第百三十二幕 ~合わせ鏡~ 其の弐

「オリビアさん?」

「なに?」

「そろそろ過日のお答えを聞かせていただいてもよろしいでしょうか?」


 オリビアは飲んでいた紅茶を静かにテーブルへ置いた。


「──やっぱり王国軍に残ることにした」


 悩みつつも最終的にはこちらの申し出を受けてくれるだろうとの思いがあった。それだけにオリビアの決断は、ソフィティーアに一瞬言葉を忘れさせた。


「──理由をお聞かせ願いますか?」


 無理強いはソフィティーアの望むところではない。が、さすがに理由を問わねば引くことができなかった。

 オリビアはカップのふちに指を所在なさげに指を滑らせながら口を開く。


「私がいなくなるとね。すぐに死んじゃう人間がいるの」


 そう言ってオリビアはたははと笑う。その言葉を聞いて、ソフィティーアの脳裏に浮かんだのは優しい顔立ちをしたひとりの青年だった。


「もしかして、アシュトンさんのことですか?」

「うん」

「つまりアシュトンさんを放っておけないから王国軍に残ると、そうオリビアさんはおっしゃっているのですね?」


 オリビアはコクリと頷いた。


「ではゼットさんのことはよろしいのですか?」

「よろしくないよ! ゼットは絶対に見つけたい!」


 勢いよくテーブルから立ち上がったオリビアは、興奮気味に言う。


「でしたら──」

「……最初はね。人間のことなんてどうでも良かったの……興味もなかったし」


 再びテーブルに座ったオリビアはとつとつと語り始める。ソフィティーアは黙って話を聞くことにした。


「だけどアシュトンが崖から落ちて、クラウディアには冷静になれって私は言ったけど、もし、もしもアシュトンが死んじゃったらと改めて考えたら、私の中にあるぽかぽかしたものがなくなって、なんだかよくわからないけどとってもとっても寒かった。あれがクラウディアだったとしても、きっと私は同じことを感じたんだと思う。ゼットが私の前から突然いなくなったときも胸が締め付けられるようなわけのわからない痛みに襲われたけど、それでも私が生きていればゼットとはいつか絶対に会えると信じている。だけどアシュトンは違う。私が傍にいないとアシュトンは簡単に死んじゃう。だから……」


 話を終えたオリビアが再びカップへと手を伸ばしたタイミングで、宵の刻を知らせる音色が静かに鳴り響いた。


(……話を聞く限り説得するのはどうにも難しそうですね。──ならばオリビアさんの言う大事なものが跡形もなく消えてしまったとしたら?)


 アシュトンとクラウディアの顔が脳裏を掠めた次の瞬間、オリビアはソフィティーアに身を乗り出すような仕草をみせて口を開いた。


「友達はそんなこと考えないと思う」

「え?」

「せっかく友達になった相手をぶっ殺したくないし」


 間近で見る彼女の瞳はこれまでにないくらい漆黒に染まっている。そのまま見つめれば得体のしれないなにかに取り込まれてしまう感覚を覚えてしまうほどに。


(わたくしの思考を読んだというのですか……!?)


 いつの間にか手のひらはじっとりと汗が滲んでいた。それでも表情にはおくびにも出さずにオリビアへ告げた。


「オリビアさんがなにをおっしゃっているのかがよくわからないのですが?」

「本当にわからないの?」

「ええ」

「ふーん……ま、これからもソフィティーア様とは仲良くやっていきたいし、そういうことにしておいてあげる。──じゃあ、そろそろ私は帰るね」

「ではすぐに馬車の手配を──」

「大丈夫。近いから歩いて帰るよ」


 オリビアは手を振りながら軽い足取りで部屋を後にする。それと同時に食卓の蝋燭が僅かに揺れると、ひとりの男が物音ひとつ立てずに天井から舞い降りてきた。


「──ザックさん、どう見ます?」

「噂通り、いや、それ以上の化け物と見受けました。完全に気配を断ったにもかかわらず、こちらに気づいているばかりか平然と無視を決め込んでおりました。あれとは絶対に敵対してはいけません」

「かつて〝死の伝道師〟と呼ばれたほどの暗殺者がそういうのでしたら間違いありませんね」

「昔のことです。今は聖天使様の忠実なるしもべ。それよりもなにとぞ早まった真似だけはなさらないでください」

「わかっています」

「──失礼いたします」


 ザックは煙のように食堂から掻き消える。ひとり残されたソフィティーアは、グラスに残された葡萄酒を一気に呷った。


(それにしても聖天使であるわたくしを脅しますか……ふふっ。増々もって気に入りました。今回は引きますが、大陸統一にはオリビアさんの力が絶対に必要です。わたくしは簡単に諦めたりはしません)



△▼△


 秋も本格的に深まり、紅葉に彩られたラ・シャイム城の中庭はしっとりとした様相を呈していた。木々の間を忙しく動き回る灰リスたちは、冬の訪れが近いとばかりに頬袋を大きく膨らませながら、巣穴の中に木の実をせっせと運んでいた。


(こちらにいらしたのか)


 絨毯のように敷き詰められた落ち葉を踏みしめながら、ヨハンは小さなテーブルでお茶を飲むソフィティーアに歩み寄った。


「発たれましたか?」


 ソフィティーアは視線をヨハンに向けることなく口を開く。


「はい。さきほど聖近衛騎士の面々と一緒に」

「そうですか。見送りご苦労様です。──せっかくですからヨハンさんもご一緒にいかがですか?」

「では遠慮なく」


 勧められるまま椅子に腰かけたヨハンは、改めてソフィティーアを真っすぐ見据える。優雅にお茶を飲む美しきその姿は普段と何ら変わることがなかった。


「ヨハンさんは最近難しい顔をするようになりましたね」


 おどけたような調子で言うソフィティーアに、ヨハンはガリガリと頭を掻いた。


「そんなことよりこのまま行かせてしまってよろしかったのですか?」


 ほかの誰でもなくオリビアのことであるのは言うまでもない。ノフフェスとの一件でオリビアに対する熱がさらに上がったとラーラから聞かされていたからだ。

 ソフィティーアはヨハンをしばしの間見つめ、


「ヨハンさんはあまり乗り気ではないと思っていました」


 と言って静かに微笑む。心底を見抜かれていることにヨハンは苦笑した。


「おっしゃる通り個人的にはそうかもしれません。ただ神国メキアの未来を考えるなら、オリビアの武力は必要不可欠です」

「その通りです。ですが断られた以上は大人しく引き下がるより仕方ありません。それともヨハンさんが説得されますか?」


 ソフィティーアにそう問われ、ヨハンは言葉を詰まらせた。命令とあらば説得を試みるが、間違いなく徒労に終わるだろう。オリビアは自ら決めたことは曲げないタイプだと、様々な女を見てきたヨハンなりに自信があった。


「私が説得しても結果は同じでしょう」

「ではやはりわたくしが頑張るよりほかありませんね」


 ソフィティーアは華奢な腕に力こぶを作って見せた。


「諦めたのではなかったのですか?」

「ヨハンさんは知らないようですね?」

「なにをですか?」

「わたくしが諦めの悪い女だということをです」


 ソフィティーアはそう言って、桃色の唇から小さな舌を可愛く突き出す。


(そういえば聖天使様も己が決めたことは絶対に曲げないタイプだったな)


 どうやらオリビアを諦めるつもりはさらさらなさそうだと、ヨハンは澄んだ青い空を見上げて笑うのだった。


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