第6話 クマガイウス2
クマガイは自分の人生に懐疑を抱いていた。
スラム街生まれでありながら、誰一人頼る当てのない孤児だったクマガイは、想像しがたい波乱万丈な少年時代を送り、周りから『飢え熊』という異名を得るにいたる。そして彼は青年になっても相変わらず目に見える者すべてを敵と見なして暴れまわっていた。そんなある日、ノビトファミリーのファーザーであるノビトリウスが、どこから噂を聞いたのかクマガイを直接尋ねた。その日、ふたりの間にあったことは誰にも知られていないが、結果として、クマガイはファミリーの一員としてノビトリウスに引き取られた。それがもう十三年も前のこと。その日以来、彼は充実な犬として組織に仕えて来た。命令されたことはそれがどんなことであろうとも、ただ黙々と実行する彼を、一部の人間は『飼い熊』と揶揄したりしたが、それは彼の仕事の完璧さを反証するものでもあった。誰よりも凶暴で、忠実で、冷酷だったクマガイは、そうやって十三年をファミリーの一員として過ごし、三十四歳にして、ファミリーの三大領域のうちのひとつである、歓楽街の界隈を任される重役となっていた。
ファミリーで築いた彼の地位は相当なもので、本人が望もうが望むまいが、周りに次期ファーザー候補の一人とさえ見られていた。
しかし地位や権力のことなど、クマガイは一度も気にしたことがない。彼はただ、子供の頃から胸の奥底、心臓の底辺にこびりつく、言いようのないイラつきをどうにかしたいだけだった。暴れている間には忘れることができた。ファミリーに所属すると、暴れるのに困ることもなかった。だから暴れて、また暴れて、そうやって十年が経った頃、ファミリーから荒事を頼まれることも少なくなった。だからと言って彼の中のイラつきが消えたわけでもなかったが、もう青年ではない彼は自分勝手なことができないこともよく知っていた。途方に暮れたクマガイの中で日々ドス黒い感情が渦巻いて行くある日、彼は自分に似すぎた少女と出会った。
久しぶりに荒事を頼まれてクマガイは、ファミリーの名を汚す無頼漢の自宅で鎖に繋がっていた少女を見つけた。無頼漢は商品だと言っていた。運悪く闇商人の家をあさっているところに捕まってしまい、そのまま商品になったという。
わけありの子供など今までなんども見てきたクマガイだったが、なぜかこの時、彼はヤミポルが気になって仕方がなかった。弱々しく震えてはいたが、それでも誰にも媚びようとしない少女の目に見覚えでもあったのかも知れない。
そして彼は、なにか考えがあったわけでもないのに、無意識的に少女に手を差し伸べて連れ出してしまった。
何を言ったわけでもないのに自分についてくる少女。月が照らしたのその顔に、閉じ込められていた時のような苦痛の色はなかった。少女の手を引きながらスラム街を歩いていたその夜のことは、なぜかクマガイの心に深く刻まれた。
その翌日、少女の面倒など見られるはずもなかったクマガイは、自分が管理することになった風俗店に預けてしまった。
そしてまた三年が過ぎた。
店やカジノの管理をするだけで、大きな波風も立たない毎日だった。自分が連れてきた少女にはヤミポルという名前をつけてやったが、人と関係を作ることが極端的に苦手な彼は、少女が苦手になって距離を置いた。たまに店で過ごしていることを確認するだけで、それ以上構うことはまったくなかったが、ヤミポルは彼の冷たい態度にも関わらず、クマガイが顔を見せる時は常に嬉しそうに近づいて来た。
『飢え熊』には穏やか過ぎる日々と思われた。だがいつの間にか、彼の中のイラつきは消えていた。年を取ったせいか、もしくは長く続いた安定に馴染んでしまったせいか、それとも。
ある日、クマガイは初めて、家族ということを真剣に考えてみることになった。
もしかしたら、自分にもそんなものが出来てもそれが悪いことではないかも知れないと。
もしかしたら、このまま今の生活を続けていたら、そう呼べるものが出来るのではないかといと。
