「どうしたの、成神さん? 進路希望、クラスで提出していないの……もうあなただけなのよ?」


 昼休み特有の、穏やかで少しだけ賑やかな職員室の一角で。湯気を上らせるコーヒーを机に置いた中年女性が、目の前に立った少女にそう声をかけた。


「……すみません。その、まだどうしようか悩んでいて」


 少女が申し訳なさそうに、頭を下げる。たったそれだけの動作にも関わらず、彼女の背に流れる艶やかな黒髪がさらりと揺れた。

 はっと、近くに居た何人かの男が彼女を振り向く。それを、中年女性が軽く睨み付けた。


「ううん、良いの。先生はね、怒っているわけじゃないのよ? 自分の進路を決めるのは難しいことだし、悩むのは当然だから。ただ、クラスの中で誰よりも真面目なあなたが期限を守らなかったのが気になってね」


 空気を読まない男達が逃げるように視線を外したのを認めると、やれやれと肩を落とす女性。彼女は少女の担任教師である田畑先生だ。ふくよかな身体に、品の良いスーツ姿。ただし、つい先日六月に入ったということもあり、クールビズということで上着は椅子に掛けられている。化粧は少々濃いが、笑顔は何だか可愛らしく生徒へ親身に接してくれるところが生徒からの人気は高い教師だ。

 対して、田畑先生が受け持つクラスの一人である少女。背は高いものの女性らしく凹凸のはっきりとした身体つきは、夏仕様のセーラー服の上からでもはっきりとわかる。しかしそこには陳腐な厭らしさはなく、指先まで纏う雰囲気は上品でしなやか。肌は雪のように透き通る白さで、桜色の唇に淡く色付く頬。

 少女らしい可憐さを持ちながら、見る者を惑わすような危うい色香。正に美少女、と称するに値する程に彼女は美しい。


「成神さんは、お兄さんと二人で暮らしているのよね? もしかして、迷っているのはお金のことが原因?」


 田畑先生が、少女の名前を呼ぶ。少女、かぐやは少しだけ悩んで、やがてはっきりと首を横に振った。


「いえ、お金は……多分、大丈夫です」


 かぐや自身は学業一筋で、アルバイトなどはしていないものの。彼女と十歳以上年が離れた兄は、現在大学病院で医師として勤めている。それに、今は亡き両親が残した遺産とやらも十分にある。それがどれくらいのものかは、かぐやにはわからないし想像も出来ないのだが。

 兄が言うには、「俺達二人が今後働かずに遊んで暮らしても、死ぬまでに使い切れる自信がない」と呆れる程らしい。現に、二人の自宅は夢宮でも有数の高級高層マンションの最上階だ。

 金銭面での心配は、恐らく無いだろう。


「それなら、どうして? かぐやさんの成績なら夢宮だけじゃなくて県外の大学でも、何なら海外でも通用すると先生は思うの」

「その……これから先、何を目的に勉強すれば良いかわからなくて」


 思い切って、かぐやは本音を打ち明けた。高校までは、成績と自宅からの近さだけで考えて進学してきた。だが、これから先はそういうわけにはいかない。

 大学だけではなく、専門学校や就職など。自分の未来を具体的に決める必要がある。

 普通ならば、自分の好きなことや目標を定めて進路を考えるのだろうが。かぐやには、それがない。


「なるほど、そういうことか。成神さんは、何かやりたいことはないの? 具体的に、でなくても良いから。こういう職業が気になる、とか」

「……無い、です」

「そっか、難しいわね」

「でも、もしも進学するなら……家から通える大学か、専門学校が良いなって思っています。兄を一人にするのは、少し心配で……」

「ふふっ、かぐやさんは本当にお兄さん思いなのね?」


 くすくすと笑われてしまう。だって、あの人はほっといたら絶対に甘いものしか食べなくなってしまう。医者を生業としているのに、食生活の乱れが原因で病気になったりしたら目も当てられない。


「とりあえず、事情はわかったわ。まだ二年生だし、焦る必要は無いけれど……自分のやりたいことが何か、じっくり考えてみてね。先生で良ければ、いつでも相談に乗るし」

「はい、ありがとうございます」

「それとね、三者面談の予定なんだけれど。成神さんのお兄さんってお忙しいでしょう? だから、都合の良い日を――」


 その時だった。何か、大きなものがぶつかるような鈍い音がかぐやの耳に届く。次いで、田畑先生の声を掻き消す程の悲鳴が響く。


「な、何事ですか!?」 

「そ、それが……生徒が一人、屋上から飛び降りたようです!」


 早く、救急車を! 駆け込んできた体育の今井先生の声に、室内がざわつき始める。受話器を取り救急車を呼ぶ先生に、様子を見に行く教頭先生達。

 緩やかだった空気が、一気に緊張する。


「な、成神さんは教室に戻って。良いわね!?」


 田畑先生は顔を青くしながらもかぐやにそう言って、他の先生達の後を追って職員室を出て行った。残されたかぐやは、あまりにも突然のことにただ、唖然とするしかなかった。

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