僕史上一番の冒険なのに、ヒロインはイナカもの


 結局、森から何かが飛び出してくるわけでもなく。


 木の枝を慎重に森へ向けて構える金髪ツインテ美女に、僕はカーキ色のローブから手を突き出した姿勢のまま一分ほど放置されていた。


 三つの月が冷たく照らす水面から消え失せるさざ波。

 騒がしいほどに擦れ合い、歌を奏でていた木の葉も鳴りを潜めている。


 契約の証文、その片割れたる右手。

 これを突き出して慇懃にお辞儀をしてみたものの、彼女は手を取ってくれるはずもなく、溜息をつきながら腰に手を当てて僕を見下ろした。


 でも、女神のような見た目は伊達じゃない。

 優しさに溢れた彼女は桜色の唇を改めて開くと、僕の予想からかけ離れた丁寧な断りの言葉を呟いた。


「……バカなの?」


「驚いた。もっと酷い罵声を浴びせられると思ってたのに」


「だったら突拍子もない事言わないで欲しいんだけど。悪いけど、小学生の遊びに付き合ってる暇はないの」


 うん、それは間違い。

 僕はふるふると首を振る。


「なにが違うってのよ。遊びじゃないとか言いたいの?」


「…………僕、十六才」


「そっち!? じゃなくて、ちっちゃ! 子供にしか見えない! ……いや、ほんとゴメンなさい。小さいなんて、失礼な事を言ったわ」


「かまわないよ、デカ尻お姉さん」


「毒舌っ! 失礼な子っ!」


 おお、それそれ。

 お尻を押さえながら、僕をにらみつけるお姉さんの怒り顔。

 これこそ長年探し求めていたものだ。


 怖いのに、背筋がゾクゾクするほど気持ちいい。

 こんな冷たい目で睥睨へいげいされたら、ゲストの皆さん揃って卒倒するぞきっと。


 千載一遇。

 いや、無限と呼べる生命体にあって唯一無二の存在。


 この機を逃してなるものか。

 なんとしても彼女を僕のダンジョンに…………。


 そんな妄想をしている間に、お姉さんは僕が来た古城の方角へ足を運んでいた。


 後姿をよく見れば、白いブラウスには豪奢で繊細な刺繍が施されていて、彼女の身分の高さを象徴している。


 そんなお姉さんが奏でる砂利の軋みを追うと、揺れる金髪が振り返りもせずに無茶な事を言い始めた。


「じゃあ君、あたしをゼロ・ランドへ連れていきなさい」


「…………お姉さん、サード・ランド人でしょ? 無理」


 お姉さん方、ファンタジックなサード・ランドの住人が来れるのは、基本的にはここ、セカンド・ランドまで。

 これに対して僕たち東京の人間が来れるのは、基本的にファースト・ランドまで。


 君が東京に来たら大パニックになる。

 だって、君らの存在は国家を上げてのトップシークレットなんだから。

 

