第百八幕 ~死の森~ 其の壱

 帝都オルステッドから遠く離れた北の大地に、死の森と呼ばれる場所がある。一角獣や吸血鳥などの危険害獣第二種が跋扈ばっこする人外の領域であり、さらには危険害獣第三種に指定されている災害級の獣、通称〝アギト〟と呼ばれている獣の存在が囁かれている。

 滅多に人の前へと姿を見せないことから幻獣とも言われていた。


 古い文献によれば、かつて咢が街に現れて破壊の限りを尽くし、一夜にして廃墟に変えたという。また別の文献を紐解くと、数千人の兵士を犠牲にしてようやく討伐したとの記録も残されている。

 その一方、獣でありながら人語を介したとの眉唾な伝承も残されており、古くから北の大地に生きる先住民──シア族の間では神獣として崇められていた。


(ここを訪れるのも随分と久しぶりだな)


 そんな魔境ともいうべき森の中を歩くひとりの男──完全武装で身を固めたフェリックスが、鬱蒼と生い茂る草をかき分けながら進んでいく。振り子のような動きで巨樹から巨樹へと器用に渡る手長黒猿の群れは、不思議なものでも見るような視線をフェリックスに向けていた。


(ようやく見えてきましたね)


 道なき道を歩くこと二時間。

 やがて前方の視界が開け、丸太で組まれた簡素な一軒の小屋が見えてくる。ふう、と息をついたのも束の間、突然背後から圧倒的な気配を感じたフェリックスは、足の動きをゆっくりと止めた。明らかに人間が放つ気配ではなく、かといって本能を剥き出しにした獣のそれとも違う。


 慎重に振り返ったフェリックスの瞳に、透き通るような純白の体毛に覆われた美しくも巨大なる獣が映し出された。一見するだけも王者の風格と気品が感じられ、明らかにほかの獣とは一線を画している。

 巨獣は人間など簡単に踏み潰せるであろう凶暴な四足をゆったりと交互に動かしながら、フェリックスとの距離を詰めた。


「ご無沙汰しております。金剛杵ヴァジラ様」


 居住まいを正したフェリックスは、輝く金色こんじきの双眸で自分を見下ろすヴァジラに向かい丁寧に頭を下げた。ヴァジラは軽く頷いたような仕草を見せると、地面にどっかと座り込み、獰猛なる白き牙を覗かせた。


「ラサラたちに会いに来たのか?」


 思わずひざまづいてしまいそうな重厚な人語を発するヴァジラへ、フェリックスは首肯した。


「はい。久しく足を運んでいませんでしたので」

「ついこの間も来たばかりだろう」

「私がここを訪れたのは一年ほど前だったと記憶しているのですが……」


 フェリックスがそう言うと、ヴァジラは大きな鼻息を一つ落とす。すると、強烈な風が巻き起こり、フェリックスの髪をかき乱した。


「一年など我からすれば瞬きほどの時だが……まぁよい。あの娘はあれで割と寂しがり屋なところがあるからな。精々構ってやるとよい。それと一応獣たちには襲うなとの指示を出してある。もっともお前なら後れをとることもないと思うが」

「ご配慮ありがとうございます。私も無闇な殺生はしたくありませんので」


 言ってフェリックスは、腰に下げている小袋を撫でた。獣除けとされている雪中紅花せっちゅうべにばなをすり潰して固形状にしたものが入っている。最近狩人たちの間で流行りだしたものらしく、凶暴な獣であればあるほどこの匂いを忌み嫌うらしい。


 前回足を踏み入れたときは二度襲われた。今回は森に入ってから一度も危険害獣第二種と遭遇していない。それが雪中紅花の効果によるものなのか、それともヴァジラの指示が行き届いて襲ってこないだけなのか。フェリックスには判断がつかなかった。