急にバカバカしくなったクマガイはすぐに考えることをやめたが、彼はその妄想を悪いとは思わなかった。
だが、クマガイの安穏な日は突然に終わった。
ゴウダルクスが、帰って来たためである。
ファミリーのファーザー、ノビトリウスは血縁の家族を持っていない。そんな彼に『息子』と呼ばれる数人の男があるのだが、ゴウダルクスはそのうち、一番最初に息子と呼ばれた男だった。
つまりはノビトリウスの義理の長男。ファミリーの序列では、ノビトリウスの青年の頃から生死を共にした『兄弟』に次ぐ、三位となっている。クマガイもノビトリウスから息子と呼ばれてはいるが、序列ではゴウダには及ばない。実権も地位もクマガイの上に立つゴウダだったが、どうしたものか、クマガイをファミリーが受け入れたその日から、彼は事ある度にクマガイに絡んで来ては、ちょっかいを出した。周りはそれを牽制だと言ったが、クマガイは面倒くさいとしか思っていなかった。
そんな微妙な関係だったが、ファミリーが大きくなるにつれて会うことも減っていたため、クマガイが三十路になった時にはちょっかいを出されることもなくなっていた。
実力者であるゴウダは、三年前、ノビトファミリーが中央への進出を目指すこと決めると、ノビトリウスと共に都市の中央に向かった。誰もが後継関係をはっきりとする人選と思い、ゴウダはかなり喜んでいたという。もはやファミリーは彼のものであると、誰もが疑うことなかったのだが、先月、生まれつき血気盛んで乱暴者だったゴウダはその血気を持て余し、三年間の時間を蹴り飛ばすような事故を起こしてしまった。ことはゴウダひとりに留まらない大事件。当然ゴウダはノビトリウスの怒りを買い、とりあえずことが静まるまで身を隠すためとクマガイがいる歓楽街へ飛ばされたのだ。
しかしそんな失態を公に晒すこともできないファミリーの立場もあって、ゴウダは歓楽街を管理に力をいれるという名目で、ノビトファミリーが歓楽街に持っている最も重要な資金源であるカジノを任されることになった。
言い換えれば、歓楽街のノビトファミリーの区域はクマガイの手からゴウダに移されたのである。
クマガイを慕っていた者たちは当然のように反発したが、当の本人がそのようなことに興味がなかったため、ゴウダは難なく歓楽街を手に入れた。
そしてまた、クマガイとゴウダの間に軋轢が生じた。
「なあ、ブラザー。最近は集金は部下に任せっぱなしだそうじゃねえか。ちっとたるんでんじゃねか?おやじもブラザーくらいの年には集金に勤しんでいたというのによ」
それはゴウダが歓楽街に来た翌日、カジノに繋がった質屋に居座ったゴウダが、大事な話があるとクマガイを呼び出しての言葉だった。
要は嫌がらせ。ノビトリウスが30半ばの時に集金をしていたことは事実だったが、それは30年も前、ファミリーと言っても5人しかいなかった時の話だ。小さな組織ならまだしも、ノビトファミリーは相当な規模の組織。ゴウダだってファミリーに入って1年くらいしか集金を回っていない。
それでもクマガイは特に文句を言うことなくゴウダに従った。元々体を動かすほうが性に合う人だったので、それほど不満がなかったのだろう。
しかしゴウダのちょっかいはそれで終わらなかった。ファミリーの幹部と言えるクマガイを下っ端の争い事に向かわせたり、わざわざ部下の前でタバコのお使いを頼んだりなど、怒らせようと必死としか思えない嫌がらせの数々を、ゴウダは楽しんでいた。
そして昨日もゴウダはクマガイを呼び出していた。
「おー、来たな、ブラザー。我がファミリーのイカレ熊!」
場所はいつもの質屋の事務室。
この日も嫌な顔ひとつせずに、クマガイは呼び出しに応じた。
そんな彼を白々しくおだてながら迎えたゴウダは、今度もまた無茶なことを言い出した。
「お前が預かってる風俗なんだがな、あんま数字がよくないらしいな。ちょっと見直すべきじゃねえか?」
