海面上昇一人暮らし

辰巳杏

第1話:海と埃

 その日はやけに頭が痛かった。


 だから何をするにしても身体が怠くて仕方がない。それでも1日を無駄にするわけにはいかないと思い、ケンスケはためている録画番組を消費しようと、カーペットの上に転がったリモコンを拾い上げてソファーに座った。テレビを点けるとニュースがやっており、台風中継で雨風に吹き飛ばされそうになっている男性リポーターが映っていた。


 台風? 今は3月のはずだ。


 ケンスケは改めて画面の中を覗き込む。画面のどこにも『台風』の文字は無い。代わりに『洪水』とあり、現在東京が大洪水に見舞われているようだ。男性リポーターが叫ぶ背景には、水浸しになった道路と、高層ビルの間に見える不気味な鈍色の雲が映し出されていた。中継が終わると、スタジオの専門家が「出来るだけ高い所に避難して下さい」と、それだけをコメントした。


 閉まったカーテンの外では、ぽつぽつとしきりに雨音がした。ケンスケの頭痛は益々ますますひどくなる。一眠りしようとソファーの上でそのまま横になると、すぐに意識が遠のいていった。


 ケンスケは浅い眠りと深い眠りを繰り返し、時折ぼんやりとした意識の中で、雨音が次第にひどくなっていくのを感じていた。



 * * *



 窓から漏れる一筋の光がケンスケの頬を照らす。光を感じたケンスケは重たい瞼をゆっくりと開けて上体を起こした。カーテンの隙間から青混じりの白い光がぼんやりと射し込んでいる。どうやら月明かりのようだ。


 光が天の川のように流れ込んでいる。川の流れに無数に舞うものは星屑か、はたまた蛍か。


 ケンスケは目を擦り、テーブルの上に置いてある黒縁眼鏡をかけて再びカーテンの隙間を見た。


 無数に舞うものはほこりだったようだ。


(やはり星屑だろうか···)


 ケンスケは天の川に沿う星屑へと手を伸ばす。だが、それに触れることは出来ず、ただ指先でふよふよと浮かんでいるだけであった。ゆっくりと腕を下げたとき、聞き慣れない音が耳に入ってきた。


────ザザーン···ザザーン···


 明らかに雨音ではない。ケンスケが時々、テレビや音楽などで耳にする音だ。


 ケンスケは慌ててソファーから立ち上がって窓の側に寄り、カーテンを勢い良く開けた。


(何だこれは···)


 その風景が嘘でないことを確かめるために、湿気でかび臭くなった窓を開放するように開く。


 生まれて初めて嗅ぐ海のにおい。青黒い水面みなもに月明かりが揺蕩う。水平線を遮るものは、高さのあるビルの上階。その向こうに島が見える。


 足元を見ると、どろっとした鉛色の波がうごめいている。窓に座れば足先が触れるほどの高さだ。ケンスケは座ってみようかと思ったが、得体の知れないものに引きずり込まれそうな心地がしたのでやめた。


 眼下の水面の奥に、倒れた電柱と沈んだ車が数台見え、その側で黒い物体が動いている。よく見ると魚が群れをなしているようだった。道路は海底、山は島、海中の建物は窓が割れて廃墟となっていた。


 山に囲まれた長野の町が海に沈んだ。


 ケンスケは目の前の風景を受け入れることが出来なかった。


 星屑か、蛍か。ケンスケは目の前の風景よりも、心残りであるそのことを考えていた。


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海面上昇一人暮らし 辰巳杏 @MWAMsq1063

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