答えろ! 當麻狭霧!」


 普通の自動車に比べれば広いものの、それなりに狭い車内で朝日の手が翻った。同時に、その手に握られたものがある。鞘に収められた一振りの刀が。けれどもそれは瞬時に抜き放たれ、切っ先が狭霧の額にぴたりと当てられた。


「……その刀」


 突然姿を現した本物の日本刀を目にしても、狭霧は動じる様子はない。


「今の今まで、ずっと隠匿で隠し持っていたんだね」


 彼の言葉の通りだ。朝この車に乗り込んだ時からずっと、朝日は気魄で隠したこの刀を持ち歩いていた。ただの一度も、その存在を悟らせることなく。頭角の家に出向くのだ。桜木流が徒手空拳で行くはずもない。


「あんたがあのような鬼に変じるのならば、私が斬る。たとえ刺し違えてでも、せめてその角の一本は黄泉路の灯火にもらっていくぞ!」


 烈火の如く朝日は叫ぶ。鬼に変じた狭霧を、朝日は想像してしまう。あの天瀬を苦もなく引き裂いた彼が、さらに凶悪になった姿を。勝てるはずがない、と思いつつも、それでも朝日は己の闘争本能の丈を口にする。


 いきなり角折リが激昂するなり刀を抜き、それを當麻の子息に突きつけるという蛮行。一連の行動に、運転席に座る運転手の男性が反応した。彼は今まで必要最低限のこと以外何一つしない、影のような存在だった。だが、さすがにこれは見過ごせなかったらしい。慌てた様子で車を路肩に停めようとする運転手に、狭霧が命じる。


「気にしなくていい」


 再び何事もなかったように、自動車は走り始める。運転手にとって、狭霧の命令は絶対らしい。狭霧もまた、何事もなかったかのように目を前にやり、一度大きく息をつく。


「私もまた、求めているんだ」


 一人称が変わっている。朝日は最近分かってきたが、どうも彼の素の一人称は「私」らしい。「俺」は、外面を取り繕って振る舞うときの仮面だ。


「何をだ?」

「……湖面の月を」


 きっと返事をしないだろう、という朝日の予測に反して、狭霧はそう答える。


「どういうことだ?」


 比喩らしいのだが、意味が分からない。


「手に掬おうとしてもできない、いや、できなかった幻だ」


 なぜか彼は過去形で語ると、朝日から目を逸らすようにして窓の外に目をやる。


「もう、二度と手に入らないものだよ」



 ◆◇◆◇◆◇



 ――それは、狭霧の記憶という名の書庫に所蔵された、数年前の夜の出来事。彼のその後を決定づけた、決してぬぐい去ることのできない一場面。


 その場所の名は、八峰やつお磐座いわくらという。複数の亀裂が複雑に地形と地脈を引き裂いてできたそこは陸の孤島であり、同時に日本に住む頭角にとって、特に當麻にとっての至高の聖地である。


 闇と月。燃える篝火。屋外に設けられた能舞台。月は血のように赤く、空には暗雲がたれ込めている。現世でありながら、異界が滲出して形成された、あってはならない空間。清浄と汚濁、神聖と冒涜、秩序と混沌、相反する両端が入り混じり円がれ合う異常な場所。ありとあらゆる要素が、ここが人がいてはならない絶対の禁域であることを主張している。


「……さま」


 狭霧が呟く。手には扇、側頭には能面、そして身を包むのは水干。先程まで彼は舞っていた。完璧に、つつがなく、何一つ欠けることなく十全の舞を完璧に舞い終えた。これこそ當麻の誇りであり、己の存在意義である。故に、それを終えた今、彼は従容として己の運命を受け入れるはずであった。


 ――そのはずだった。


「…………おかあさま」


 狭霧の見つめる先。うつぶせに倒れている一人の女性がいる。艶やかな着物を身にまとった、長身の女性だ。常日頃、ただ静かに座っているだけで、周囲の目が自然と向くような、清楚ながらも確かな存在感のある美しい女性だった。しかし、彼女は倒れたまま動かない。その心臓は拍動を止め、もはや呼吸は止まっている。


「なぜ……です?」


 狭霧がそちらに一歩を踏み出し、しかしそれはできずに彼はその場にへたり込む。極めつけに整ったその顔に浮かぶ表情は、様々な感情の混成だ。違和感、不安、疑問、そして何よりも驚愕。だが、それらが形を成す前に、彼の背中で声がした。


「――氷雨ひさめ


 狭霧が振り返る。彼が耳にしたのは、己の母の名だ。


 そこに立っていたのは、彼の父親、當麻黄雲だった。あたかも幽鬼のような鬼気をまとい、黄雲は立ち尽くしている。


「なぜお前が生きている……?」


 その疑問に、狭霧は答えない。それはほかでもない、狭霧自身の疑問でもあるからだ。


「なぜ、氷雨が死ぬ……!」


 やはり狭霧は答えない。狂おしいほどに、その疑問は彼の心の中で荒れ狂っている。


「なぜ氷雨が死ななければならなかった!」


 黄雲は叫ぶ。その姿は人のまま、声だけが鬼となって絶叫する。


「なぜだ! 狭霧!」


 狭霧が返すものは、ただ沈黙だけ。こんな状況でありながらなおも美しい視線に射竦められたかのように、黄雲は身を震わせ、次いでがっくりと肩を落とす。


「……今分かった」


 そして、彼は口にした。してしまった。


「お前は鬼だ。正真正銘の、當麻が作り出した本物の鬼だ」


 耳に聞いた父のその言葉と、目に焼き付いた母のその姿。この二つが、狭霧の心の中に深く深く刻み込まれる。終生消すことのできない烙印が、この夜彼に与えられたのだ。


 ――ああ、よく分かった。自分が何者なのか、今分かった。確かに自分は鬼だ。





      親を殺す子は、鬼以外の何者でもない。





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花は桜木、鬼は霧 高田正人 @Snakecharmer

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