カジノの管理がゴウダに移ったことで、歓楽街のほぼ全権がゴウダのものとなっているのだが、さすがにゴウダもクマガイになにも残せないことはできなかったため、引き続きクラブソドマはクマガイの手に残っていた。風俗は昔からこの手の者達には大事な金づるだったが、ノビトファミリーくらいの組織となると、そうでもなかった。なにせ、小規模とは言え、それこそ金の実が実る木であるカジノが同じ区域にいるのだ。どこに力を入れるべきかはどんなに学がなくとも一目瞭然なこと。カジノに比べたらクラブソドマなど―もちろんその辺の風俗よりは稼いでいるが―比べられるものではない。
なのにゴウダは、今度はクマガイに残ったクラブソドマにまで茶々を入れようとしたのだ。
「まあ、心配すんなブラザー。この俺がわざわざいい案を考えて来たんだ。あの風俗潰して、2軒目のカジノの建てるんだよ。どうよ?いい考えだろ?」
弟思いだろ?と、オフィスチェアにもたれかかったままのゴウダが図々しいことこの上ない言葉を放つが、クマガイはただ黙って話を聞いていた。
「でもまあ、あそこはお前の領分だからな。この仕事はお前にやらせようと思ったわけよ。物の片付けは誰がやっても同じだが、人間の整理はそうはいかんだろ?」
ゴウダは義理を立てて遠慮してやったという心にもない言葉を厚かましく喋り続けた。もちろんクマガイはそんな言葉を素直に信じるほど愚かではなく、ゴウダの言葉にいちいち怒るほど性急でもなかった。ただ静かに、ゴウダの話が終わることを待っていたのだが、次にゴウダの口から出た話には、さすがのクマガイも動揺せざるを得なかった。
「いま店にいる女、全員売り飛ばしてくれ。できるだけいい値段でな。もちろん、出来上がったカジノはお前にやるよ。元々お前の領分だったからな」
今のクラブソドマを潰すから、その中にいる女たちを全員、どこかに売ってこいという、普通の人が聞くと仰天してしまう話を、ゴウダはまるで子供にお使いを頼む軽さで言っていた。
顔はいつもの平静さを失わずにいたが、クマガイは内心、かなり困惑していた。
どんな組織であっても、構成員を追い出すことは嫌な役目として避けられてきた。だから最高責任者が自ら行ったり、それとも請け負った人に十分な報酬を与えるのが普通である。ましては今度は売り飛ばすという外道な話。ファミリーの一員として様々な犯罪を犯して来た彼がいまさら道徳や良心を語るわけではなかったが、長い付き合いのせいか、彼はその言葉にかなりの拒否感を感じていた。
しかし数字に詳しくないクマガイはクラブソドマを潰してカジノにするという話には反論するすべを持っていなかった。
だがこの手の筋を知っている彼は、その筋が通らない理由を口にした。
「……今あそこにいる女は普通の女なんです」
普通、このような組織の元にいる風俗店では組織に借金がある女や、脅迫されて不利な契約を結んでいる女が大半を占めている。
だがクマガイが管理をはじめてから、彼は無理な金利と脅迫で女を繋げたりせず、元金さえ払えたなら店をやめようが一切に気にしなかった。それは別に人情による措置ではなく、ただそういう金稼ぎに興味がなかった彼が回りくどいことを嫌った上、ヤミポルを預けているという負い目を考慮したものだった。
その結果、現在クラブソドマには自らが望んで商売をしている女性しかいなかった。待遇がいいという噂が広まって、この業界では優秀な人材が集まっているのだ。
つまりは、クラブソドマにいる女たちはカタギで、ファミリーが勝手に売り飛ばしたりはできないという趣旨での言葉だった。
ゴウダはクマガイの言葉を聞いて目を丸くした。そんな答えが聞けるとはまったく予想していなかったように。そして彼は、ドツボの漫才でも聞いたように笑い出し、たまらないとオフィスチェアをぐるぐると回転させた。
「カハハハ!おいおい、なんの冗談だよ。売女に普通もクソもねえだろ!雑巾を区別して使うのか?カハハハ!!」
「だから、今あの店にはファミリーに借りがある女などいないということですよ」
ゴウダが自分の言葉の意味を理解できなかったと思ったクマガイは、改めて説明したが、ゴウダは笑いすぎて腹が痛いという風に手を振って彼の話を止めた。
