ひとりの誰か

@detour

ひとりの誰か

夕方。

西日の入るオフィスは赤く染められている。

 私は夕日を眺めながら、そろそろだ、と思う。

 入口のドアが開く。

 びくっと一瞬緊張した後、私は小さく深呼吸をする。

 ドアを開けた人物は、私に向かって歩いてくる。

 一歩、二歩。

 私は硬直して動けない。せめて私は目を瞑る。


 次の瞬間、私はその人の腕の中にすっぽり収まっている。

 ぎゅうぎゅう締め付けるため、私は息が苦しいと感じる。

 「あーまったく、おもしろくないことばっかり!」

 その人物は私を腕に抱いたままそんなことを言う。

 お客さんのクレーム、業者の手違い、思い通りに動かない部下たち。

 仕事量の多い彼は、毎日のようにストレスを溜め込んでいる。

 そのストレスをこうしてオフィスの女の子で解消する、という趣味の持ち主で、なお悪いことにこのオフィスに女は私一人なのだった。

 

 「どうしたんですか。またですか。今度は誰?」

 でも私は、その姿勢のままその人に労いの言葉を投げかける。

 あまつさえ背中をぽんぽんとたたいてあげたりしている。

 その表情にはなんの感情も浮かんでいない。

 

 ひとしきりハグをして満足し、彼は帰って行った。

 私はその背中を見送り、深く長いため息をつく。

 

 これが初めて起こったとき、私はとにかく驚いた。

 どうしていいか分からず、ただ突っ立って彼のなすがままになっていた。そうして彼の気が収まるのを待った。

 そして色々なことを考えた。上司に相談、公的機関に相談、同僚への吹聴。

 ただ、それを実行すれば、職を失うことになるのは分かっていた。

 それだけ彼は重要なポジションであり、会社が私と彼のどちらを取るかは明白だった。

 それらを天秤にかけた結果、私はこれを受け入れる選択をした。

 その選択が間違っているのは分かっていたし、流されてはいけない、という思いもあった。

 ただ、受け入れた方がずっと楽。

 戦うのはつらいもの。


 夕日が落ち、退社時刻を回った。

 私はすぐさま立ち上がり、オフィスを後にする。


 その日は知り合いの飲み会で、人数合わせで参加することになっていた。

 男の子が三人。女の子が三人。

 20代の後半、自分よりやや若い子たちが楽しそうに喋っている。

 テレビの話。仕事の話。モトカレ・モトカノの話。

 私は遠い世界のようにそれを眺める。

 1次会で帰る、と約束していたので、私は幹事の女の子に目で合図し、軽く挨拶をして店を出る。

 

 「あの。」

 店を出て数歩進んだところで、遠慮がちな声が私を呼び止めた。

 振り向くと飲み会に参加していた男の子だった。

 華奢ですらりと背が高く、伏し目がちな表情が気の弱い印象を与える男の子だった。

 私は小首を傾げ「なにかありました?」と聞く。

 男の子はゆっくりした歩幅で近づいてくると、ぼそぼそと言った。

 「送ります。飲んでないので。」

 そういえば下戸だと言って、この子は飲んでいなかった。手には愛車らしい車の鍵が握られている。

 「いいんですか?他の子たち、まだ次のお店に行くんでしょう?」

 「いいんです。帰ろうと思ってたから。」

 その言い方には、気の弱そうな印象からは似つかわしくない強引さがあった。

 結局私は部屋の近くまで送ってもらい、後日幹事の女の子から「予定外のお持ち帰り。」と文句を言われるはめになったのだけれど。

 

 次の日の夕方、私はそろそろだと思い夕日を眺めている。

 ドアが開き、その人が入ってくる。

 私に向かって直進し、太い腕の中に私を入れる。

 ひとしきり私を抱き締めて満足した後、彼は帰っていく。

 私はまた、深くて長い溜息をつく。

 分かってる。間違っているのは分かってる。

 ただ、目を瞑っていれば済むことだ。

 私さえ黙っていれば、なんの問題もないこと。


 数日後、携帯にメールが入った。

 「また会いたいです。」

 送信者の名前を数秒眺める。

 あの日、部屋まで送ってくれた男の子だ。

 「いいですよ。」私はそう返信する。

 「今週の日曜日はどうですか。」と続けてメールが来る。

 何も予定はないので手帳の確認をすることもなく私は返信する。

 「いいですよ。」

  

会う、という言葉通り、日曜日はただ会っただけだった。

 午後の3時にファミレスでお茶を飲み、ぼそぼそと会話をする。

 2時間後には、じゃあまた、と言って別れた。

 …何が目的だったんだろう?


「会えますか?」とメールが来て、「会えますよ」と言う。

 ファミレスで会って、他愛のない話をする。天気の話、仕事の話、選挙の話、公開になった映画の話。

 週に一度の約2時間の“対面”はしばらく続き、気が付けば3か月が経っていた。

 

また日曜日。

いつもの会話をしている最中に、私は疑問を感じ始めた。

 この子は何が目的なんだろう?