「ふん。命がかろやかな地に足を踏み入れてなおそんな言葉が吐ける人間はお前だけだろうが……用が済んだらとっとと帰れ。お前自身が放つ匂いのほうが余程獣共を刺激する」


 立ち上がり身をひるがしたヴァジラは、ふさふさとした二つの尻尾を悠然と揺らしながらいずこかへと去っていく。その姿を見送ったのち、フェリックスは再び丸太小屋に向けて歩を進めた。



 丸太小屋に到着したフェリックスが扉をノックしようとした刹那、


「この匂いはフェリックスか! 会いたかったぞ!」


 僅かに開かれた窓から勢いよく飛び出してきた妖精、シルキー・エアが星屑を散りばめたかのような軌跡を描きながらフェリックスの肩にフワリと腰掛けた。人間とほぼ変わらない容姿だが、大きさは人間の手のひらほど。決定的に違うのは鋭利に尖った両耳。そして、背中に生える鈍色の四枚羽だ。


 フェリックスは無邪気な笑みを浮かべるシルキーの頭を人差し指で優しく撫でる。すると、シルキーはキャッキャと足をバタつかせながら頬にすり寄ってきた。


「久しぶりですね。元気でしたか?」

「僕はいつだって元気だぞ! だけどラサラが僕をこき使うから大変なんだよ。ま、それもこれも僕の魔法がとびきり優れているからだけどね」


 エヘンと胸を張りながらシルキーは言う。


「そうですか……しかし、しばらく見ない間に随分と綺麗になりましたね」


 フェリックスは改めてシルキーをまじまじと見つめた。前回あったときは肩にかかる程度であったと記憶している髪の長さが、今は二の腕あたりまで伸びている。元々品の良い顔立ちをしていたが、一年前より幼さが消えているので余計にそう感じるのだろう。爽やかな緑色のドレスが薄桃色の髪とよく合っていた。


「そ、そうか! 僕、そんなに綺麗になったか!」


 はにかみながら立ち上がったシルキーは、体を優雅に一回転させる。だが、思いのほか勢いをつけすぎたらしい。ドレスの裾が大きな広がりをみせると、シルキーは慌てたように押さえつけていた。


「うぅぅ……見た?」


 シルキーは顔を真っ赤にしながらフェリックスを睨みつける。恥ずかしそうに振る舞うその姿は人間の女性となんら違いはなかった。


「なにも見ていませんよ」


 本当に見ていなかったのでそう答えるも、シルキーの表情は変わらない。それどころか疑いの色を深め、さらには激しく地団太を踏み始めた。


「ウソだウソだウソだッ‼ フェリックスは絶対僕のスカートの中を見たッ‼」

「だから見ていませんって」


 半ば呆れながら強く否定するフェリックスに、


「じゃあ、何色だった?」


 と、シルキーが頬を思い切り膨らませながらジト目で問いかけてくる。その言い様がおかしく、フェリックスは思わず笑みを零した。


「あーっ‼ ほらあ‼ やっぱり見たんじゃないかッ‼」


 シルキーはさらに顔を赤く染めながら頬をポカスカと叩いてくる。フェリックスがなすがままにされていると、小屋の中から可愛らしい声が飛んできた。


「いつまでじゃれ合っているのだ? さっさと中に入らぬか」


 その声と同時に扉がギイィと音を立てながら自動的に開く。シルキーが耳元に体を寄せてきた。


「きっとね。ラサラは僕とフェリックスの仲を羨んでいるんだよ」


 ふふんと小気味よく鼻を鳴らしたシルキーは、開け放たれた扉の奥へと消えていく。フェリックスもまたその後に続くと、すぐに仁王立ちで待ち構える小さな女の子と目が合った。


