第40話:湖面の月とは李白の死因なり(中編)
◆◇◆◇◆◇
「なんで? どうして? って顔をしていらっしゃいますなあ」
倒れたままの朝日を見下ろしつつ、銀子が話し始める。
「武人でもないうちが、気脈に触れただけで角折リを寝かせることなど無理難題ですわ。これは七城流華道・菩薩花ノ間。最初からこの座敷は無味無臭の毒で満ちていたんですよ」
七城流華道。それは現代においては古式ゆかしい技法を守りつつ、新進気鋭にも理解のある懐の深い華道として伝わっている。しかし、その家元は頭角である。七城の技は花を生けるだけでなく、異能を用いた攻撃や防御にもたやすく転じるのだ。銀子の気魄は生けた花の香りと混じり、遅効性の毒として対象者を麻痺させ蝕んでいる。
「まったく、角折リの筆頭ともあろう桜木家の方がこうもたやすく術中にはまるなんて、正直失望しましたわ」
返答のあるなしにかかわらず、次第に銀子は饒舌になっていく。
「狭霧ちゃんはずいぶんと御宅のことを高く買っているようですけど、うちはそこまで甘くありません。この程度で當麻の隣に立とうなんて、少々おこがましいと違いますか?」
詰まるところ、銀子は初めから朝日を試そうとしていたのだ。一皮むけば、そこにいるのは華道に通じた優しげで色気のある女性でなく、花を自在に武器へと変える恐るべき頭角である。當麻の家の頭角が一目置く朝日の実力がいかほどのものか、やはり頭角としては己の実力を持って試さざるを得ないのだろうか。いや、それだけではないようだ。
銀子の言葉の端々には、ある感情が見受けられる。それは嫉妬だ。朝日に対する嫉妬の念が、こうして銀子に異能を使わせるようけしかけたのだ。本気で銀子が狭霧を愛しているわけではないようだが、それでも狭霧が特別関心を払う朝日に対して、決して穏やかな感情を抱いていないことはよく分かる。
「ああ、そういえば御宅、狭霧ちゃんと決闘して負けてますか。まあ、當麻に勝てないのは当然として、斬った張ったに不得手な七城にも後れを取るのは、少々困りますなあ」
銀子の口調と目つきには、侮蔑の感情が見て取れる。彼女の手が側にある花鋏を取ると、気魄を通していく。花を剪定するそれは、人の気管を断ち切る凶器にも変わる代物だ。
「さて、どうしたものでしょうなあ。これでは生かすも殺すもうち次第という感じになって、少々困ります。――――ねえ?」
そっと花鋏を倒れた朝日の喉元に突きつけようとした銀子だったが、その目が驚きに見開かれた。瞬間、それまでぴくりとも動かなかった朝日の右手が閃光の如き速さで振るわれる。
「えっ――――!?」
◆◇◆◇◆◇
とっさに飛び退いた銀子は、やはり戦闘を不得意とする七城の家ながらも、一端の頭角である。常人なら反応する暇もなく、手刀を首筋に受けて悶絶している。だが代わりに彼女の持っていた花鋏は、朝日の手刀を受けて手からすっぽ抜け、部屋の隅へとはじき飛ばされた。腰を落とし身構える銀子を尻目に、ゆっくりと朝日は立ち上がる。
「もう解毒したんですかっ!?」
毒が薄すぎたか、と舌打ちする銀子をよそに、朝日は平然と言い放つ。
「とっくの昔にしているが?」
朝日の目に動揺や緊張はない。
「まったく、一見すると無抵抗になった相手を前に、とどめを刺さずに長広舌とはな。確かに七城の家は斬った張ったに不得手と見える」
と、このように皮肉を言う余裕さえある。
朝日の主張は負け惜しみではない。中毒したのはほんのごくわずか。すぐさま朝日は自分の気脈を励起させ、銀子の気魄を弾くと同時に肺と肌から侵蝕してくる毒を中和した。今まで中毒したように倒れていたのは、相手の油断を誘うため。案の定銀子はすっかり彼女の演技に騙され、こうして攻守は逆転しようとしている。
「まあいい。さんざん振り回されたが、ようやく見つけたぞ」
軽く首を回し、朝日は銀子を睨む。まるで、アスリートがウォーミングアップを終えたかのような態度だ。
「な、何……を?」
彼女の迫力に飲まれつつある銀子の質問に、朝日は薄く笑って答える。
「虎穴の虎児だ」
それは、今日ずっと彼女が求めていたもの。即ち、狩るべき獲物だ。
一瞬の踏み込み。朝日は右手を振るう。握られているのは空気に気魄を通してできた白刃。桜木流撃剣・万象一刀。桜木流にとって刀とは、すなわち気魄を通すことが可能な森羅万象である。殺意の具現から、銀子は身を低くして何とかやり過ごす。着物姿でありながら、その動きは常人ならば目で追えないほど軽捷だ。
だが、単に速いだけで角折リから逃れられるはずもない。脇をすり抜けようとする銀子だが、彼女に対し朝日は手の内の白刃を消し、即座につかみかかる。刀はフェイントだ。体勢を崩してそれからも逃れようとする銀子に、朝日はすかさず肩口から強烈な体当たりを浴びせる。
「ぐぅ……っ!」
