1-終 めでたし、めでたし
それからぴったり二週間後、男は再びやって来た。
その日は風もほとんどなく、雪も降っていない。滅多にない『秋晴れ』と呼ばれる晴天である。
からりと晴れた空の下、その男は、二週間前よりも随分くたびれた様子で立っていた。
頬がこけ、目の周りは落ちくぼんでおり、酷いクマまで作っている。その目はぎらぎらと血走っており、ここまで走ってきたのだろうか、ぜぇぜぇと荒い呼吸をしていた。
出来上がった魔法薬は血のように真っ赤だった。透明なグラスに注いだが、向こうの景色が見えないほど濃い色をしている。
テナは男を小屋の中に入れ、椅子を勧めた。そして、男の目の前に真っ赤な液体の入ったグラスを差し出して言った。姿勢を正して、いつもよりちょっと低めの声を出して。精一杯、一人前の魔女に見えるように。
「えー、コホン。これを飲んだら、飲む前の状態には絶対に戻れない。効果は、あなたの望みを叶える可能性をいまよりも高めるというだけで、必ず叶うというわけではないわ。それから――あぁ!」
テナの話はまだ途中だったというのに、男はすべてを聞く前に彼女からグラスをひったくり、それを一息に飲み干してしまった。
「ちょっともぉ、まだ途中だったのに……。あーらら。飲んじゃった……」
テナは呆れた顔でぽつりと呟いた。
その言葉を聞いて、男の顔が絶望にゆがむ。
「これは……飲むものではなかったのか……?」
「いや、飲むものだけどぉ。こっちにも段取りってもんがさぁ……」
薬は全身に回り、男は苦しみのあまりに椅子から転げ落ち、喉を掻きむしりながら床をのたうち回った。
「どっ……毒か……っ?」
「毒なわけないでしょ。ちゃんと魔法薬だってば。苦いみたいだし、ちょっと苦しいみたいだよって忠告する前に飲んじゃうんだもんなぁ。説明は最後まで聞きなさいよね。――さぁってと、ねぇ、カノさんのいちばん好きな動物ってなぁに?」
テナはごろごろと転がりながらもがき苦しむ男の傍らにしゃがみ込み、のん気な声で問いかけた。
「ど……動……物……?」
「早く早く。早くしないと!」
男が飲んだ魔法薬は『へんしん薬』の一種で、強く思い浮かべた動物にその姿を変えられるというものである。
しかも、プーヴァの『へんしん薬』とは違い、二度と元の姿には戻れない。
「何だった……かな……」
男は必死に思い出そうとしたが、なぜかカノとの思い出が薄れていることに気付く。カノの顔もおぼろげだった。ただ、カノの声や匂いだけは鮮明に残っている。
男の脳は少しずつ動物のそれに変わろうとしている。早く何かの動物を思い浮かべないと、身体は人間のまま、獣の脳で生きていく事になってしまうだろう。
「本当はそれを聞いてから飲んでもらおうと思ってたのに。まったくもう」
テナは頬杖をつきながらふぅ、と息を吐いた。
「どう? うまくいった?」
と、プーヴァがこれまたのん気な声を上げながら、ちょうど焼き上がった自慢のアップルパイをのしのしと運んできた。
「わぁ、良いにおーい! こっちはあともう少しなんだよね。この人、ちょっとせっかちすぎるんだよね、まったく」
テナはそう言って彼に駆け寄り、切り分けられたアップルパイに手を伸ばす。
用意された皿に一切れ乗せると、断面からほわりと湯気が上がった。シナモンの香りが鼻孔をくすぐり、思わずじゅるりと涎が垂れる。
テナはしばし男の存在を忘れ、大口を開けてかぶりつこうとした。
その時である。
「――くっ、熊だぁっ!」
背後から聞こえた男の声に驚いて振り向く。
男は恐怖に目を見開いた状態で、プーヴァを見つめていた。
そんないまさら。
二週間前も会ったじゃないか。
とプーヴァは思ったが。
その言葉をきっかけに、男の身体は急速に変化し始めた。
全身はびっしりと針のような固い毛に覆われ、身体はどんどん大きくなり始める。
そしてそのうち、人としての理性も失われていくだろう。
「このままでは危険かなぁ」
プーヴァはまだ熊に変わりきっていない男をよいしょと担いで小屋の外に放り投げた。この小屋へ戻ってこないよう、肉の塊をさらに遠くへ投げる。
熊になった男はしばらく雪の上に転がっていたが、やがて立ち上がるとのそのそと肉の方へ歩いて行った。
「――ねぇ、テナ、本当にあの薬で良かったの?」
「熊になっちゃったのは誤算だったけど、もしカノさんの好きな動物……、例えば、ほら、猫とかにでもなれば可愛がってもらえると思ったのよねぇ。失敗だったかなぁ。ま、いっか」
テナはプーヴァの特製アップルパイに舌鼓を打つ。ハチミツのたっぷり入ったホットミルクを一口飲んで幸せそうな表情を浮かべた。
「ああ、幸せ」
***
自分の目的は何だっただろう。
落ちていた肉は食べた。
しかし、あんなものでは足りない。
とにかく、自分の家に戻ろう。
熊はのそのそと自分がいた村に向かう。
見慣れた風景に安堵していると、恐怖に顔を引き攣らせた村人が悲鳴を上げながら自分を避けた。
何だ? 一体どうしたというんだ。
どうして皆、自分を避けるのだろう。
――おや、あの男が持っているものは、何だ?
からりと晴れた秋晴れの空に乾いた銃声が三発響いた。
***
「でもさぁ、切羽詰まった状態とはいえ、恋人の好きなものもパッと出てこないようじゃねぇ。あの人、本当にカノさんが好きだったのかなぁ。自分に尽くしてくれて、自分を良い気分にしてくれる人が欲しかっただけなんじゃない?」
「そうかもね」
テナのハチミツ色の髪はまたほんの少し、ほんの少しだけ伸びた。
しかし、まだ肩には届かない。右手の小指の付け根がちくりと痛んだ。
ああ、また年をとったんだわ。
テナはそう思った。
そうして、テナは十四歳になった。
――客人No 2 見返りのために与える娘 に続く
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