「お久しぶりです。ラサラ様」


 ヴァジラのときと同様、フェリックスは敬意を込めて頭を下げた。


「お前は何度教えたら覚えるのじゃ! 大魔法士ラサラ様と呼べとあれほど申しつけたであろうがッ‼」


 ラサラは床をあらんかぎりに踏みしめながら言う。その姿は先ほどのシルキーを彷彿とさせ、フェリックスは笑いを堪えるのに苦労した。


「……小僧、まさか笑っているのではあるまいな?」

「笑うなど滅相もございません」


 慇懃に言葉を発したフェリックスに、ラサラはふんと鼻を鳴らす。容姿こそ幼い子供のそれだが、実際は三百歳を優に超えていると言っていた。まさに人外の領域に住まうものであり、生きる伝説である。


 なんでも子供の頃に〝神代の魔法陣〟を継承したときから今の姿を保っているという話だ。だからといって完全な不死というわけでもなく、魔法の中でも外法とされている秘術〝延命の法〟を使って無理やり現世にしがみついているような状態らしい。

 自然の摂理からは大きく外れているだけに、いずれ効果が消えれば呆気なく死に至る。そう言って寂しそうに笑っていたラサラの姿を、フェリックスは昨日のことのように思い出していた。


「……どうした? 急に深刻な顔をして」


 ラサラが訝しげな視線を投げかけてくる。シルキーは「大丈夫? ねぇ大丈夫フェリックス?」と言いながらフェリックスの周りを心配そうに飛んでいた。


「失礼いたしました。少し考え事をしていたので」

「なんじゃ紛らわしい。どうせ戦のことでも考えていたのだろう。全く、いつの時代も戦いはやむことがない。本当に人間とは愚かしい種族だな」


 ラサラはまぶたを下ろし、深い溜息を零した。長い、フェリックスには想像つかないほど長い時を見つめてきたであろうラサラの言葉は、ほかのどんな言葉よりも胸に突き刺さった。


「まぁ、そんなところです」


 誤魔化すよう頬を掻きながらそう言うと、シルキーは「なーんだ。心配して損しちゃった」と言って、フェリックスの頭をぽかりと蹴りつけた。


「それで、今日の用件はなんじゃ。言っておくがわしは寂しがってなどおらぬからな。全くあの犬っころめ。余計なことをベラベラと……」


 目を開けたラサラは忌々しそうに言って舌打ちをする。どうやら自分とヴァジラの会話を聞いていたらしい。おそらく、というか間違いなくなんらかの魔法を行使したのだろうが、さすがに自分を大魔法士ということだけはある。誇張でもなんでもなく彼女以上の魔法士は今の世にいないだろうとフェリックスは思った。


「実は──」


 そう切り出したフェリックスは、神国メキアの魔法士について話し始めた。ラサラはフェリックスの一言一句に適度な相槌を打ちつつも、最後はため息交じりの息を吐いた。


「小僧の見立て通り、戦闘系の魔法士でまず間違いないじゃろう。本来魔法とは人間の生活を豊かにするためのものであったというのに、今や戦争の道具に成り果てている。実に情けないことだな」


 呆れつつもどこか寂しげな表情を浮かべるラサラを、フェリックスは黙って見つめる。その視線に気づいたのか、ラサラはばつが悪そうに咳払いをひとつし、再び口を開いた。


「しかしかの国には少なくとも三人の魔法士がいるのか。また随分と豊作だな。わしが知る限り、ひとつの国でそこまで魔法士を抱える国はない」

「そもそも魔法士自体が稀有な存在ですから」


 大国である帝国でさえ魔法士はいうなりのラサラただひとり。ファーネスト王国に至っては魔法士の存在など聞いたことがない。いかにアルテミア大神殿が鎮座するとはいえ、神国メキアが異常過ぎるのだ。


