第二章 幻想の国は来訪者を待ち詫びる
①
休日の病院は、かぐやが思っている以上に静かだった。平日は多くの患者で賑わう外来棟も、今は通路に最低限の明かりが点いているだけ。診察室には
「あれ、成神先生。その子は?」
「お疲れ様です、青城先生。妹ですよ。可愛いでしょう?」
「ああ、なるほど。その子が……」
「あ、えっと……こんにちは」
緋月と共に病棟に行く途中で、一人の男性医師とすれ違った。胸元の名札には心臓血管外科医と書いてあり、夜勤明けなのか顎鬚が濃くどことなく疲れた様子だった。年齢は緋月よりも十は上だろう。
休日の、しかも緋月と共に居るかぐやのことが気になったのだろう。だが、翡翠崎の制服と彼女が首から下げる名札で『成神緋月の妹』という立場を理解したのか、青城はそれ以上何も言わなかった。
ただ、物珍しそうに緋月とかぐやを見比べただけ。
「……そうですか。この子が」
「先生は、もう上がりですか?」
「ええ。椛田教授の研究成果も気になるけど……それは来週、時間が出来た時に録画を拝見させてもらいますよ」
それでは、お疲れ様です。軽く頭を下げて、青城はその場を去って行った。思わず、緋月を見やる。
「……今の方は、別の診療科の先生ですよね? 兄さんのことを、ご存知のようでしたが」
「最近の精神科は、他科の診療科の患者を診ることも多いからな。それに……この俺のことを知らない医師など、夢宮に居る筈が無いだろう?」
黒髪をかき上げながら、くすりと不敵に笑う緋月。傲慢だが、気を抜いたら見惚れてしまいそうになる。青城は緋月の本性を知っているのだろうか、と憐れにさえ思った。
「さ、行くぞ。こっちだ」
緋月に付いて、通路を歩く。やがて外来棟から病棟へと移り、精神科の病棟へと辿り着いた。病棟とは言っても、二人がやってきたのは患者が居る病室からはかなり離れた場所だった。
「兄さん、ここは?」
「ここは処置室だ。今日は――」
とあるドアの前で立ち止まった緋月がドアノブを掴む。だが、彼がドアを開く必要は無かった。
内側から押し開けられたドアに、緋月はかぐやを庇うようにして脇に避ける。てっきり凪が先に来て待っていてくれたのかと思ったが、部屋の中から出てきたのは全く別の人物であった。
「これはこれは。何の用だ、成神くん。昨日言ったことを、もう忘れたのかね?」
「おはようございます、椛田教授。いえ、ぜひとも先生の研究成果を拝見させて頂きたいと思いまして」
椛田教授、と緋月が呼んだ男。初老で薄さが目立つ頭髪に、痩せた体躯。鷲鼻が特徴的な顔面は、かぐやの視線よりも少し低い位置にある。背の高い緋月はもちろん、女性であるかぐやでさえ見下ろすことになってしまう。
それが気に入らないのか、椛田はこれ見よがしに顔を顰めた。
「ふん。それは勉強熱心なことだ。もう一度言うが、羽藤さんはわたしの患者だ。きみは非常時に必要性を求められた時以外は決して手を出さないように」
「大丈夫ですよ、俺にもそれくらいの自制心はありますから。ですが、せめて妹の同席を許可して頂けないでしょうか。邪魔になるようなことはさせませんので」
「妹だと……?」
緋月の言葉に、椛田が目を皿のように見開いてかぐやを見つめた。じろじろと居心地の悪い視線に、咄嗟に頭を下げるしかない。
「えっと、すみません。成神かぐやと申します、兄がいつもお世話になっています」
「ふむ……『あの子』がもうこんなに大きくなったか。時間の流れは早いな」
追い出されても文句は言えない立場にも関わらず、椛田はふんと鼻を鳴らすだけ。そのままつかつかと足早に隣の両開きのドアの中へと姿を消した。
彼はかぐやのことを『あの子』と呼んだが、前に会ったことがあるのだろうか。
「やれやれ。教授と話していると首が疲れる……かぐや、こっちだ」
おいで、と緋月に促されて部屋の中へと入る。印象としては、刑事ドラマで見る取調室のように感じた。
それほど広くない室内に、几帳面に並べられた六席のパイプ椅子。向かいには大きなガラス窓……いや、マジックミラーだろうか。曇り一つ無く磨き上げられた窓からは、隣にある処置室の様子がよく見える。
「ああ、先生。かぐやさんも、おはようございます」
「おはよう、ナギ。おっと、麻佳先生もご一緒でしたか」
かぐや達に気がついたのか、凪が駆け寄ってきた。少し遅れて立ち上がり、緋月に向けてにっこりと微笑み軽く手を振る。背は緋月と同じくらいだが、肩幅ががっしりとしており白衣の上からでも体格の良さが窺えた。
胸元で揺れる名札には、准教授『麻佳一樹』と記してある。四十半ばに見えるが、清潔感がありとても若々しい。
「おはよう、成神くん。かぐやさんは久しぶりだね。前回会ったのは、半年前の検査の時かな」
「お久しぶりです、麻佳先生」
頭を下げて、挨拶を返す。椛田とは異なり、麻佳とは見知った仲だった。室内が知っている人物ばかりだからか、緊張が少しだけ緩んだ。
「他の先生達は来ていないんですね」
「今日は休日だから、病棟に居る医師自体が多くないからね。皆、医局や研究室で見るんじゃないかな」
麻佳の言う通り、結局その後に部屋に入ってくる者は一人も居なかった。凪が出入り口に近い席に座り、その隣にかぐや、緋月、麻佳という順番で腰掛ける。残り二つの席は麻佳の荷物だろうか、カバンやノートパソコンなどで埋められていた。
「羽藤さんには、かぐやさんも見学に来ることは伝えてあるんですか?」
「ああ、ご本人にもご家族にも事情は話してあるよ」
凪の問い掛けに、麻佳が答える。二人の会話に、少しだけほっとした。真衣子は昨日からスマートフォンの使用に制限があるらしく、連絡を取ることが出来なかった。
同じ学校でクラスメイトとはいえ、何の断りもなく治療の様子を見学するのは気が引けていたものの。かぐやは安堵に小さく嘆息した。
「そういえば、麻佳先生。羽藤さんのご家族は?」
「一応……連絡は入れたんだけどね。今日はお姉さんに別室で待機してもらっているよ。ご両親はお忙しいようで、今日は来られないそうだ」
「ふむ、彼女はご家族とあまり仲が良くないと聞いていたが……」
二人の話に、緋月が溜め息混じりに言った。こういう大掛かりな処置や手術の時は、家族や保護者が付き添うことが必要だと聞いたことがある。
かぐやの想像以上に、真衣子と両親の不仲は深刻のようだ。
「そろそろ時間のようだ」
麻佳の声に、彼を含めた四人が口を閉じて前を向いた。窓の向こうに見える処置室内は、一見するととても異様に思えた。
円になるように設置されたユニットには、いくつもの線とモニターが繋がっている。数人の看護師と技師が忙しそうに歩き回っており、見ているだけでも緊張感が伝わってくる。しばらくして、椛田や他の医療スタッフが入室し、最後に車椅子に乗せられた真衣子が部屋に入ってきた。
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