「はは、それで?正規の職員だから退職金でもあげろってか?ブラザー、笑わせてくれんなよ。あそこはファミリーの所有で、そこで働いている売女も全部ファミリー所有だ。俺は資産を現金に変えて来いって言ってんだよ」
話が終わる頃には、ゴウダの顔から笑いは消えていた。
その顔に残っていたのものは相手を射抜くような鋭い視線。ただ睨めているだけで、首を締められるような圧迫感を与えることができる人間だった。
当然だが、彼がクマガイの意図を理解できなかったわけではない。クマガイに自分の話がどれだけおかしいものかを知らせるための笑いだったのだ。
「どうしたんだよ『無言実行のイカレ熊』。年取っていろいろ緩くなったのか?」
自分たちが何者なのかを忘れたんじゃないだろうなと、椅子から起き上がったゴウダはドスの利いた声でクマガイを威嚇して彼の返事を迫ったが、クマガイはその威嚇を正面から受けてなお、ただ沈黙を維持した。
ゴウダもまた、この程度の脅しではイカレ熊と呼ばれた男はビクッとももしないということを知っているので、すぐに険悪な空気を切り替えて、クマガイという弟を持つ『アニキ』の顔に戻った。
「ふう……俺も別に嫌がらせで言ってるわけじゃないんだぜ?なあ?わかるだろ?これはビズネスなんだよ」
椅子に戻ったゴウダは、両手を組んで『ビズネス』を語る。そしてクマガイに最終確認を取った。
「ファミリーのビズネスを拒むのか?」
そこまで言われると、もうクマガイに抗える術はなにもなかった。
結局いつも通り、黙々と仕事を受け入れたクマガイを見て、ゴウダは満足そうな笑顔になった。
もう用事が済んだと思ったクマガイが事務室を出ようとすると、ゴウダが思い出したように彼を呼び止め、忘れていた言葉を言い添えた。
「あ、そうそう。あのガキの売れ道がなかったら言ってくれよ。いい客を知っている」
「!」
誰を指しての言葉なのかは言うまでもない。ゴウダはヤミポルさえファミリーの資産に入れていたのだ。
クマガイはとっさになにかを言おうとしたが、言葉が喉を通る直前でそれを止めた。ここでヤミポルを庇うようなことを言うと、きっと状況は悪化するだろうという予感があってのことだった。
自分を意味ありげに見つめて来るゴウダの視線を無視して、クマガイは承知したという趣の返事を残してその場を離れた。
そして今日、どうするべきか判断がつかなかったクマガイの悩みは深まって行き、やがては自分の人生を振り返るに至ったのだ。
なぜ自分は悩んでいるのか。ゴウダの言っていた通り、以前の自分なら迷いなくことを済ませていただろう。しかし今は、どうしても女たちを、なによりヤミポルを売り飛ばすという仕事を実行する気になれない。それはなぜなのか。なにが変わったというのか。なにを失いたくないのか。
そんな思いが絶え間なくクマガイの頭の中で渦巻いたが、何ひとつが答えが出ることはなく、程なくして、彼は考えることをやめた。
しばらくベットに座って空を見つめていたクマガイは、なにを思ったのか外出の準備を始めた。
・
・
・
「あら、クマガイさん、さっき店長が話たいことがあるって探してたの。控え室の方で待ってると思うんだけど」
クラブソドマの門を潜ったクマガイを迎えたのは店のトップの人気を誇るタカネだった。
クマガイの外見と噂のおかげで、店の人達の中でも気軽に話をかける人はいないが、タカネだけはたとえクマガイが相手でもいつものペースで話をかけていた。
クラブの店長が自分を探しているという言葉を聞いたクマガイは、もしかしてゴウダの話がもう伝わっているのかも知れないと、顔を曇らせたが、それをタカネに悟れる前にその場を離れた。
店の倉庫に入ったクマガイは店長の姿を探したが、そこに人の姿はなかった。
営業中の控え室に女たちが誰もいないのはかなり珍しかったが、店のことの話すには都合がよかった。しかし当の店長の姿もなかったので、クマガイはおかしいと思いながらも、店長がその場で店長が来るのを待つことにした。それから間もなく、控え室のドアが開いた。
