第三章 白いウサギは少女を誘い込む


 休み明けの学校は穏やかであったものの、どことなく落ち着かない雰囲気が蔓延していた。慣れない非日常感に不安を感じている者と、高揚している者など様々だ。

 数日間という時間を経た為に、表面上はいつも通りだが。休み時間になる度にグループで集まってひそひそ話したり、意味ありげにスマートフォンを見せ合ったりしている。

 でも、それも午前中までだった。午後からは生徒達の心理的負担を軽減する目的で、専門の医師やカウンセラーを招いてカウンセリングを行うことになっていたのだが。

 それこそが、かぐやには思わぬ誤算だった。


「ね、ねえ……どうだった?」

「もうヤバい、格好良すぎる。しかも優しいし……だめ、何を話したか覚えてない」

「えー? 良いなぁ、あたしもあの格好良い先生が良かったなー!」


 翡翠崎女子学院には専任のカウンセラーや養護教諭が在籍しているものの、今回は全校生徒を対象に行っている為に、夢宮大学病院の方から特別に精神科の医師が何名か派遣されている。

 どうやらとある医師のせいで、今までとは違う高揚感が生徒達を浮き足立たせているらしい。待っている間は一応自習の時間となっているのだが、真面目に教科書や参考書を開いているのは三分の一くらいか。


「で、あの先生なんだけど……成神先生って言うんだって」

「成神、先生……?」

「それって、まさか……」


 クラスの何人かが、かぐやに熱い視線を注いでくる。手元の手帳に視線を落として気がつかないふりをしているが、それもそろそろ限界だろう。


「成神さーん。順番が来たから、準備してねー」

「……はい」


 助かった。ペンケースなどの不要なものは片付け、手帳だけを持って慌ただしく席を立つ。誰とも目を合わさないまま教室から出れば、ようやく一息つくことが出来た。

 戻る時のことを考えると胃が痛くなる思いだが、出来るだけ考えないようにと心掛けることに決める。


「成神さん、どうしたの……体調悪い?」

「あ、いえ。少し、緊張してるだけです」


 かぐやの顔を覗き込んでくるのは、副担任の園木先生だ。今年大学を卒業したばかりの新人教師で、不慣れながらも懸命に生徒を指導する姿勢が好印象だ。リスのような大きな双眸に覗き込まれてしまい、かぐやは咄嗟に誤魔化してしまう。

 緊張している、というかぐやの言葉を気に掛けてくれたのだろう。にっこりと笑いながら、園木先生は前を歩き始めた。


「そうなんだ。無理もないわ、こんな状況だし……ただでさえ知らない人と話すのって緊張するよね。でも大丈夫よ? 今日来てくれた大学病院の先生も含めて、全員相談事に乗るプロなんだから。先生もお話聞いて欲しいくらい……なんてね、冗談よ」


 拳をグッと握り締めるジェスチャーに、思わず苦笑が零れる。むしろ、知らない人の方が気は楽なのだが。

 そんなことを考えている内に、目的の場所へと到着してしまう。ここは教室棟の隣にある特別教室棟の二階。職員室や校長室、生徒指導室がある為に何だか本当に肩に力が入ってしまう。


「成神さんは第一指導室の前で待ってて。前の子が終わって面談室から出てきたら、ノックしてから中に入ってね。時間は一人十分まで。もっと相談したいことがあったら、放課後に個別で対応するから気軽に言ってね?」

