10-2 数ヶ月ぶりの客人

 北の森に魔女が住んでいるということは、この国に住むものなら誰でも知っている。それはベストセラーになっている絵本『北の森の魔女』のお蔭である。


 この絵本に描かれている魔女は、テナとは似ても似つかないしわくちゃの老婆で、耳と鼻は鋭く尖り、頬にまで裂けた口からはちらりとボロボロの黄色い歯が覗く。夜の闇のような真っ黒い三角帽とワンピースを身に着け、肩の上にはこれまた真っ黒なカラスを乗せている。


 魔女の小屋の煙突から絶えずもくもくと煙が上っているのは、大鍋で魔法薬の材料を煮込んでいるためである。その材料とは生きた人間で、何も知らずにその小屋を訪ねた哀れな旅人や、興味本位で足を踏み入れた愚かな若者、そして、彼女が満月の晩に攫ってきた子どもであるという。だから、満月の晩は決して夜更かししてはならない。魔女は親の言いつけを守らない子どもが大好きなのだから――……



 という内容であるのだが、当然、テナはしわくちゃの老婆ではないし、魔法薬を作るために生きた人間を使ったりはしない。まして、子どもを攫うなど。そもそも彼女は極度の出不精なのである。裏の温室に野菜を取りに行くなどということさえも嫌がるのに、わざわざ箒に跨って近くてもここから十キロも離れた街へ子どもを攫いに行くなど言語道断である。絶対に必要だというならば、プーヴァにお願いするだろう。


 さて、絵本にはそのように恐ろしい魔女として紹介されているわけだが、数ヶ月に一~三人ほどのペースで客人がやって来るのである。もちろん、進んで魔法薬の材料になりに来るわけではない。どうやらこの魔女に悩みを相談すると、気まぐれに魔法薬を授けてくれることがあるらしい、という噂がまことしやかにささやかれており、ちらりと頭をかすめる恐ろしい老魔女のイメージを必死に振り払ってやって来るのであった。



 テナとプーヴァの小屋に数ヶ月振りの客人がやって来たのは、その翌日のことであった。


 プーヴァは小屋の周りの雪掻きを終え、テナと自分のためにコーヒーを淹れていた。コンコン、という控えめなノックの音が聞こえ、奥まったキッチンから首だけをリビングに向けると、テナはゆっくりと頷いて玄関を指差している。客の応対ももちろん彼の仕事なのだ。


「はいはい、いま開けますから」


 プーヴァはそう言いながら、のしのしと玄関まで歩き、立て掛けてある姿見で全身を軽くチェックすると、ノブに手を掛けた。


「いらっしゃいませ」


 テナと話す時より、ハキハキと口を動かし、『いましゃべっているのは白熊の自分です』というアピールしながら扉を開ける。

 あまり効果はないのだが、こうすることによって、『人の言葉を話す白熊=特別=見境なく襲い掛かるような野生の獣ではない』ということを相手に伝えられるのではないか、と彼は真面目に思っているのだ。

 そして、そんな彼の細やかな気遣いは大抵の場合、相手に伝わることはなく、くるりとUターンして命からがら逃げられるか、その場で腰を抜かしたり目を回して倒れるか、という結果に終わる。


 扉の向こうにいたのは、見たところ二十代半ばといった若い女性であった。彼女は突如眼前に現れた巨大な白熊に叫び声も上げられない様子で、目と口をぽっかりと開いたまま固まっている。これなら後はこっちの働きかけ方次第だろうと、プーヴァは彼女が意識を保っているうちに話しかけた。


「魔女にご用ですよね?」

「……へぇっ?」


 自分を見下ろす巨大な獣が何やら穏やかな声で話しかけて来たことに彼女は困惑し、素っ頓狂な声を上げた。


「えーと、魔女。わかります? 魔女に、会いに、来たんじゃないですか?」


 少し身を屈めてさらにゆっくりと話すと、青ざめていた彼女の頬がほんの少し色を取り戻したように見えた。


「あ、は、はい。そうです……。私、魔女様に……」


 彼女はまだ怯えたような目をしていたが、いますぐ獲って食われるわけではないということを理解したらしい。プーヴァは彼女が少しだけ肩を下ろしたのを見届けてから、小屋の中を指差した。


「見えるかな、あそこに座ってるのが魔女さん。彼女の向かいに座ると良いよ。僕はお茶を淹れて来るけど、待たなくて良いから、どうぞお話してて」


 そう言って、手を差し出す。彼女はその意味が分からないようで、きょとんとした顔をしている。プーヴァが「コートと帽子。雪で濡れてるでしょ。乾かすから」と言うと、ああ、と言って慌てて脱いだ。


 プーヴァに外套と帽子を渡すと、その女性はちらちらとテナの方を見ながら、おずおずと近づき、軽く会釈してからその向かいの席に座った。テナは編み棒を動かす手を止めることなく、会釈を返した。キリのいいところまで編み上げないと、後で厄介なのである。


「ごめんなさいね。もう少しで終わるから。ちゃんと聞くから話して良いよ」


 ぶっきらぼうにそう言うと、向かいに座った女性は「はぁ……」と言って、俯いてしまった。


 話して、と言ってすぐ話し始めるのは稀である。

 いや、皆無かもしれない。


 大抵はこの異様な雰囲気に圧倒されるのか、はたまた、想像とは違う魔女の姿に拍子抜けするのか、なかなか話し始めないのだ。


「まぁ、そんなに急かさなくても」


 芳しい香りと共に穏やかな声が聞こえ、彼女は何だか少しホッとしたような気持ちになる。目の前にはほわほわと湯気の上がるコーヒーと、お茶請けのクッキーが置かれる。


「お砂糖とミルクはご自分でどうぞ」


 鋭い爪の先で器用に砂糖とミルクのポットを置くと、向かいに座るテナの前にも同様にコーヒーとクッキーを置いた。そして自分の分を置くと、二人の間に座った。

 女性はゆっくりとカップに口をつけ、おそるおそる啜る。鼻からふわりと香ばしい香りが抜け、すとんと肩の力が抜けた。


「さ、遠慮なくお話して」


 さっきまで恐怖の対象でしかなかった白熊の優しい声に背中を押され、彼女はぽつりぽつりと話し始めた。

 

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