のけぞる銀子の襟首を掴み、足を払い背負い投げへ移行。
死に体となった相手に、回避不能の追撃を行う桜木流撃剣・落暉追蹤。朝日の得意とする技だ。朝日が銀子を投げたのは、畳の上ではなく座卓の角。そこに額を叩きつける――のではなく触れるだけに止め、一旦彼女を離すと間合いを仕切り直す。
「まずは一本」
朝日は宣言する。実際に折らずとも、実質銀子の角の一本を折った形だ。
言葉をフェイントに、朝日は左手を振るう。手裏剣となった気魄が投擲され、銀子は気魄を通した着物の袖で払う。と同時に朝日が飛びかかる。ほぼ先程の再現だ。だが、今度は違う。銀子は床の間の方へと後退し、そこにあった蔓で編んだ花籠に触れる。
「七城流華道・捩レ藤」
銀子の言葉と共に、指先から気魄を通された花籠がひとりでにほどける。
それは籠から何本かの蔓へと変わり、すぐさま互いに絡み合い一筋の長い縄へと変わる。いや、それは鞭だ。ここは七城流華道の座敷。ならばこそ花器さえも武器へと変じる。元より七城の頭角は、己のみならず草花を変質させる異能の持ち主だ。故に蔓で編んだ花籠は、銀子の気魄を浴びて分厚い戸板すら割る鞭へと姿を変える。
相手が得物を手にしても、むしろ朝日は嬉しそうに身構えた。ようやく、今日という日に得るものがあったと感じ、その心は躍っている。銀子が鞭を振るう。空気を弾く身の竦むような音を意に介さず、朝日は右手の白刃に鞭を絡みつかせ、左手からもう一本白刃を作り出す。流れるような二刀流と、異形の鞭とが客間という空間で幾度も交錯していく。
◆◇◆◇◆◇
「……弱い」
朝日と銀子、すなわち角折リと頭角の争いはあっさりと決着がついた。
「何もかも弱い。一撃に威力がない。動作が見え見えで直線的すぎる。気魄が錬られていないから浸透しない。手足をもがれても首を落とすという気概がない。総合的に見て戦力外だ」
散々な評価をする朝日の視線の先に、得物を失った銀子が荒い息で伏せている。
畳の上に散らばっているのは、引き裂かれた蔓の鞭だ。気魄を通されたそれは、単にしなるだけでなく巻き付き、追尾し、さらには先端で突くという異様な鞭だったが、朝日はそれをこともなげに素手で弾き、さらには気魄による白刃で寸断してのけた。
「さて、どうしたものか。これでは生かすも殺すも私次第という感じになって、少々困る」
先程の意趣返しとばかりに、朝日は銀子の言葉をまねてそう言う。
「――とでも言えばいいか?」
だが、そこまで言われて無抵抗な七城流ではない。こちらを上目で睨む銀子の手が、落ちていた花鋏をつかむのを見て、朝日は笑う。
「そうこなくては」
滑るように間合いを詰めようとした朝日の目が、不意に真横へと向けられる。
「これは……っ!」
体を捻って転がり、朝日はその場から退く。一瞬後、不可視の気魄の塊がその場を薙ぎ、空気を歪ませる。
「そこまで」
次いで襖が開く。角折リと頭角の争いの場に悠然と入ってきたのは、狩衣から私服に戻った狭霧だ。襖を開くことなく気配だけで朝日を狙い、しかも襖を透過して気魄を放つという離れ技を披露したにもかかわらず、平然としている。
「済まなかったね。退屈していたんだろう?」
殺気を放つ朝日と銀子の双方に目をやり、なおも狭霧はそんなことを言う。
「これを全部あんた一人のせいにしろ、と言いたいの?」
「もちろん、そう取ってくれても構わないよ」
まるで空気を読まない発言に、朝日はしばらく苛ついた様子を見せていたが、やがて大きく息をつく。
「興が削がれた。あんたの顔を見ていると真面目にやるのが馬鹿らしくなる。そうでしょう? 七城さん」
いきなり話題を振られ、銀子はうろたえる。
「え、ええ……そう、かも」
手を花鋏から離して立ち上がる彼女に、朝日は一礼する。
「七城の手並み、拝見させていただきました。戦場を離れた技芸でありながら、修羅を忘れぬ精神、お見事です」
◆◇◆◇◆◇
その後、何事もなく朝日と狭霧は七城の邸宅を後にした。走り去っていく車を見送り、その姿が見えなくなってようやく、銀子は自嘲気味の笑いを口元に浮かべる。
「……あれが桜木流」
つくづく、自分の見立ては甘すぎた。これでは、素人が花を適当に切り刻み花瓶に突っ込んでいるのと何ら変わりない。何とも無様だが、自業自得である。
「与しやすしと侮っていたら、とんだしっぺ返しをいただきましたわ」
これが昔だったら、今頃自分の二本の角は折られていたはずだ。
「でも、だからこそ狭霧ちゃんは気に入っているんでしょうなあ」
古来の剣豪さながらの朝日の太刀筋を思い出し、銀子は着物の袖で口元を隠す。
「精進なさいな、桜木朝日さん。それが、狭霧ちゃんの望みなんですから」
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