「はい、わかりました」


 そう言って、園木先生は再び教室の方へと戻って行った。学生一人一人が相談しやすいように、どの部屋に入るかはほとんどランダムで決められているらしい。

 ……それでも、嫌な予感は募るばかりだ。


「あ、成神さん。次、どうぞ」


 がらりと扉が開いて、見慣れたクラスメイトの女の子が部屋から出てきた。視界に入った少女は頬をほんのり桜色に染め、どこか夢心地に見える。

 じゃあ、また後でね。小さく手を振りながら、足早に教室へと向かう後ろ姿を見送る。いつまでもここに居るわけにはいかない。

 覚悟を決めて、扉をノックする。そして、中から聞こえてきた声に肩を落としつつ、扉を引いて中へと入った。


「こんにちは。きみ、可愛いね。何年生?」

「……何をしているんですか、兄さん」

「何だ、ノリが悪いな」


 かぐやの反応がお気に召さなかったらしく、苦笑しながら肩を落とす緋月。その格好は日頃から愛用している黒づくめではなく、病院でよく見る白衣姿だ。

 予感的中、と言うべきか。


「せっかく外来診療を交代してまで愛しい妹に会いに来たというのに。まあ良い。あまり時間を割くことは出来ないからな、座ってくれ」


 促されるまま、手近の椅子に腰を下ろす。こうして緋月が居ると、面談室の様子はどこかと似ている。長机を間に置いて、緋月と向き合うように置かれたパイプ椅子。

 そうだ。病院の面談室と、とてもよく似ているのだ。部屋の広さも、備品も。違うのは、進路関係の資料が壁一面に置いてあることくらいだろう。


「……まさか、学校に来てくださるだなんて思っていなかったので。まだ纏まった報告は出来ませんが、これまで皆さんに窺ったお話をお伝えしますね」

「ほう、それはそれは。この時間はもう一つ、お前に頼みごとをしようと思って設けただけだったのに。助かる、ぜひ聞かせて貰おうか」


 パイプ椅子に腰を下ろし、いつものようにゆるりと脚を組む緋月。その態度に、先ほどのクラスメイトの言葉が思い出される。

 優しい、と言っていたから……かぐやが来る前までは人の良い精神科医を装っていたのだろう。改めて器用な性格だと感心しながら、手帳を開いた。


「えっと、それでは。クラスの人達や、羽藤さんと同じバドミントン部の人などにお話を聞きました。でも、皆さんほとんど同じことしかお話してくださらなくて」

「同じこと?」

「はい。のんびりしていて、マイペースな女の子だって。部活動へも真面目に取り組んでいて、特にこれと言った問題はありません」


 それが、緋月に頼まれていたことだった。友人や部活のメンバーから、真衣子の印象や噂話を集める。それほど活動的ではないかぐやにとって、なかなかの苦行であった。

 そうであるにも関わらず、大した情報は得られなかったことが悔やまれる。落胆させてしまうだろうか。恐る恐る、顔を上げて兄の顔を見る。でも、以外にも緋月は笑みを深めるばかりだった。


「なるほど。やはりか」

「え?」

「この翡翠崎のような進学校ならではの傾向だ。生徒は優秀で、対人関係も良好。だが、裏を返せばそれは大して深い関係を築いていないということだ。ほら、クラスにも居るんじゃないか? やたら内申点を気にする子が、一人くらいは」


 緋月の言葉に、つっかえていたものが取れたかのような感覚を覚えた。そうだ。そしてそれは、一人二人では済まない。この学校に居る皆は、恐らく大多数がそうだろう。

 全員が、入学試験の時から大学受験や就職のことを意識している。それこそ、推薦入試などを狙う者にとって内申点は進学に大きく関わってくる代物だ。


「自分のことを少しでも良く見せたいが為に、自分の本音や本心を隠す。教師だけではなく、友人達にも対しても良い子を演じる。そして、相手のことも深くは探らないようにする。これが中堅くらいの学校だったなら、陰湿ないじめなどがあるものだが……そういうものはあるか?」

「いいえ、聞いたことはありません」

「だろうな。この学校の生徒はとても優秀で良い子ばかりだ。今までもかなりの人数の子の話を聞いてきたが、こちらがむず痒くなるくらいにさっぱりと綺麗な話しか無かったな。これなら、不良が集まる偏差値がアレな学校の方が人間味があって遥かにやりやすい」


 

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