 そう思いながら、思わず彼をいつも以上に観察してしまう。

そうしているその瞬間、職場の“彼”が目の前の彼に重なった。

 ぎょっとした。

持っていたコーヒーカップを落としかけ、カップとソーサーがガシャンとぶつかる音を立てる。

彼が顔をあげて私を見る。不思議そうな、心配そうな顔。


"この子も、持っているのだろうか。"

"体に触れる、という欲求を。"

"職場の“彼”のように。"

 

私はそう思ったのだった。

そんなことを考えている自分に気づきぞっとする。

ただお茶に誘ってくれた男の子に向かって、そんなことを考えている。

 「どうしたの?気分でも悪いの?」

彼が心配そうに声をかけてくれる。

私は返事ができない。いたたまれない、と思った。私は立ち上がる。

 「ごめんなさい。今日は帰ります。」

 驚いている彼に背を向けて、私は逃げるように走り出す。

 

 私は自分を、汚れていると思った。

 

部屋に帰ってシャワーを浴びた。

 職場の“彼”のにおいがするような気がした。洗っても洗っても落ちている気がしない。

 気づくと私は泣いていた。

消えてしまいたいと思うほど、自分の存在が恥ずかしかった。

 

 次の日の夕方、私はそろそろだと思い夕日を眺めている。

 ドアが開き、その人が入ってくる。

 私に向かい、太い腕を広げて近づいてくる。

 私は目を瞑る。

 その瞬間、頭の中で声が聞こえた。

 「それでいいの?」

 ハッとして、目を開けた。

 にやけた表情を浮かべて腕を伸ばしてくる、目の前の大きな男が見える。

 その腕が肩に触れる直前、私は静かにその手を抑えた。

 「ごめんなさい。」

 一呼吸置いて、私は彼の目を見てはっきりと言う。

 「こういうの、よくないと思う。」

 空気が静止する。

 「は?なんだって?」 

 彼は一瞬ぽかんとした後、宙に浮いたまま止まっていた腕を下ろし、傷ついたような表情で私を見る。

 飼い犬に手を噛まれたような目。

 彼はそれでも少し歪んだ笑みを浮かべて、「なんだよ、どうしたの?いつも大人しくしてくれてるのに。」と、なだめるように言う。

 私は震えそうになるのをこらえて必死に言う。

「ごめんなさい。私、本当は、よくないことだって分かってて、でも言えなかった。あなたの仕事が大変なことも分かるし、こうすることであなたの気が収まって、会社の仕事がうまく回るなら、それでいいんだ、って自分に言い聞かせて。でも、そうじゃないですよね。」

私はそこで一呼吸つき、彼に深々と頭を下げた。

「これは、正しくないことでした。はっきり意思表示せずに、すみませんでした。」

数秒の沈黙の後、彼のため息が聞こえた。

「いや、僕も悪かったよ。君があんまり大人しく受け入れてくれてるから、いいんだと思ってしまったんだ。申し訳ない。もうしないよ、こういうことは。」

そう言ってポンと私の肩を叩くと、彼は帰って行った。


 私は力が抜けて、座り込む。

 全身が細かく震えていた。

 座り込んだ姿勢のまま、脳内で聞こえた声に脳内で返事をした。

 「よくなかったよ。本当はずっと。」

 

 日が落ちて、退社時間になる。

 荷物をまとめて早足でオフィスを出る。

 秋の澄んだ空気を切って歩く。いつもの道の銀杏並木。木々の葉は端っこから少しずつ黄色に色づき始めている。

 その道の先に、彼の姿があった。

私を見て、にっこりと笑う。

 私はゆっくり彼に向かって歩いていき、「どうしたの?こんなところで。」と聞いた。

 彼が私に手を伸ばしてきたので反射的に目をつぶる。その手で彼は私の髪を撫でつけて、そしてとても優しい声で、「がんばったんだね。」と言った。

 私は目を開くと、思わず彼を見つめた。

「…なんで?」

 心から驚いた声が出た。

「なんでそんなこと分かるの?」

 彼は笑顔のまま、簡単に言った。

「いい顔してる。」

「…なぁに、それ。」

私は聞き返す。

「私が何をしてきたかなんて、分からないのに。」

「分かるよ。」

 彼はそう言って、私の髪を撫でつけてくれた手で頬に触れる。

「髪がぼさぼさだよ。それにこれ、泣いた跡。袖のボタンも取れかけてる。これで何かあったんだなってことは分かる。でもそれなのに。」

 優しい笑顔で彼は続ける。

「すごくきれい。」

「…なぁに、それ。」

 私は照れて目を逸らす。

「がんばったんだね。」

 もう一度彼が言う。

 私は目を伏せたまま、少しづつ歩き出す。彼は半歩後ろをついてくる。

「…たぶん、あなたのおかげ。」

 彼を見ないまま私は言った。

「あなたがいてくれたから、私は自分の声が聞こえた。自分を大事にすることができた。人は一人では生きていけないって、こういうことを言うのかなって、初めて思った。恥ずかしい自分ではいたくないと思ったし、そんな自分をあなたに見せたくないと思ったら、ちゃんと勇気が出た。あなたのために、正しい自分でいたいと思ったの。」

 驚くくらい素直な言葉が私の口から溢れ出す。

 一呼吸おいて、後ろから彼の手が伸びてくる。暖かい手につかまえられて、私は彼の隣に並ぶ格好になる。

ゆっくりと口を開き、一層優しい声で彼は言う。

「それ、告白だよ。」

彼を見ると、赤い顔をしていた。赤くて、とても嬉しそうな顔。

私は答える。

「…そうかも。」

そう言った私の顔にも、穏やかな笑みが広がっていく。

彼の手に力が入り、私もそれを握り返す。

この先こうして彼と手をつないでいけることを、とても幸せに感じた。

いつもの夕日が、きれいに染まっている。いつもよりも水っぽく、洗われたような赤だった。

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