「……無口なのね。返事くらいしなさいよ」


「お姉さんの頭の悪さに呆れてた。脳に回す分の栄養をお尻にもっていくからそういうことになる」


「だからその毒舌やめい!」


 お姉さんは急に立ち止まって振り向いたかと思うと、手にした木の棒を目の前に突き出してきた。

 美人さんなのに乱暴。

 実にラスボスだ。


「無茶なことくらい分かってるわよ! でも行かなきゃいけないの! 手伝え!」


「ファースト・ランドまでなら連れていく手、あるけど」


「ほんとに!? …………まさか君、ゼロ・ランド人?」


 その通り。僕の実家は東京都江東区。今はファースト・ランドに住んでるけど。

 返事の代わりにこくりと頷くと、お姉さんは輝くほどの笑顔で飛び跳ねた。

 ……かわいい。

 でも、最後のガニ股ガッツポーズはいただけないな。

 見なかったことにしよう。


「あたし、ついてるっ! 常識の範囲だったらいくらでも御礼するわ! どうやったらファースト・ランドに入れるのか教えて!」


「僕のダンジョンのラスボスになるって言えばいい」


 ……うん。

 お姉さんの顔は、見ていて実に飽きないね。

 何言ってんだ小僧って字が浮かんでるにがーい顔が驚くほどにぶっさいく。


 でもこれは冗談なわけじゃなくて、『キャスト』としてのパスなら僕から都に掛け合えば発行できると思う。


 ファースト・ランドにあるテーマパーク、『東京フェアリーアイランド』。

 そのキャストとして、サード・ランド人が沢山働いているんだ。


 だからお姉さんを、僕の推薦ということで『東京フェアリーアイランド』のキャスト申請すれば、多分一時間と待たずにパスが発行されると思う。


 ……実際には、僕のダンジョンのキャストになってもらう訳だけど。


 このパターンを使って、実はコボルドを十匹ほど、ファースト・ランドにある僕のダンジョンに連れてきてしまっている。


 ばれたら、どうなっちゃうのかよくわからん。


 それより、ぶさいくなお姉さんが手にした木の枝をバキリと握り潰すほど怒っていらっしゃるけども。

 この天才的なギブアンドテイク作戦、そんなにお気に召さなかった?


「…………どうあっても、あたしをラスボスとして迎え入れたいの?」


「うん。その怒りの表情が実にラスボス」


「ふ・ざ・け・ん・なーーー!!!」


 二つに折れた木の枝を投げつけてきやがったので、慌ててしゃがむ。


「…………怒りんぼ系ボス?」


「誰だって怒るわよ!」


「ぽぎゃッフ!」


 ……ん?

 なに、今の変な声。

 僕の後ろから聞こえてきたけど。


 振り向くと、怒りんぼさんが放り投げた木の枝を食らってひっくり返る毛むくじゃらが一匹。


 ……コボルドだね。


「大変っ! ごめんね?」


 怒りんぼが、今度は卑屈キャラに変身だ。

 気絶したコボルドの頭を撫でて介抱してるけど。

 こいつに謝る人初めて見たよ。


 身長三十センチくらいの、二足歩行小動物。

 ひょうきんな犬顔が可愛いこいつらは、極めて頑丈なくせに、頭を叩くとすぐに気絶してしまう。


 簡単な日本語なら理解できる知能を持つコボルド。

 害のある生物じゃない。


 ……そう、思っていたのだが。


「キシャーーーーーーッフ!!!」


「ひょえっ! ちょっと、こわっ! この子、噛みつこうとしてくる!」

 