「どこに――なんだ?」
「ええと、ここの掃除を頼まれて」
しかし入って来たのは若い清掃業者だった。
「そうか」
店長が来る間に少し考えをまとめたいと思っていたクマガイは、間が悪いなとつぶやく。
だが業者をわざわざ追い出す必要も感じなかったので、彼は掃除があるなら仕方ないと思い、清掃作業の邪魔にならないよう部屋を出ようとしたが、どうしたものか清掃業者は慌ててそれを止めた。
「いやいや、座ってて大丈夫です。これは――そう、壁の掃除なのでまったく問題ないです」
クマガイを追い出すようになって気が引けたのだろう。
別に邪魔されたとも思っていないし、掃除中に自分がいてどうするのかと思ったクマガイだったが、特にどこかに行こうとしたわけでもなかったのでその言葉に甘えることにした。
それからしばらく、若い清掃員のどこかぎこちない手際の清掃作業が続いた。
場を包む静寂。
重くのしかかる沈黙に耐えられなかったのか、清掃業者の方からクマガイに話を掛けてきた。
「あの……」
「なんだ」
ゴウダに言われたことを考えていたクマガイは、つい押し殺した声で聞き返した。
その迫力に清掃員はかなり怯えた様子を見せ、慎重に言葉を選んだ。
「あ……こ、ここに子供あるじゃないですか」
「なにが言いたい」
清掃員の口からヤミポルの話が出ると、クマガイは明らかに不機嫌になって、眉間にしわを寄せた。
それを見た清掃員は、慌ててヤミポルの話を持ち出した理由を語り始めた。
「いや、なんというか、たまにちょっと話したりしたんですが、やたらクマガイさんという人の話をしたがるんです。クマガイさんって、あなたのことですよね?」
「……それがなんだ」
普段なら興味のない話など無視して過ごし、付きまとうなら力で追い払うのがクマガイという男だったが、ゴウダの件で相当堪えていたのか、彼は無視しても一向に構わないであろう清掃員の話に付き合い続けた。
クマガイが一応話を聞く態度であると確認した清掃員はほっとして、軽く質問を投げた。
「どんな関係ですか?家族?」
今度はクマガイが言葉に詰まった。
頭を殴られたような感覚。一瞬、クマガイは質問をしたのが誰なのかもわからなかった。そしてなによりも、自分はその質問に答えを持っていないことを気づき、益々返答に困って黙り込んでしまった。
不自然過ぎる沈黙が続いたが、気を取り直したクマガイがやっと口を開いて、清掃員に聞き返した。
「なんでそんなことを聞く?」
「それが、あの子、事あることにクマガイさんが心配で仕方がないと、赤の他人である俺に愚痴ってたもので。家族でもそう心配してくれる奴はなかなかないでしょ」
「……」
ヤミポルが自分を慕っているということは、クマガイだって気づいてはいた。だがクマガイはヤミポルが近付こうして来る度に突き放していた。どうしたらいいのかわからなかったこともあるが、半端者の自分に馴れ合う必要はないと思っていたからである。だから彼はいつも見て見ぬふりをして来た。ゴウダに迫られ、少女の期待を裏切ることとなってしまった今この瞬間にも。
「さっきもなんか元気なさそうだったんです、クマガイさんからなんか言ってあげれば、安心すると思うんです」
「なんで俺がそうしなきゃならない」
クマガイは少し意地になって言い捨てた。
悩んでいること自体が馬鹿らしくてならない、とか。三年前、あんなガキを拾うんじゃなかった、とか。
他人を通してもいちいち好意を向けてくるあの少女が憎らしくさえ思えた。
「いや、しなきゃならないとかじゃなくて、そうしたらあの子が嬉しいだろうという話です」
クマガイはまた黙り込んだ。今度はいつまでもその口を開こうはしなかった。
もう会話は終わったことを悟った清掃員は、まったく進んでいない掃除を終わらせて、控え室から出て行った。
・
・
・
「クマガイさん!」
店のフロントには人が集まっていた。その中で、クマガイを見つけたタカネが、彼の名を呼びながら走ってきた。
「なんだこれは?」
「アタシたちもどういうことかわからなくて困ってるんです。いきなりあの人達が入ってきて、女を全部ここに集めろって」
