第39話:湖面の月とは李白の死因なり(前編)



 ◆◇◆◇◆◇



 朝日の乱入があったものの、鎮メ物が滞りなく終わってからしばらく後。七城の邸宅の奥座敷に、當麻狭霧がいた。座布団の上に座り、その手に天瀬幸貞の鋭角を持つ彼の出で立ちは、未だ狩衣のままだ。彼の真向かいにかしこまって座っているのは、あの呼ビ子の少女である。彼女の名前は奈井江日菜ないえひな。狭霧に仕える山都琲音と同じ仕え家の出身だ。


「大事ないですか?」


 しげしげと鋭角を眺めていた狭霧だったが、今気づいたかのように顔を上げ、日菜に声をかける。声音は優しいが、何の感情もない。美麗だが同時に怜悧さをたたえている。その声にますます日菜は縮み上がる。


「は、はい。だ、だ、大丈夫、です」


 頭角をよく知る仕え家であるからこそ、彼の異質さを全身で感じているのだ。


「それはよかった。頭角の気魄を宿すのは、それ専門の仕え家といえども、心身に負担がかかるものですからね」

「き、気遣って下さり、ありがとうございます」


 額を畳に擦りつけんばかりにして、日菜は頭を下げる。まだ小学生の彼女には、今回の鎮メ物は正真正銘の大仕事だった。早くお家に帰りたい、と日菜は内心では半ば泣いている。


 元より奈井江の家は、頭角の気魄を受け入れる器であり、その思念を憑かせる依代の家だ。巫女や呪術師の家系と言ってもいいだろう。一際強い感受性と、他者の心との共感、さらには意図的に自我を抑制する異能が遺伝的に受け継がれている。だからこそ、極めつけに完成された頭角である狭霧を前にし、日菜は猛烈に怯えている。


 常日頃、桜木朝日は當麻狭霧を評して、霧のようにつかみ所がない奴だと言っている。その点においては、奈井江日菜も同感である。だが、それ以上に日菜は狭霧の気魄に共鳴してしまっている。言わば、得体の知れない恐ろしい霧に包まれているようなものだ。角折リならまだしも、頭角の異能に感応してなお、平常心を保てる人間などいない。


「礼ならば、むしろ彼女に言った方がいいでしょう」


 狭霧の目が日菜を見る。


「……彼女、ですか?」


 顔を上げた彼女は首を傾げた。


「ええ。桜木流撃剣の人太刀、桜木朝日さんに。ほかでもない彼女が、あなたが身に宿した頭角の残響を、余すところなく消し去ったのですから」

「桜木、朝日さん…………」


 呼ビ子としての役を果たす間、彼女の意識はない。けれども、日菜はかすかに覚えていた。自分を満たしていたあの禍々しい気魄を切り裂いた、陽光のような鋭くも暖かい一閃を。


「もう下がっていいですよ」


 狭霧にそう言われ、日菜は跳び上がった。


「し、失礼しましたっ!」


 大慌てで彼女は、奥座敷を後にする。もう一度、桜木朝日の名を呟きつつ。



 ◆◇◆◇◆◇



「あなたの遺した迷いは消えましたよ、天瀬幸貞殿」


 襖が閉められ、今度こそ狭霧ただ一人が奥座敷にいる。未だ、狭霧は天瀬幸貞の鋭角から手を離さない。芸術品のような細い指で角の曲線をなぞりつつ、彼は呟く。今、この角に宿っていたはずの天瀬の残響はどこにもない。桜木朝日との邂逅が、彼の妄念を吹き散らしてしまったのだ。


「あなたは手に入らぬからこそ、美しいと申しましたね」


 狭霧が呟くのは、朝日に角を折られた天瀬の言葉だ。天瀬は、彼女に己が固執した柳井秋水の姿を重ねていた。


「ですが、私はそうは思いません」


 しかし、唐突に狭霧は彼の言葉を否定する。


「たとえそれが湖面の月であろうとも、私は……!」


 湖面の月、すなわち水月。それは手にできぬ幻。


 狭霧はそう言うと、手の中の鋭角を握りしめる。頭角の異常な怪力を受け、鋭角が軋む。彼のその口調は、普段の万事柳に風と受け流す態度とは異なり、はっきりとした感情が込められていた。執拗とも言える、強い願望が。確かに彼もまた、天瀬と同じ頭角、すなわち鬼なのだった。頭角は皆、己の渇望によって鬼と化すのである。



 ◆◇◆◇◆◇



「いやはや、お手柄ですなあ、桜木朝日さん。さすがは桜木流撃剣の人太刀、お見それしましたわぁ」


 一方こちらは朝日と銀子。二人がいるのは、七城の邸宅の客間だ。華道の家元である七城家の客間だけあって、あちこちにさりげなく季節の花を生けた花瓶や花籠がある。そして、座卓を挟んだ向かいにいる朝日を、先程から銀子が誉めちぎっていた。