「キシャーーーーーーッフ!!!」

「キシャーーーーーーッフ!!!」

「キシャーーーーーーッフ!!!」


「え? え? 森から何匹も出て来るんだけど! 少年! 沼に逃げるわよ!」


 大きな口を広げてお姉さんに噛みつこうとするコボルドたち。

 これに対して、精錬された戦士並みの反応で僕の手を掴んで走り出すお姉さん。


 怒りんぼキャラか卑屈キャラかと考えてみたけども。


「……お姉さん、単なるトラブル呼び寄せキャラ。適度に離れていて欲しい」


「だからその毒舌やめい!」


 ……腕を引かれるがまま沼を進む。

 すると、五、六歩進んだ辺りであっという間に胸まで飲み込まれた。


 水草が足に絡まって気持ち悪い。

 あと、ウェストバッグに入れたものが超心配。


「コボルドは水が嫌いだからね! ……え? 追って来る!? 少年、泳ぐわよ!」


「お姉さんは、彼らに何したの?」


「知らないわよ! 森に入ってからずーっと襲ってきたの、あの子達かも!」


 僕をトラブルに巻き込んだお姉さんは謝るでもなく手を離すと、追手を確認しながら泳ぎ出す。


 やれやれ、四の五の言ってる場合じゃないか。

 とりあえず訳は聞かずに、軽い杖をビート板代わりにバタ足で追いかけた。


「十匹? ……ううん、もっといる! これ、どうしよ?」


「あれを追い払ったらラスボスになってくれる?」


「こんな時にふざけないで! ……はっ!? まさか、君があいつらをけしかけてるんじゃないでしょうね?」


 まさか。

 僕はいぶかしむ金髪お姉さんに首を横に振って答えた。


 それにしてもコボルドが人を襲うなんて話は聞いたことが無い。

 しかも、こいつらが進んで水に入って来るとは尋常じゃない。


 ……このままじゃ追いつかれるな。

 身長三十センチほどとは言え、あの大きな顎で噛みつかれたら相当痛いだろう。


「少年! 冒険者なんでしょ? 何とかしなさいよ!」


「かっこは冒険者っぽいけど、その正体は、ただのRPGクリエーター」


「ぐだぐだ言わない! 男の子はいつか冒険に旅立つの! そして今日、晴れて君はデビューを飾ることになる! さあ、分かったらとっととなんとかしろ!」


 無茶苦茶だよこの子。

 でもこの状況ならなんとかしようはある。


 くるりと体を入れ替えて、背泳ぎしながら頭上に杖を構える。

 そして近くまで迫ったコボルドに一撃を叩き込むと、そいつは情けない叫び声をあげて逃げ出した。


 そんな一匹の姿を見て、四匹くらいがUターン。

 ええい、そんな根性で追って来るんじゃねえ。

  

 でもこれなら簡単に撃退できそう。

 そう思って再び杖を振りかぶったら、意外な伏兵から攻撃を阻止された。


「ちょっと可哀そうじゃない! コボルドが溺れちゃったらどうするのよ!」


 うそでしょ!?

 でも、振り返った先で僕をにらみつけるゾクゾク顔は本気っぽい。


 ではどうしろと?

 君の足に、今にも噛みつきそうなやつが一匹いるようだけど。


「きゃーーーー! ちょっと、これ何とかして!」


「…………うん」


 考えるまでもない。


 二本の木がお互いに絡み合う意匠の杖がコボルドの頭に会心を繰り出すと、今度はうめき声も上げずにぐったりぷっかり浮かぶどざえもんを一つ作り出した。


 ……これは追っ手どもに強烈な印象を与えたようだ。

 残ったコボルドたちは、ぐったりぷっかり浮かぶ同胞の姿を目にすると金切り声をあげて逃げ出して行った。


 よし、僕の勝利。

 彼女もきっと、ラスボスになってくれるほど感謝しているに違いない。


「ヒトの話を聞きなさいよ、このおバカ! ちょっと大丈夫? 生きてる?」


 ……怒られたよ。

 そしてぐったりぷっかりなコボルドを引き揚げて、優しく水を吐き出させてやったりしてるけど。


 頭おかしいのか? この子。


「うん! よかった、目が覚めたみたい!」


「…………そして噛みつかれるがいい」


「毒舌っ! ……なに? 怒ってるの? 助けてくれたことには感謝するけど、あたしは暴力が嫌いなの」


 だからって、じゃあさっきのシチュエーションはどうするのが模範解答なの?

 目を覚ましてボケーッとしてるコボルドを頭の上に持ち上げてるけどさ。


「…………5、4、3…………」


「え? なに数えてるの?」


「君の頭が齧られるまでのカウントダウン」


 僕の言葉にのんびりと頭上を見やるお姉さん。

 その視界、きっと真っ赤な舌と真っ白な牙で埋め尽くされてるんだろうね。


「…………2、1…………」


「ひやーーーーーーっ!!!」


 大声をあげて、名センター並みの強肩でコボルドを岸に向かって投げ捨てちゃったけど、木に激突した派手な音と、どえらい悲鳴が聞こえたよ?