状況の説明を要求するクマガイに、タカネは入口側に群がっている男たちを指しながら始終を説明した。
ついさっきほど、十人ほどの男たちがいきなり入ってきて、営業中の部屋を漁って客を追い払い、それを止めようとしたスタッフたちはぶちのめしたとのこと。そして風俗嬢を全員フロント集めさせている過程で、反発した女たちと揉めて対峙状態になっているのが現状ということだった。
クマガイは店を襲った男の連中に視線を向けてその姿を確認すると、状況を理解して舌を打った。
ノビトファミリーの領域であるクラブソドマで、こんな狼藉を働けるのはこの街に存在しない。もしいるとするなら、相当イカれたキチガイ、もしくはノビトファミリーにも、クマガイウスにもまった怯えない立場にいる人間。
クマガイは男たちの顔に見覚えがあった。彼らは同じノビトファミリーの構成員であり、ゴウダ側の部下の者たちだった。
だがその中でひとり、クマガイにもまったく覚えがない男が、タカネと話しているクマガイを見つけて、自分から名乗り出た。
「あ、これはどうも。ワタクシ、アサヌマヌスという者です。ゴウダルクス様からクマガイウス様を手伝えって言われて来ました」
クマガイの予想通り、彼らはゴウダが送ってきた者達だった。
もう周りの目などお構いなしにやりたい放題なのかと、さすがのクマガイも怒りを覚える。
「俺は助けなんて読んだ覚えはねえ。消えろ、クズども」
控え室で清掃員をうっかり脅した時とは比べ物にならないほどのドスの利いた声で、クマガイは男たちに目の前から消えろと脅した。まさに熊のような威圧感。ゴウダの部下達は情けなくもその脅しにビビっていたが、アサヌマと名乗った男は貧相な体だったにも関わらず、相当肝が据わっているのか、笑顔をクマガイに返した。
「いやいや、これはゴウダルクス様の厚意です。たしか、『任せっきりで悪かった、手間を省けるように手配した』とか。ワタクシ、こう見えても結構腕の立つ商売人でして、この件には自信がありますので、ご心配なく」
どうやら相当やり手の商人である模様。
クマガイは商売を口にしたこの狸のような男がなぜやってきたのかと悟って、ますます険しい顔になった。
「なにをするつもりだ」
「とりあえず客は全部帰らせていただき、女をこの場に集めようとしているところですが、どうもここの女たちは聞き分けが悪いようですね」
生意気な女は使い道が少ないと、女たちを見下すようなことを言って、アサヌマはやれやれと首を横に振った。
商売人と名乗った彼がここにやってきたのは、他でもない、女を勘定し、買い手とクマガイを仲介するためであった。
一方、アサヌマに言われるままではいられなかった女たち、特にタカネが憤ってアサヌマに言い返してきた。
「商売人?他所様のお客を力づくで帰らせて邪魔するのはどこの商売なわけ?」
「おや、言いますね」
キレイな顔からは想像しがたい唐突さを見せたタカネに、アサヌマが感心したように驚いた。
タカネが文句を言う間、彼女の体にざっと目を通したアサヌマは、密かに笑みを浮かべる。タカネを見るアサヌマの目には陰険で薄暗い何か宿っていた。
「大体、ここにアタシ達を集めて何をするというのよ」
「適性検査ですよ。あなた達の仕事は結構人を選ぶ仕事ですからね」
「なんでアタシ達がそんものを、よりによってアンタを通してやらなきゃならいのよ」
そうだそうだと、周りの女たちもタカネに同調してアサヌマに抗議する。
クマガイが来たことと、タカネの清々しい発言によって勢いを得た店側は、そのまま侵入者達を追い払おうとしたが、アサヌマはその勢いにまったく怯まず、むしろ心外という表情をしてクマガイに矛先を向け、
「おや、まだ伝えてないんですか?彼女達はもうここにはいられないことを」
なんのためらいもなく、クマガイの弱点を露呈させた。
「え、どういうこと?」
その効果は絶大なものだった。
今まで一輪になっていた店の人たち、特に女たちは、アサヌマの言葉に容易く崩され、ざわめき始めた。
「いられなくなるってなに?」
「まさか、店なくなるの?」
一度崩れた連帯感は戻し難く、一度広まった混乱を抑え難い。
ここでもしアサヌマがクマガイの変わりに返答を出したりするならば、主導権は完全にアサヌマに握られるだろう。術中にはまるとはまさにこのこと。
一部の女は、言葉では言わないが疑問の視線をクマガイの方に向けていた。
「クマガイさん……」
主導的な立場にいたタカネも、混乱が広がった女たちを抑えることは出来ず、すがるようにクマガイを見つめた。
「……」
押し黙るクマガイ。
だが、その顔に動揺の色はなかった。
アサヌマの目的を知った時から、いつこの事実を武器にされてもおかしくないと思っていたからである。
あくまで予想の範囲内。
しかし、だからと言ってクマガイにざわつく女たちを落ち着かせる術があるわけではない。
元より頭を使うよりは体を動かすのがクマガイの性質。
だからクマガイは、目の前にいる狡猾な狸の胸ぐらを掴み、腕一つで持ち上げた。
「言ったはずだ、消えろと」
「か、かはっ!ワタクシはあくまでゴウダルクス様の頼みで!」
首を締められ、アサヌマは息詰まった声でゴウダの名前を出してみたが、クマガイはむしろ手に力を入れた。
「じゃあ、ゴウダさんに伝えろ、手助けなんざいらねとな」
アサヌマが締め上げられているのに、彼の後ろにいたゴウダの部下達はただ見ているだけだった。ただ一人、部下達の中でも一番若く見える男が前に出ようとしたが、クマガイが一回にらみ付けるだけで、元の位置へ戻って引っ込んだ。
結局、アサヌマは手を上げた。
「わ、わかりました。クマガイウス様がそう仰るなら、ワタクシはお暇させて頂きます!」
アサヌマの言葉を聞いたクマガイは、そのままアサヌマを床に投げ捨てた。
さすがはファミリーのイカレ熊というべきか、その迫力に誰も口を挟むことができなかった。その迫力に気圧されたのは店側の人も同じで、とりあえず事態は収まったかのように見えた。
「コホコホ!いててて……ひどい方だ」
倒れたまま恨み言をこぼすアサヌマ。
後ろの男の手を借りて起き上がった彼は、グチャグチャになった身だしなみを整える。
これだけのやられては怖気づいて逃げ出してもおかしくはないが、アサヌマは自分を腕が立つと言うほどに度胸があるようで、クマガイに物怖じした様子は見せなかった。
「なにもたついてんだ」
「もちろん出ていきますよ。乱暴はもう許してください」
早く立ち去れと、尋常ではない気迫で睨み付けるクマガイに、アサヌマは手を上げて降参の意思を見せる。
だったら早く出ていけばいいのだが、アサヌマはまだなにか言い残したことがあると、クマガイに向かい合う。
「でもその前に、ゴウダルクス様が直に頼んでいた仕事があるんです。その用事だけ終わらせて頂けないんでしょうか?なにせこっちもビズネスで来ているんですよ。手持ち無沙汰では、それこそゴウダルクス様に殺されるでしょう」
アサヌマは、クマガイウス様は度量のある人だと聞いておりますと、見え透いた世辞を付け加えるのを忘れなかった。
クマガイは少し悩んだ。
直に頼のまれたと仕事というのが何であれ、最初からゴウダの目的はそれだけということに違いなかった。
いくら政治や謀略に鈍感なクマガイでも、これを拒むと、ゴウダがまたとんでもない手を使って来ることが容易に想像できた。
なりふり構わず暴れることが出来た昔とは違うことに困惑しているクマガイはアサヌマ答えられずにいると、その沈黙を了承と受け取ったアサヌマが店の人全員に聞いた。
「ここに子供がいると聞きましたが、その子は今どちらに?」
「?!」
アサヌマの言葉に聞いたクマガイの頭に驚愕の色が浮かんだ。
ゴウダの考えが何かはクマガイには知る由もなかったが、それがろくでもないことというのだけは承知していた。
まだヤミポルに対する考えも整理できていないクマガイは、とりあえずその場をやり過ごすために子供など知らないと白を切ろうとしたが、戸惑っていたせいか、彼がとぼける前に店の女のひとりがアサヌマの質問に答えた。
