第百十幕 ~帰国~

──ファーネスト王国 西部

 

 渺茫びょうぼうたる漆黒の森を一台の馬車が進んでいる。馬車を囲むように並走するのは、浅紫の鎧に銀翼の紋章が刻まれた聖近衛騎士の面々。彼らは葉のざわめく音や獣の遠吠えに緊張しながらも、何者も馬車に近づけまいと最大限の警戒を行っている。


 見事な装具を身に着けた二頭の白馬に、当代一流の名工によって造られた重厚且つ気品漂う白塗りの馬車。世に二つとないであろうこの華麗な馬車に乗るのは、同じく華麗な衣装に身を包んだ神国メキアの統治者、聖天使ソフィティーア・ヘル・メキア。そして、アメリアやヨハン。さらにはラーラといった魔法士三名が、万が一の事態に備えて乗り込んでいる。


 馬車の遙か先を駆けるのは十二衛将筆頭であるヒストリア・グレイス。彼女に付き従うのは手練れの者たちばかりが二十名。

 進路の妨げとなる者が現れた場合、彼女には遅疑なく処理するようラーラが命じており、万全の警備態勢を敷いていた。


 その警備対象であるソフィティーアはというと、しばらくとりとめのない話で馬車内に花を咲かせた後、王都フィスを発してから終始険しい表情を浮かべているヨハンに声をかけた。


「ヨハンさんにはなにか気に入らないことでも?」

「──無礼を承知で申し上げますが、危険を冒してまで夜更けに帰る必要性があるのですか? しかも危険がひしめく森の中を」

「ヨハン。聖天使様の決定に異を唱えるのか?」


 ラーラが苛立ち気味に口を挿み込む。


「ラーラさん。構いません。──確かに私たちが足を踏み入れている場所が危険だということは十分理解しています。ヒストリアさんや聖近衛騎士のみなさんに苦労をかけていることも承知しています。それでも神国メキアの最短ルートである以上、ここを避けては通れません」


 比較的安全なルートを選択したとしても、神国メキアに到着するのは二日ほど遅れてしまう。これはファーネスト王国が領内整備を怠っているわけではなく、そもそもデュベディリカ大陸において人間の住まう領域などたかが知れているのだ。

 そのほとんどは山が連なり森に覆われ、そこには人間の力など及ばない獣たちが数多く存在している。とくに危険害獣に指定されている獣は、今も昔も人間にとって大いなる脅威だ。非力な人間たちは知を最大の武器にして、長い年月をかけながら彼らの領土を少しずつ切り取っていった。

 人間の歴史とはそのまま獣たちとの生存をかけた歴史でもあるのだ。


「危険を承知で帰りを急がれる理由……もしかしてオリビア・ヴァレッドストームを早々に我が国へと招待するためですか?」


 ヨハンはひとしきり顎を撫でまわした後、こちらを窺うように尋ねてきた。


「もちろんです。アルフォンス王はわたくしの願いをなんら疑いもせず承諾してくれました。そういう意味では実に与し易い相手です」


 これが賢帝と名高いラムザであれば、これほど上手く事が運ばなかったに違いない。自国が有する最強の武人を、たとえ同盟を組んだ国とて普通は易々と行かせはしないものだ。ソフィティーアがアルフォンスと接した時間は限られたものであったが、それでも彼の器量を推し量るには十分な時間であった。


「聖天使様、まさかとは思いますがオリビア・ヴァレッドストームを神国メキアに引き入れるおつもりですか?」


 アメリアが無表情で尋ねてくる。だが、ほんの僅かに眉が吊り上っているのをソフィティーアは見逃さなかった。


「ふふっ。仮にそうだとして、アメリアさんは賛成してくれませんか?」

「聖天使様が決めたことに反対などいたしません。ただ……」

「ただ?」

「……ただなんとなく私とは気が合いそうにありません。やたらと食い意地が張っているようですし」


 最後はそう言って不快な表情を隠すことなくあらわにした。

 オリビアが物凄い勢いでテーブルの料理を平らげていたのはソフィティーアも知っている。その健啖ぶりにはさすがに驚かされたが、同時にあそこまで美味しそうに食事をする様は可愛らしくもあった。聞いていた以上の凄まじい美しさも相まって、そこだけ見れば帝国軍を震え上がらせている死神にはとても思えない。

 しかしながらアメリアにとっては、どうにも不快に映ったらしい。


「そうか? 見た目はまだしも気質はアンジェリカと似通っている部分が多いと俺は思うが?」


 ヨハンの見立てはなるほどとソフィティーアを納得させた。確かに無邪気という一点で二人はよく似ている。


「……アンジェリカに似ているからといって、それがどうしたというのですか?」

「いや、別に」


 そう言ってニヤニヤと笑うヨハンに、アメリアは珍しく盛大な舌打ちをひとつ披露してみせた。


「聖天使様、オリビア・ヴァレッドストームを引き入れることに私も異存はありません。その目的はやはり魔術の解明ですか?」


 ラーラの言葉にヨハンの顔から笑みがスッと消え、元の険しいものへと変化する。ソフィティーアは微笑みを浮かべることで回答とした。


「やはりそうですか……ですがそう簡単に教えるでしょうか?」

「そのためにもまずはこちら側に引き込むことが先決です。事を急いて失敗するほど愚かしいことはありませんから」


 さすがのソフィティーアも晩餐会の短い会話でオリビアの人となりを判断することは難しかった。それでも確実にわかったことは、彼女には良くも悪くも欲がないということである。多少なりとも欲がある人間であれば、いくらでも籠絡する自信があるのだが。