「言ってることとやってることのギャップが酷過ぎる。さすがはラスボス」


「ラスボスゆーな! ほら、ちゃちゃっと向こう岸まで行くわよ!」


「コボルド投げた方?」


「当たり前じゃない! あの子が無事か確認しないと!」


 もう、親切なのやら極悪なのやら。

 ……ちょう面白いな、このお姉さん。


 でも心配しないでいいよ。

 コボルドは頑丈だ。

 あれくらいの事じゃびくともしない。


 僕のダンジョンの中で天井から岩が落ちて下敷きになった時だって、次の日には平気な顔して朝飯食ってたし。


 ほら、森の中で光る赤い目が二つ、こっちを見つめてるよ。


「あ! 良かったかも! 元気そうにこっち見てる! ……じゃあ逃げるわよ!」


 お姉さんは水を吸ったスカートを引きずって岸に上がる。

 そしてコボルドに手を振って笑いかけた後、すぐに背を向けて歩き出した。


 ……ほんと面白い人だ。


 月明かりが玉の砂利を淡く照らす岸にたどり着いたところで、僕もローブを脱ぎ捨てながら森を見つめる。

 すると真っ暗な闇の中、赤い光がゆっくりと近付いて来る様子が何となく伝わって来た。


 それにしたって、僕は冒険者じゃないんだ。

 こんなドタバタはまっぴらごめん。


 でも、このお姉さんと一緒ならちょっと楽しい。

 そんなことを考えていた耳に、震える声音が届いた。


「ねえ…………。少年」


 なに?


 声をかけられながらものんびり腰に下げたツールボックスから水を切っていたら、急にお姉さんが大声をあげた。


「凄い数に囲まれてる! これ、まずいかも!」


 まじで?

 慌てて顔をあげたら、森の中から無数の赤い光が僕たちを窺っていた。


 所詮人生は、誰かの書いたシナリオに過ぎない。

 でも、これは誰が書いたシナリオなの?


