③
真衣子の家は、翡翠崎女子学院からはバスで三十分程離れた海岸部にあった。いわゆる高級住宅地の一角で、歴史を感じさせる大きな屋敷だった。いわゆる、古民家というものだろうか。
塀で囲まれた広大な敷地に、緑豊かな庭園。自然なんて観葉植物くらいしかない高層マンションで暮らしているかぐやにしてみれば、まるで別世界に来てしまったかのように感じる。
「今日は来てくれてありがとう、成神さん」
「あ、いえ。突然押しかけてしまって、すみません」
学校からそのまま何の連絡もせずに来てしまったものの、結衣奈は笑顔で迎えてくれた。中へと促され、かぐやは客室へと案内される。
姉妹の両親は不在のようで、しんと静まり返った屋敷の空気はどこかもの寂しい。
「全然気にしないで。妹はこの家にお友達を呼ぶことなんてほとんどないから、むしろ嬉しいの。真衣子のことを気にかけてくれてありがとう。あの子にこんなに優しくて、親しいお友達が居たことが嬉しいわ」
香しい湯気を立てる茶碗を静かに置きながら、結衣奈が嬉しそうに微笑む。畳の爽やかな香りに、ふかふかとした座布団。木目調の家具や、柔らかな光を落とす和紙の照明。和室はかぐやのマンションにもあるが、比べることさえ出来ない。
ざあ、と風で木々が揺れる音が聴こえる。慣れない場所で落ち着かないが、かぐやは素直にこの空間が好きだと感じた。でも、それはあくまで景色だけ。
この場所に流れる空気というか、雰囲気というか。冷たくて、硬質な緊張感は息苦しい。
「えっと……先日もお伝えした通り、私は成神緋月の妹です。真衣子さんは閉鎖病棟に入院している為、外部からの接触は最低限に制限されています。ご両親はご多忙のようですし、お姉さんお一人では何かとご不便があるでしょうから、お手伝い出来ることがあればと思い、本日はこちらにお邪魔させて頂きました」
「ありがとう。実を言うと、とても有り難いわ。わたしも大学に通っていて、何かと手一杯だから……それに、真衣子のことを相談出来る相手が出来てすごく嬉しい。妹が精神科病棟に入院してるって、ちょっと友人には言い難い話だし。何だか、ほんの少し気が楽になったみたい。わたし達の両親、あんな感じだから」
向かい側に腰を下ろして、困ったように結衣奈が言う。先日は一人で抱え込んでいたのに、今日は少しだが吐き出してくれた。時間を置いたからだろうか。
これも、緋月の言った通りだ。
「……とは言っても、真衣子はまだ眠ったままだし。今のところは、お願い出来そうなことはないかな」
「そ、そうですか」
確かにそうだ。真衣子はまだ目を覚まさない。そして、いつ目を覚ますのかも不明だ。今の状況で必要なのは、精々着替えくらいだろう。
かぐやもそれは考えていたのだが。でも、このまま帰るわけにはいかない。何か無いだろうか。真衣子の為に、ではなく。
緋月の為に、必ず何かを見つけなければ。湯気を昇らせる茶碗を手にして、一口飲む。緑茶の爽やかな香りと味が、口中一杯に広がった。
「実は私、真衣子さんがどうしてあんなことになったのか、原因が知りたくて。悩み事とか隠し事があるのかもと思って、クラスの人にお話を伺っていたのですが……お姉さんは、真衣子さんが何か心当たりはありませんか?」
勢いに任せて、かぐやは自ら斬り込んだ。普段の彼女ならば絶対にしないのに。兄の役に立ちたいという思いが、いくらでも背中を押してくれるように思えた。
「悩み……そうね、やっぱり両親と仲が良くなかったことかしら。つい最近も、進路のことで何かあったみたい」
「進路、ですか」
ぎくり、と肩が強張る。そういえば、自分も結局何も考えられていない。
「その、実は詳しいことはわからないの。わたしも大学の方で手一杯で、両親や真衣子に話を聞こうとしたんだけど、何でもないの一点張りで」
「そう、ですか」
「あ、良かったら真衣子の部屋見てみる?」
「え?」
「ほら、もしかしたら何か手掛かりがあるかもしれないし。真衣子には、わたしが探し物をしたって言っておくから」
さ、行きましょ。腰を上げて部屋を出る結衣奈に、かぐやも続く。まさか、こんなに好意的に受け止めてくれるとは。良心が痛むとはこのことか。初めて感じるきりきりとした腹の痛みに、かぐやは溜め息を吐くしかなかった。
真衣子の部屋は二階の角にあった。彼女の部屋も畳だったが、客間とは雰囲気がまるで違う。
淡い黄色の絨毯に、ベッドやクッションなど。洋風の可愛らしい調度品が置かれた室内は何だかちぐはぐとした印象だ。机に置かれたルームディフューザーからだろうか、少々甘ったるいバニラの香りが漂っている。
かぐや程ではないが、これと言った特徴は無い。アイドルのポスターやアニメのグッズがあるわけでもない。バドミントンのウェアや道具が窓際の棚に置いてあるくらいか。
「……えっと、真衣子さんって何か趣味などは無いのでしょうか」
「うーん、趣味ねぇ。特にこれと言ったものはないかなぁ」
結衣奈に許可を貰い、後ろ髪を引かれながらも机の引き出しを開けてみる。でも、参考書やノートくらいしか無い。
マズイ、完全に的外れだったか。開けた引き出しを閉めて、かぐやが諦めようとした、その時だった。
「子供の頃は、真衣子と色々なことをして遊んだんだけどね。絵を描いたり、お裁縫をしたり。あの子、好奇心旺盛だったからいつも一緒に遊んでいたわ。でも、中学生になる前くらいかな。そういういう風に遊ばなくなったのは」
結衣奈がベッドに腰掛けながら、懐かしそうに話し始めた。なるほど、彼女の話しぶりからすると二人はとても仲が良い姉妹のようだ。
いや、仲の良い姉妹だったと言うべきか。
「成神さんは、お兄さんとそうやって遊んだことある? 男の人だし、結構年が離れてるみたいだから、そうでも無いのかな?」
「そうですね。あんまりそういうことは無かったと記憶しています。ああ、でも一緒に絵を描いたことは何回かありますよ。でも、兄の方がずっと上手くて。私、は」
はっとした。そうか、そういうことか。頭に電流が流れたかのような閃きに、思わず呼吸さえ忘れてしまった。
彼女も、かぐやと同じなのだ。
「そうか……もしかして」
「えっと、成神さん? どうしたの?」
「すみません! 用事を思い出したので、今日はこれで失礼します!」
頭を軽く下げて、かぐやは急いで真衣子の部屋を出て階段を降りる。失礼だとか、そういうことを考える余裕すら無かった。
わかった、わかったのだ。真衣子がどうして白ウサギを乗っ取ったのかを。緋月が探していた、真衣子の本性を。
スカートのポケットに入れていたスマホを取り出し、緋月に電話をかける。まだ仕事中の時間だと気づく頃にはコール音が止み、仕事に勤しんでいる筈の兄の笑い声が聞こえてきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます