第6話 きっとその声は届いていて

「よしっ」


 長いようで短かった夏休みは残り2日となり、いよいよ今日は百射会の1日目だ。この日も朝から弓道場へ来ていた俺は、美夏に見てもらいながら弓を引いていた。このとき既に俺は15センチ理論を特に意識せずとも、普通に弓を引けるくらいまでに戻っていた。


「調子、良さそうですね」


 美夏はあの日と同じく、俺の右前方に正座して俺の射を眺めていた。


「おかげさまでな」


 俺が珍しく正直に感謝の気持ちを伝えたのが意外だったのか、美夏は一瞬目を丸くしていた。それをごまかすためだったのかどうかは知らないが、美夏は続ける。


「ひとつ、尋ねてもいいですか?」


「何だ?」


「……世の中で、一番価値のあるものって何だと思いますか?」


「え?」


 美夏はつぶらな瞳をこちらに向けて、首をかしげたまま動かない。聞き逃したわけではないことは分かっているらしい。


「うーん、自分視点でいえば、月並みだけどやっぱの自分の命じゃないか?これがない世の中なんて、俺にとってはまず成り立たない」


「へぇ~、面白くはないですけど、筋は通ってて割と説得力ありますね。もうちょっとヘンテコな答え期待してたんですけど」


「俺を何だと思ってるんだ……」


 ふふっ、と笑うと美夏は続ける。


「いえ、まあこんな質問に正解なんてないと思いますけどね。これは一個人の意見として聞いてほしいんですけど、私が思う世の中で一番価値のあるものは、情報です。それも、その人専用の」


「その人専用?」


「はい、例えば、この教本」


 美夏は立ち上がり、机に置いてあった弓道教本を手に取って言う。


「これには、弓道の基本が書いてあって、まあ弓道やってる人なら読んで損はないくらいには綺麗にまとまってますよね。でも」


 美夏はどこか芝居がかった様子で、左手に持った教本を俺の胸に当てながら続ける。


「ここに書いてあることはあくまで最大公約数。カドを削って削って丸くして、みーんなに当てはまるようなことしか書いてないんですよ」


「まあ確かに……そうかもしれないな。で、何が言いたいんだ?」


「はぁ。なんか肝心なとこで鈍いですよね」


 美夏はいつものジト目で俺を見る。このジト目も悪くないと最近思い始めてきたが、今はまだ心の中に秘めておこう。


「つまりですね、あなた自身に向けて、自分の考えをぶつけてくれる人は大切にした方がいいってことですよ。例えば、私みたいな?」


 美夏はぐいっと顔を近づけて言う。思考が一瞬止まる。理屈っぽい性格は俺に似てて好きじゃないが、見てくれは美少女だ。接近する彼女の瞳の前では15センチ理論も無力だった。


 俺は一歩後ずさり思案する。何とも恩着せがましい話にも聞こえたが、実際に美夏のおかげでイップスは克服できたし、顧問や先輩に射形を褒められることも出てきた。


「悪かったよ、正直お前のおかげでまた弓道が楽しくなったわ。感謝してる」


 俺は自分の正直な気持ちを美夏にぶつけた。


「ふふ、わかればいいんです」


 美夏は手を後ろに回しながら気分を良くしているようだった。


「だから……」


 一瞬の沈黙を置いて、美夏は続ける。


「辞めないでくださいね?」


「ああ」


 俺は安土に向き直りながら返事をする。そういえば夏休み前は辞めるなんて話をしていた。もうそんな気はさらさら無くなってしまったけれど。この28メートル先の的に中った外れた、というだけの競技に、俺はこんなにも惹かれてしまっている。


 ……ん?


 何でこいつ俺が辞めようとしていたことを知っているんだ?


 慌てて振り向いたが、そこには美夏の姿は無かった。何となくではあるけれど、もう美夏には会えないかもしれない。そんな気がしていた。




 夏休みの最後は2日間にわたって、御船高校弓道部恒例(らしい)の百射会が行われる。百射会とは文字通り、一人あたり百本の矢を射る部内イベントである。これがなかなかタフで、調子の良し悪しに関わらず一定の周期で引き続けなければならない。一度集中力を欠いてしまえば夏の暑さも相まって一気に崩れてしまうらしい。


 俺の番が近づいてくる。隣にいる准の落ち着きが無いのはいつものことだが、かたや俺は不思議なくらいに落ち着いていた。

 

 前のグループが引き終わるタイミングで射場へ入場した俺達は、一礼をして的前へと踏み出した。


 一陣の風が吹く。番えた矢を視線でなぞって物見を入れると、28メートル先の霞的がいつもより大きく見えた。こんな感覚は初めてだった。打ち起こしながら、美夏との特訓を思い起こす。全く、弓道に雑念は禁物だというのに、今は何をいくら考えたとしても外す気がしない。この会心の射を誰かに撮っておいて欲しかった。そんなことまで考える余裕があった。



「鳴海君、皆中です」


 記録係をしていた茉莉の声が道場に響き渡る。その声が少しだけ嬉しそうに聞こえたのはきっと俺の勘違いではなかったはずだ。

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