(それにあの男──ズィーガー卿のこともある)

 

 アメリアに続きヨハンさえも退けたと聞いたときは、さすがのソフィティーアも閉口した。将来帝国軍と戦端を開くからには、当然フェリックスのことは無視できない。ヨハンの話では神国メキアに寝返るよう誘いをかけたらしいが、一顧だにしなかったらしい。

 本来なら回避不可能なはずの風華焔光輪をオリビアは魔術で防ぎ、そしてフェリックスは剣技でもって防いでみせた。このことからも二人の実力は拮抗しているとみていいだろう。フェリックスに寝返る要素は皆無。であるならば、こちらの犠牲を最小限に抑えるためにも、オリビアの力は是が非でも手に入れておきたい。

 それだけに慎重に話を進めていかなければと、ソフィティーアは改めて強く思う。


「彼女を引き込むことに俺も異論はありません。ただ、たとえ教えてくれたとしても魔術を会得できるとは限りませんが?」


 ヨハンの言い方には、多分に魔術を否定するような響きがあった。彼も一流の魔法士。矜持というものがあるのだろう。その気持ちがわからなくもないソフィティーアは、あえて否定はしなかった。


「それならそれで構いません。王国最強の武力と魔術の使い手。それだけでも神国メキアは計り知れない恩恵を受けることは間違いないのですから」

「オリビア・ヴァレッドストームが聖天使様の誘いを受けたとして……どのような待遇をもって迎え入れるおつもりですか?」


 ラーラから僅かに緊張した様子が伝わってきた。


「確かオリビアさんは最近少佐から一気に少将に昇格したのですよね」

「聖天使様のおっしゃる通りです」

「彼女の功績からしたらそれも当然でしょうが……そうですねぇ。最低でも上級千人翔の椅子は用意しないとつり合いは取れませんね」


 馬車内にゴトリと鈍い音が広がった。見るとアメリアが慌てて手にしていたカップを拾っている。中身は空だったようで、床に敷き詰められた絨毯が水浸しになることはなかった。

 そんなアメリアをラーラは冷えた目で一瞥した後、口を開く。


「上級千人翔ですか……。実際のところ私はオリビア・ヴァレッドストームの魔術は言うに及ばず、剣技すら見ていません。それゆえ相応しいかどうかは判断しかねますが」


 言いながら、ラーラはヨハンに胡乱気な視線を向けた。


「ラーラ聖翔はまだ疑問をお持ちですか? 俺も認めたくはありませんが魔術は確かに存在します。そして彼女の魔術は明らかに魔法の上をいっていました。剣技ひとつとっても俺は彼女の足下にも及びません。正直上級千人翔でも足りないかと」

「上級千人翔の上は聖翔しかない。オリビア・ヴァレッドストームには聖翔こそが相応しいと、そうヨハンは思っているのか?」


 鋭い刃のようなラーラの言葉に、ヨハンは戸惑ったように苦笑した。


「この際俺がどう思うかは問題ではないでしょう。それら全てを決めるのは聖天使様ただおひとりなのですから」


 三人の視線が同時に自分へと向けられるのを感じながらソフィティーアは居住まいを正した。


「皆も知っての通り、わたくしが要職に就ける上で判断するのは地位や家柄ではありません。それにふさわしい実力の持ち主であるか、その一点のみです。ヨハンさんの話をもちろん信じていますし、帝国軍との戦いにおいて彼女の実力はすでに証明されています。それでもわたくしが最終的に判断するのはこの目で見たことのみ。オリビアさんを正式に迎え入れた暁には、当然力を測らせていただきます」


 そう答えると、アメリアとラーラはコクリと頷く。

 本音を吐露すれば、実力を測ることすらないとソフィティーアは思っていた。なにより死に体であった王国軍がここまで盛り返してきたことがそれを証明している。ただ、それでは実際に剣を交えたヨハンは別として、アメリアやラーラは納得しないのは想像に難くない。

 もちろんソフィティーアが決めたことに否を唱えないことはわかってはいるが、後々しこりを残す結果になるだろう。それでは神国メキアを統べる者として失格だ。悲願である大陸統一を果たすためには、臣下たちに毛ほどの疑念も抱かせてはならない。


(それもこれもオリビアさんがわたくしの誘いに対し、首を縦に振るかどうかですが……。とりあえず国に戻ったら名うての料理人を集めることが先決ですね。それとオリビアさんに付き従っていた女。おそらくは彼女の副官でしょうが、あれはちょっと邪魔ですねぇ)



 窓越しに見る風景は絶えず生存競争が繰り広げられている苛烈な世界。

 馬車はカラカラと小気味よい音を発しながら闇の中を突き進んでいた────。


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