「…………ほんと、とんだトラブル呼び寄せキャラ。僕だけ逃げていい?」


「毒舌っ! そそそ、それよりこれ、どうしたら!?」


 濡れた金髪ツインテを翻しながら俺に振り向いたお姉さんが叫ぶと同時に、赤い光が一気に迫って来た。


 ああもう、、結構いい値段するのに。


 自然と零れたため息と共にツールボックスからびしょ濡れの『カプセル』を一つ取り出して、シールをびりっと剥がす。


 黒と透明。

 二つの半球が噛み合うプラスチック製のカプセル。

 それを握りながら、慌てふためくお姉さんの腕を引いて砂利の岸辺を走る。


 後ろには、森から飛び出して岸辺をわちゃわちゃと走るコボルドたち。

 ……うん、いい距離だ。



 僕は頃合いを見計らって、後ろに向けて『カプセル』を放り捨てた。



 シールが剥がれた『カプセル』が砂利に落ちると、かぱっと二つに割れて。

 そこからまばゆい光と爆音をほとばしらせながら、大量の茨が溢れ出す。


 茨はホフホフと唸りをあげて走っていたコボルドへ巻き付くと、あっという間にその小さな体をがんじがらめにして宙へ持ち上げてしまった。


 よし、今のうちに逃げちまおう。

 そう思って走り出したら、腕を引っ張られて尻から砂利に転んだ。


 なにすんねん。


 見上げれば、異様な光景を前に切れ長の目を見開いて口をパクパクさせる美女。

 もとい。

 美女台無しだよ、その顔。


「うそでしょ? なんで少年がこんな上級魔法使えるの!?」


「…………カプセル知らないの?」


 頷きすらしない所を見ると、知らないんだ。


「かぷせる? さっきの丸い球に魔法が入ってるの? なにその未来技術!」


 こんなの、ずっと前から町で売ってるわい。


「…………お姉さん、イナカもん?」


「毒舌っ! そそそ、そんなこと無いかもよ?」


 かもってなんだ。


「それより、とっとと逃げないから……。こうなる」


「こうなるって何よ? ……ええっ!? うそでしょ! 正面からも来た!」


 後ろには茨の壁。

 前からはコボルドの大群。

 一見、絶体絶命。


「…………でも簡単。こうすればいい」


「なに? どうするの!?」


「戻る」


「なんで戻るのよ! 危ないからダメ!」


 そう言いながらも、走る僕の後を素直について来てるじゃない。

 ほんと面白い人。

 是非とも一緒にお仕事したい。


 ……さて、いい距離だ。


「どうするの!? ねえ、どうするのよ!」


「どうもこうも、これで君も『敵』認定」


 大量の茨が、術の執行者である僕の横をすり抜けて金髪ツインテに絡みつく。

 そして彼女を狙って襲い掛かるコボルドたちも、飛んで火に入る夏の虫もかくやとばかりにわざわざ罠へと突っ込んでは捕らわれていった。


「…………ルアー釣り」


「いやーーーー!!! 最悪! 覚えてなさいよ!」


 知らんよ。

 コボルドを怒らせたお姉さんが全部悪いんじゃない。


 それにしても、この茨は良く分かっていらっしゃる。

 お姉さんの縛られ方、すっごくエロい。

 そしてこの、パンツが見えそうで見えないギリギリの角度がなんとも……。


「ちょっと変態! 覗き込んでないで、とっとと放して!」


「…………僕と友好的に握手したら味方に認定されるから離れるよ、きっと」


「じゃあ早く! 手を出しなさいよ!」


 もちろんだとも。


「では改めて。…………僕のダンジョンのラスボスをやって下さい!」


 彼女の望み通り、僕は右手を差し出した。



 ――所詮人生は、誰かの書いたシナリオに過ぎない。

 そんな誰かの作った物語で、僕はどうやらベストエンドへとたどり着くことができたようだ。


 白、赤、金。

 三つの月が静かに見つめる地、セカンド・ランド。


 僕はここで、夢に見た理想のラスボスをダンジョンへ迎え入れることができた。


 ……そして夢に見た理想のケリを、散々叩き込まれることになった。




 ††† ††† †††




 ――物悲しいヴァイオリンの調べがしじまに漂う。

 森の中に出来た不自然な広場は、その中央に銀色の長髪を据え、彼の後ろに二人の美姫を従わせていた。


 女性は二人とも黒の長髪。

 一人が無心にヴァイオリンをかき鳴らし、一人は光を失った瞳で虚空を見つめながら、自分の飼い主に問いかけた。


「……何が、楽しい? ガルフ伯爵」


 伯爵と呼ばれた男は軽く笑い声を零しながら千里眼を閉じる。

 そして森の木々の先、沼のほとりで金髪の女性に蹴り飛ばされる少年の姿を思い出しながら、再び白い牙を覗かせて笑い声をあげた。


「くくっ……、実に愉快な夜だ。ハーブを溶いた茶が、偶然にも透明なまま爽やかに香るが如き心地がする」


 ビロードの黒マントをばさりとなびかせたその内から覗く引き締まった腕。

 深い陰影が刻まれた逞しい腕が、自失して立つ女性から燭台を奪い取る。

 そして青い炎を揺らしていたロウソクを吹き消すと、付近一帯で走り回っていた数百のコボルドが瞬く間に姿を消した。


「彼の作った物語を見ただろう。あれがE3DRPGアンシラリー・リアル・ロールプレイングゲームと呼ばれる物のようだ。……素晴らしかった。感動した」


「感動? ……分からない」


「感情が無いのか君は。それでもヒューマンか?」


「感情……、感情……?」


 黒マントの男が燭台ごとロウソクを手の平の中に吸い込ませる。

 すると今まで虚空ばかりを見つめていた女性が男をじっと見つめ、その瞳に光を取り戻しつつ……、そしておぞましく歪めた美顔に、恐怖と絶望とを映し出した。


「……ぁ・ぁ・あ・ああああああ! いやーーー!!! おかあさっ! ……」


 ……男の元から逃げ出そうと背を向けた彼女の叫びは、ヴァイオリンの音色と共にふつと途絶える。

 その涙は、首に牙を立てられて流れる血と交じり合って胸を伝う。


「……夜更けに騒ぐものではないよ。上質なワインに胸躍る晩餐だって、そのコルクがテーブルで抜かれたら興ざめするだろう?」


 黒マントの男はそう言いながら、虚のような眼光に戻った女性を振り向かせ、そして赤黒く血塗られた唇でキスをした。


「まったく。……君に感情はないのか」


「感情? ……分からない」


「……実に話していてつまらないね。そんな人生で、君は楽しいのかい?」


 そう呟いて歩き出す男を阻む森の木々が、その根を引き抜き、道を空けていく。


「私も、RPGのマスターになりたくなったのさ。プレイヤーは彼らだ」


 再び始まる物悲しい音色と対照的に、男は楽しそうに口端をゆがませていた。


「それは『絶望』という名の物語さ。…………どうだ、面白そうだろう?」


 ……彼らを囲んだまま移動する森の中の広場。

 そこに這う、三つの月明りが生み出した影は、二人の女性から伸びる六つを数えることしかできなかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る