「そうじゃな。しかも話から察するに若いながらも熟達者の域に達しているのだろう。小国とはいえ侮れんと言ったところか」


 フェリックスは強く頷いた。


「ええ、なのでお知恵を拝借できればと思いまして」

「知恵、なんの知恵じゃ?」


 ラサラは半眼で問うてくる。


「……お人が悪い。わかっているでしょうに」

「全くもってわからんな。手練れの魔法士相手とはいえ、小僧ならとくに問題なかろう」

「私は問題なくとも兵士たちは……。一応防御策も考えてはいますがそれも完全とは言えません。最悪三人も相手にしないといけませんから」

「そんなに兵士たちのことが心配なら戦争そのものをやめれば良い。実に簡単な理屈じゃ」

「本当だよね。なんで人間は戦争をして無駄に種を絶やしていくんだろう? 僕には全然理解できないよ。意味不明ってやつだよ」


 こともなげに言うラサラとシルキーに、フェリックスは苦笑するしかなかった。とくに種としての存続が危ぶまれている妖精シルキーにとっては本当に理解できないことなのだろう。だが、こればかりは皇帝ラムザの意志なので自分ではどうすることもできない。


「そこをなんとかお願いできませんか?」


 頭を深く下げるフェリックスに、ラサラは再び仁王立ちした。


「ま、大魔法士たるわしが出張れば造作もなく封殺できようが」


 そこで言葉を切ったラサラはニヤリと笑う。フェリックスにとっては嫌な予感しかしない意地の悪い笑みだ。


「この通りわしはすでに隠居した身。さらに言えば今の皇帝に義理などなにもない。よって小僧の願いは却下じゃ」


 ラサラはそう言ってカカと笑った。そもそも魔法を利用されるのが嫌で世俗との関係を断ったラサラである。死の森に引き籠った理由。それは連れ戻そうにも到底不可能な場所に他ならないからだ。誰が死の危険を冒してまで森に入ろうというのか。ある程度予想された言葉ではあったが、それでも落胆せずにはおられなかった。


「ラサラはとっても意地悪だ! フェリックス、僕が代わりに手伝ってあげるよ」


 シルキーがラサラの頭をポカスカ叩きながら協力を申し出てくる。フェリックスが返事を返す間もなく、鬱陶しそうにシルキーを手で払ったラサラが、呆れたように言った。


「架空の妖精が本当に実在していたと知れてみろ。人間は喜び勇んでお主を捕まえにかかるぞ」

「へーんだ。ノロマな人間に僕は捕まえられませんよーだ!」


 部屋中を縦横無尽に飛び回ったシルキーは、再びフェリックスの肩に腰かけると、ベっと可愛い舌をラサラに向けて突きだしていた。


「それでも捕まえてしまうのが人間のなせる欲なのだ。お前もほかの人間と触れ合えばわしの言っていることが少しは理解できよう」


 そういうラサラはどこか恥じ入るような顔をしていた。フェリックスは自分の手のひらにシルキーを乗せ、その透き通るような目を見据えて言った。


「ラサラ様の言う通り、一度でもシルキーの姿を見たら大抵の人間は放っておきません。それこそ見世物として捕まえようとする者が後を絶たないでしょう。同じ人間として実に恥ずかしい限りですが。ですからその気持ちだけありがたく頂戴しておきます」

「……フェリックスは僕のことが心配なの? 大事なの?」


 どこか熱の籠もった視線を向けてくるシルキーに対し、フェリックスは真摯に答えた。


「心配ですし、とても大事に思っています。ですからここに留まってください。ここなら私以外の人間がやってくることはまずありえませんから」

「そっか……」


 沈黙した後、フェリックスの頬に寄り添ったシルキーは、たどたどしい口づけをする。そして、頬を染めながら嬉しそうに開け放たれた扉から外へと飛び出していった。


「……小僧はいつから女の扱いが上手くなったのだ?」

「いえ、そんなつもりは全くないのですが……」


 ジト目を向けてくるラサラに、フェリックスは後ろ首を掻いて誤魔化すよりしようがなかった。


「まぁよい。それよりもほかに悩みがあるじゃろう。小僧は冷静なようでいて、実際顔に出やすいからな」


 相変わらずの鋭い観察眼に内心で舌を巻く。フェリックスは帝国にとって一番の脅威を語って聞かせた──。


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