「さっき、倉庫に入るのを見たんですけど」
その女はよくゴウダが歓楽街に来た初日からよく彼の相手していた女だった。
よくヤミポルをイジメているという噂をクマガイは聞いていたが、ヤミポルに距離を置こうとしていた彼はあえて口を挟まずにいた。
そんな彼女が、アサヌマの質問に真っ先に答えたことに、明らかな悪意があると感じ取ったクマガイだったが、いまはその女を相手する暇もなかったので、まずはアサヌマにヤミポルを探す理由を聞いた。
「子供をどうするつもりだ?」
「実はですね、今朝、ゴウダルクス様ととあるお客様が取引を行ったんですが、そのお客様がご要望したのが『差し障りのないお子様』でして。ここに預けているというので、ワタクシは仲立人として現物を確保しに来たのです」
クマガイは安易にヤミポルを放ったらかしにした自分の行動を恨んだ。
ゴウダの目に入っていいことがないというのはわかっていたが、ここまで横暴に出るとは予想していなかったのだ。
ゴウダが中央から追放されていることを、思った以上に気にしていることを考慮していなかったのが、クマガイの最大の失策だった。
切迫詰まったクマガイは、店の倉庫に向かおうとアサヌマをなんとか止めようとした。
「待て、俺はそんな話聞いてないぞ」
「はい、そのようですね」
それがどうしたのかと、とぼけるアサヌマに、堪忍袋の緒が切れたクマガイがまたアサヌマの胸ぐらを掴もうとした。
「てめえ!ここは俺の領分だぞ!」
しかしそれは間一髪で避けたアサヌマが、無抵抗の意思を示してクマガイに言った。
「おっと、止めるなら無理やり行きはしませんよ。ただそうなると、ワタクシはその事実を一刻も早くゴウダルクス様に伝えなければなりません。なにせ相手のお客様は性急な方でして。取りやめるならかなり苦労するのですよ」
あなたが話を通す相手はあくまでゴウダルクス様です、とポケットからスマホを取り出したアサヌマは、それをクマガイに見せて確認を取る。
「クマガイウス様は少女を渡すことを拒否した、そうゴウダルクス様に伝えればよろしいのですね?」
「……ってめえ!」
頭に血が昇るのを感じ、拳を震わせるクマガイ。
だが彼はアサヌマに手を出すことができず、行き場を失った拳を壁にぶつける。
「きゃ?!」
店の女が悲鳴を上げるほど大きな音がすると、拳が当たった大理石の壁は、拳の大きさだけ粉々に壊されていた。
武闘派で知られているクマガイの真髄を目の当たりしたゴウダの部下達は嘆声を漏らしたが、アサヌマはそんなことには興味ないという風に、笑顔でクマガイの意中を訊いた。
「止めないんですね?それなら倉庫に向かわせて貰います」
なにも言わないクマガイを後にして、アサヌマ達は倉庫に向かった。だがすぐにクマガイがその後ろを追って歩き出し、どうしてかタカネもクマガイと一緒に倉庫に向かった。
やがてその全員が倉庫の前に着いた。
なぜか誰も口を開こうとせず、気まずい沈黙が奇妙な緊張感を醸し出していた。
ゴウダの部下の一人が、アサヌマに言われて倉庫のドアノブを回す。
ただそれだけのことに、そこに全員の視線が集まり、空気はますます張り詰めていく。
クマガイは今、重大な、彼の人生を決める決心をしようとしていた。
もしくは今までの全てがひっくり返るような決心を。
ドアの向こうにいるはずのヤミポルを思い浮かべ、クマガイは問いかけた。お前はいったいなんなのかと。だがクマガイの中にいるヤミポルはなにも答えない。
そして倉庫のドアが開いた。
決心の時、クマガイは答えを求めて倉庫の中を見つめる。
「え」
倉庫の中には、若い清掃員がヤミポルの口から落ちるツバを採集していた。
終末の手伝い @amsang
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。終末の手伝いの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます