第2話 不思議で不愉快な少女


「な、なんだあんた」


 俺はそこに立つ女の子目がけて警戒の言葉を発した。その制服に見覚えはなく、この近くの学校の生徒ではなさそうだ。


「もー、人が折角矢声やごえ出してあげたのに、つれないですね」


 その女の子は少し不機嫌そうな声を上げながらも柔らかな笑みを携えて、高い位置で括られたポニーテールを揺らしながらこちらに近づいてくる。年齢的には俺と同じくらいだろうか。


「いやそういうことじゃなくて、あんたうちの弓道部じゃないよな?」


 この手の女子は一度主導権を握られてしまうと終わりだ。脳がそう告げるのでこちらも一歩も引かずに応対する。正面に向き直り次の矢をつがえようとする俺に対して、彼女は答える。


「あんたじゃなくて美夏みなつって名前がありますから、そっちで呼んでください、鳴海直くん」


 その言葉に、またもや俺は振り向いてしまった。


「な、何で俺の名前を…」


 もしかしてこいつはストーカーなのか、あるいはもう少し霊的な何かなのか。そうなのか。いずれにしろこいつが普通の女子ではないことが窺え―


「だって袴に書いてあるじゃないですか」


「あ」


 うちの弓道部では後ろに名前が刺繍された袴を着用するのだった。


「今なにか失礼な想像しませんでしたか?」


 美夏はぐいっと顔を近づけ、ジトっと俺の目を見る。その見透かすような瞳といたずらな表情にこの距離で耐えるには、俺の免疫がいささか足りていないようだった。


「してないって、ちょっと驚いただけだって」


 俺は一歩後ずさりながら、精一杯取り繕った。これはまずい、完全に美夏のペースだ。早く話題を切り替えなければ。


「で、美夏さんは何の用?」


「美夏でいいですよ。まあ細かいことはいいじゃないですか、たまたま近くを通りかかったら、道場が開いているのが見えて、ちょっと覗いてみたくなっただけです」


 美夏は両手を腰の後ろに回して答える。こいつ、仕草がいちいちあざといな。


「ふーん…」


 俺は半信半疑だったが、こいつは帰れと言って帰るタイプではないと直感的に感じ、それ以上の追及はしなかった。こいつに気に入られる理由もないのだから、気にせず弓を引くことにしよう。きっとすぐに興味を失って帰っていくだろう。


「引かないんですか?」


「引くよ。引くけど、わざわざ見るほどのもんじゃないぞ」


 俺の張った情けない予防線なんて気にも留めず、美夏は俺の射が良く見える位置、右手前方に移動し、ちょこんと正座する。


 まあいい。俺は再び的前に立ち、矢を番える。的中時の発声、つまり矢声を知っているということからも、きっと美夏は弓道をやっているのだろう。一対一で見られることに少しの照れくささを感じながらも、俺は腹を括った。


 弓道に雑念は厳禁だ、という類の言葉を聞いたことがある人は多いだろう。きっとそれはおおむね正しく、人の視線を意識してしまうこともきっと雑念の一つなのだろう。


 弓を打ち起こすまでは良かった。引き分けに移ると、はやってきた。鼓動の音が大きくなるのが聞こえてくる。そこに無いはずの数多の視線を感じて流れる汗は、その暑さによるものなのか、あるいは冷や汗か、それすらも分からない。自分の望んでいないタイミングで放たれた矢は的の9時方向に外れて安土に刺さった。


 どこか、心のどこかで、もしかしたらいけるかもしれないと思った俺の淡い期待は、脆くも崩れ去った。俺はただ一人の女の子の前ですら、満足に弓を引くことができなかったのだ。


「なんか、さっきの射と全然違いますね」


 ドキッとした。図星以外の何物でもない。今の射は人に見せられるようなものではなかった。きっと美夏は失望してしまっただろう。


「いやー、最近安定しなくてさ……」


 適当にごまかしてはみるが、美夏も分かっただろう、こんな射をずっと見ていても何の糧にもなりはしないのだ。気が済んだら空気を読んで去ってくれ。もっと違う出会い方をしていたら、友達くらいにはなれたかもしれないな。


「まあ、射形も確かに怪しいとこありますけど、本質は別のところにあると見ました」


「!?、お前…」


 心臓を射抜かれたような気分だった。こいつには何が見えているのだろうか。確かに弓道にはメンタルも重要だと常々言われており、それが全く影響を及ぼさない射は皆無と言っていい。しかし、俺は美夏のその確信を持った言い方に恐怖すら覚えていた。


「ふふ、明日の朝も引きに来るんですよね?」


「へ?」


 立ち上がりながら、ほんの少しの上目遣いで告げられた美夏の言葉を、俺は瞬時に理解できず素っ頓狂な声を上げてしまった。何を言っているんだこいつは。まさか明日も来るつもりか。


「じゃあ、私はこれで」


 俺が次の言葉を紡ぐよりも先にそう言い残すと、彼女はポニーテールを振りながら足早に去っていった。俺の中に残ったもやもやの正体が何なのか、すぐには分からなかった。


 あいつの言うとおりに明日も来るのは癪だったが、あいつ、もとい美夏の存在が気になり始めていたのは事実だった。一目で俺の射の不自然さに気付き、そしてその本質を見抜いたかもしれない美夏が、もしかしたら俺を変えてくれるのではないかという淡い期待を感じてしまったのだ。俺は部活を辞める決心をつけるために弓道場に来たというのに、何とも滑稽な話である。


「……まあ、夏休みいっぱいくらいはもがいてみてもいいか」

 俺はまだ引いていない2本の矢を握りしめながら、誰にでもなくそう呟いた。


 もう日が昇りかけている。車の走行音に交じって聞こえる蝉の鳴き声が、かつての日を思い出させる。あれは2年くらい前だったか、そもそもの話はそこから始まる。


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