「まさかあの天瀬幸貞を鎮めたのが、頭角の當麻じゃなくて角折リの桜木だなんて、本当に餅は餅屋ですわ」

「そちらでは鎮めるなどと申しますが、特別なことをした覚えはありません」


 熱烈な賛辞を受けても、朝日はまったく嬉しそうな様子を見せない。銀子の誉め言葉を額面通りに受け取っていないことは一目瞭然だ。


「ただ、常日頃思っていたことを言葉と行動にしたら、ああなっただけです」

「んもう、本当に御宅は謙遜ですなあ。さすがは狭霧ちゃんが連れてきた方ですわ」

「あいつが……」


 狭霧の名を口に出され、朝日は表情を硬くする。


「つまり、私はいいようにあいつに利用されたというわけか。ふん、桜木家のマネージャーにでもなったつもりか?」

「そんなこと言って。あんな好男子に使ってもらうなんて、なかなかおいしい体験じゃありません? なにせあなたは人“太刀”なんですから」


 銀子が茶化すが、朝日はさらに渋面になる。


「桜木は人界のための太刀です。いくらあいつが生来見目麗しかろうと、桜木の太刀を使わせる気は毛頭ありませんから」

「あらあら、相変わらずつれないですなあ」


 朝日の称号である人太刀。桜木流撃剣を修めた角折リに与えられるその名は、角折リとしての誇りそのものである。銀子の言うように自らが太刀であるからといって、當麻の頭角に振るわれるなど論外だ。菜切り包丁代わりに、人参や大根でも刻んでいる方が余程ましである。


「……それに、やっぱり御宅は當麻のことを何一つお知りじゃないようで」


 それまでの賞賛から手の平を返すように、再び銀子の目に蔑みの感情がこもる。


「どういう意味です?」

「御宅、狭霧ちゃんのことを何だと思ってるんです? お釈迦様よろしくお母様からお生まれになったと同時に二本足で立って『天上天下唯我独尊』と宣ったとでもお思いで?」

「回りくどい言い方をしないで下さい。何が言いたいんですか?」


 単刀直入な朝日の問いに、一度軽くため息をつくと、銀子はこう言った。


「狭霧ちゃん、生まれてから物心つくまでは、ごく普通の顔形でしたよ」

「何ですって!?」


 それは爆弾発言そのものだ。朝日は今まで、狭霧は生まれながらのあの美貌だと思っていた。しかし今、同じ頭角である七城銀子はそれを真っ向から否定する発言を口にしたのだ。


「おやあ、やっぱりご存じないようでしたねえ。まあ、それも当然ですなあ。何しろ御宅は頭角ではなくて角折リですし」

「……本当なんですか?」

「もちろん。今みたいな眉目秀麗な顔立ちは、ある時を境に後天的に身についたものですわ」


 探るような目を朝日は銀子に向けるが、彼女は動じない。どうやら、嘘は言っていないようだ。


「いったいどうして?」


 しかしそうなると、朝日の心の中で夏の入道雲のような好奇心が沸いてくる。ならばどのような経緯を経て、あの生粋の頭角はその血にふさわしい美貌へと変じたのか。あたかも、毛虫が蛹を経て美しい蝶へと転じるかのように。


「知りたいですかねえ――?」


 朝日の問いに、銀子は嫌みを混ぜた意味深な笑みを浮かべる。


「ならば、直接本人に聞くのが一番ですわ。でしょう? そもそも、うちが勝手に言っていいものかどうか分かりませんしねえ」


 正論だが、朝日は首を横に振る。


「あいつに尋ねてものらりくらりとかわされそうです。今まで質問にまともに答えが返ってきたためしがない」

「難儀ですなあ」


 再び銀子はため息をつくが、急にその顔をにやつかせる。


「なら、入れ知恵しちゃいますかねえ。こうすれば、狭霧ちゃんが素直に言うことを聞いてくれますよ」


 銀子が手招きをするので、朝日は仕方なく座卓をぐるりと回って彼女の隣に近寄った。


「それはですねえ……」


 そっと、銀子は朝日に耳打ちする。


「熱くて情のかよった、男女の深ぁい仲になることです」

「はぁ?」


 突然の銀子の提案に、朝日は呆れる。


「あら、まるで木石みたいな反応ですこと」

「男女の仲ですって? 桜木と當麻、しかも学生に対してする提案とは思えませんね」

「ふふ、うちは単に恋仲になってみれば、って提案しただけですわあ。夫婦になるようなことは勧めていません」

「左様ですか」


 朝日には、なぜ周囲がことごとく自分と狭霧をくっつけようとするのか心底理解できない。


「桜木さん、なかなか器量よしですし。抜き身の名刀みたいなお顔と振る舞い。ふふふ、美しいものが好きな頭角には、ちょっとだけ目の毒ですわ」


 対して、ここぞとばかりに舌がよく回るのは銀子の方だ。


「せっかく見所のある原石ですもの。少し刀だけじゃなくて、女性としての魅力も磨いてみてはいかがです?」

「女性としての、魅力…………」


 そう言えばすっかりご無沙汰となっていた「かヨワ系女子」という目標を思い出し、朝日は内心ため息をつく。


「なんでしたら、七城流華道のうちが手取り足取り作法を教えて差し上げましょうかねえ? こういうのはお嫌い?」


 銀子の手が近づくと、畳の上の朝日の手に重なった。


「な、なにを……」

「そう硬くならないで。ほら、こうやって手を――」


 瞬間、朝日の全身から力が抜けた。脱力、という言葉さえ生温いほどの急激な変化。重ねられた銀子の手が、朝日の気脈を押さえている。


「ほら、手を取ってみました」


 目を見開いたまま畳の上に倒れた朝日を尻目に、銀子は着物の袖で口元を隠しつつ立ち上がる。


「七城流華道、花を生けるだけが能ではございません。――――なんてねえ?」



 ◆◇◆◇◆◇



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