桜桃の君へ

結城

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私が初めて自殺を試みたのは六、七歳の頃である。台所にある包丁の切っ先をみぞおちから背中に向け斜め上へと突くように姿勢を構えた。そのまま5分ほど留まっていた。そして、ばかばかしく思い包丁をまな板の上に返し、何事もなかった顔で「日常」に帰っていた。その後、しばらくは自殺を考えることはなかった。だが、中学校へ入学してから、少なくとも三月に一度、行動には至らずとも、自殺を考えた。

 雪国特有の鬱とでもいうべきか、特に日照時間の少ない冬にふと湧いてくるのである。


社会人になってからの話である。この頃、世界的に不況に陥り極僅か、戦争の影がまた生れ落ちそうな頃だった。私は、どうも社会の枠組みの中で働くことになじめずにいた。

そのために、上司から叱咤を受けることがしばしばあった。初めのうちはまだ、私にも自覚のある中での仕事上でのミスを指摘された。

それは、まぁ致し方ない完全にこちらの不備であろう。「モウシワケゴザイマセン」だ。

それがしばらくたつと、私の意図せぬところでの不備を指摘してきた。いやいや、知らんがな。私は、「ハイ、ハイ」「ソウデスネ」「スミマセン」を繰り返すだけの機構となった。それが癇に障ったのだろう、今度は私の人格まで言及するようになってきた。私は閉口。ダンマリを決め込んだ。そうするしかほかにない。ところがダンマリ作戦は火に油だったようで日に日に口撃は激しさを増した。

聞き流そうとしても、あんまりに怒鳴るものだから耳に刺さる。心に刺さる。グサリ。精神が出血多量で体温さえおぼつかない。瀕死だ、死体のできそこない。

 そうして、とうとう毎日目覚めから就寝まで自殺を意識するようになってしまった。連日繰り返される公開処刑にもはやこれまでと思うのだった。

 そういう時だったからだろうか、どうせ死ぬなら先人の意見でも見てやろう、と目に余るほどただれた精神で書店に這入りこんだ。

 本棚の列は茶漬けでも寄越してくれよう、と言わんばかりに無表情に黙って私を見下ろしていた。どうもジメジメ湿気た奴は気に食わないようだ。カビの素になるのだから致し方なし。それでも物語共の間をジロジロと値踏みするかのように縫っていく。

 そうして、出遭ってしまった。装丁を変えながら数十年を生きてきた、一遍の小説に。

それは「人間失格」と題された世に知られた話だ。私は表題と作者の名前(とその顛末)ぐらいは知っていたが、その日まで読むことはなかった。ほとんど衝動的に、それを購入しその日のうちに読みきった。だが、薬かと思って飲んだら毒だったのだ。背中を一息に押してくれるものと思っていたのに、かえってひっぱりあげられてしまって踏ん切りのつかない無様な心境になった。何てことだ。と作者を恨まずにいられなかった。

そしてその虚脱を埋めようとまた、別の本を探した。手近に、巻末の広告から選び出そうとページをめくる。目に留まったのは「堕落論」だった。これもタイトルは知れども中身は存ぜぬ、ということで一週間の間をおいて本屋に向かった。

「堕落論」は数編をまとめた、短編集に体をしている。頭から順に読もうと思ったが、目次をみて、その考えを取り下げた。気になる一編を見つけたのだ。

「不良少年とキリスト」。太宰治の死後、交友関係のあった坂口安吾が、彼について語ったものである。その中で、語られた内容が、私の空に浮かんだ生きた心地も死んだ心地もない精神を強大な電気ショックを与えた。

 ただ、生きろと。死ぬのはいつでもできるから、生きろと。生きている限り負けることはしないから、生きて戦えと。それだけのことなのです。ですが、そ言葉がどうやら私には最良の処方箋だったようです。

 そうして、死んでくれようと思い詰めた精神は、ただ、生きてやろうと、再起したのです。他の人に比べれば相当に歪な精神になってしまったような気もしますが、それでも生きねばならないと、暗中に一つはるか遠くから射す強い光線を見出したのです。


 その後その上司の元を離れ、全く違う職場で、新しい上司に恵まれ、また以前の職種よりも適正があったこともあり、どうにか社会に生きることをあきらめずに済んだのです。それでも、時折雪国の憂欝で、死を願ってしまうことがあります。これはもう生来のものでしょうから、切り離すことができない一生の癌でしょうから、これに負けぬように闘わなくてはと思うのです。



 こうして、今、曖昧にも生き続けているのは、「不良少年とキリスト」を書いた坂口安吾と、その一遍とめぐり合わせてくれた太宰治とその著「人間失格」のせいだと、勝手ながら、当人たちが迷惑そうに眉間にしわを寄せたとしても、そう思わずにはいられません。


六月十九日に三鷹の墓前にて勝手な感謝の念を贈ろうと、そうおもいます。

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