それから数時間、日が落ちて辺りが真っ暗になるまで、晶子は自分がどこで何をしていたのかを全く覚えていない。凪の元に戻ることはせず、緋月を追いかけるわけでもなく。ただふらふらと、夢宮の街をあてもなく彷徨い続けていた。

 手先は冷え切って、目は虚ろ。足は夕方辺りから激痛を訴えていたが、今はもう何も感じない。見れば、慣れない靴に皮膚が剥けて血が滲んでしまっている。

 この靴も、緋月が買ってくれたものなのに。だが、何も思うことはなかった。


「…………」


 いや、たった一つだけ。晶子の胸に、焼け焦げるような感情があった。それは、悲しみと言える程綺麗ではなく、怒りと呼べる程可愛らしいものでもない。増してや嫉妬でも、失望とも違う。

 それはもっと単純で、もっと激しい――欲望だった。


「…………あ」


 晶子の手首に嵌められた腕時計が、無機質なアラームを鳴らす。これは凪が出掛ける際に付けたもので、これまでにも何回か鳴っていた。

 通常の臓器移植手術と同じように、晶子もここ数日は決められた時間に決められた薬を投与されていた。とは言っても免疫抑制剤や抗生物質といった大袈裟なものではなく、一般的な精神安定剤と栄養剤のようなものだ。

 だから、一回や二回飲まなくても差し支えはない。そう思って、服用の時間を知らせるアラームを無視していたのだが。


「……え?」


 今回のアラームは、なかなか止まらなかった。まるで、約束事を破った晶子を責め立てるように、一定の感覚で鳴り続ける。

 十回、十一回……そして、十二回目。やっと、止まった。見れば、デジタル表示の時刻は零時を示している。日付が変わった。いつの間にか、もうそんなに時間が経ってしまったらしい。

 昼間、緋月を街で見かけたのがつい数分前のことのように感じる。もちろん、そんな筈がない。気がつけば、景色はがらりと変わり随分と殺風景になっている。


「…………」


 どこだろう、ここは。街の喧騒から切り離されたような、無音。街灯のか弱い明かりに照らされるそこは、駐車場のようだ。

 だが、車は一台も止まっていない。近くには十階以上もある大きなマンションのような建物がそびえ立っているが、どの窓にも光は無い。

 そういえば、以前に凪から聞いたことがある。老朽化したマンションを解体し、老人や障がい者も暮らし易いバリアフリーの施設を建設中であるとか。見る限り外観はほとんど完成しているようだ。しかし、やはり人気は無い。


「……結局、見た目が変わっても中身は変わらないっていうことか」


 いや、むしろ。晶子は己の惨めさに、奥歯を噛み締める。家から勝手に飛び出して、今度は病院から逃げ出した。誰でもない緋月にもう一度、否、今度こそ助けて欲しくて。

 なんて、浅はかで愚かな――


「こんなところで、何をしているんだ?」


 お嬢さん。聞き慣れた声が、晶子を呼んだ。それ程、驚きはしなかった。

 のろのろと、声のする方を振り向く。頼りない街灯の光の下でも、相変わらず彼の美貌は少しも損なわれない。それどころか、淡褐色の瞳は夜闇を纏い一層色鮮やかに煌めいているようにさえ見える。

 そういえば、彼の名前には『月』が入っている。なるほど、これ以上なく彼に相応しい名前だ。


「十二時の鐘が鳴り終わる前に帰って来ないと駄目じゃないか、シンデレラ。最も、肝心の王子様が居ないのだがな」


 困ったように、緋月が笑いながら晶子に歩み寄る。だが、その歩みも彼女から十歩程離れた場所で止ってしまう。

 どうやら、晶子の手に握られた『ソレ』に気がついたようだ。


「……それなら、緋月先生が私の王子様になってください」

「悪いがそれは無理だ。俺はきみの担当医で――」

「もう、誰かの王子様だから……ですか?」


 緋月は答えない。宝石のような双眸が、物珍しいものを見るかのように晶子を見る。無理もない。自分の発言に、誰でもない晶子自身が驚いているのだから。

 こんなこと、言うつもりじゃなかったのに。


「あはは、先生。私……見たんですよ。お昼頃、凄く綺麗な女の人と一緒でしたよね? あの人、先生の恋人ですか?」

「……見られていたか。別に彼女とのことは隠すつもりもないが……そうやって詮索されるのは、些か気分が悪い」

「ごめんなさい……ふふっ」


 ああ、どうしてだろう。緋月に不快な思いをさせてしまっているというのに、嗤いが止まらない。愉しくて仕方がない。

 それなのに、胸は引き千切れんばかりに痛い。


「ねえ、先生。私、先生のことが好きです。なので、私の王子様になってください」


 あれだけひた隠しにしていた恋心が、あっさりと口から飛び出して言葉になった。生まれて初めて、異性へ愛の告白。恥ずかしくて、それでも甘美なものだと思っていたが。実際は全然違った。

 なんて薄ら寒くて、痛々しい行為なのだろう。


「……俺はきみの担当医だ。魔法使いにはなれたが、王子様にはなれない」

「王子様になってくれないと殺す……って、言ってもダメですか?」


 晶子が、手にした刃を煌かせる。それは、一本の真新しいカッターナイフ。今日は凪にお小遣いを貰っていたので、彼女と別れてから立ち寄ったコンビニで手に入れていた。

 ぎちぎちと、折れ目が刻まれた刃を押し出す。どこにでもあるような、安っぽい品だが。今の晶子にとっては、何よりも大事な最強の剣なのだ。


「……それで、俺を殺すつもりか?」


 落ち着いた様子で、緋月が言った。彼は男だ。細身だが、体格も負けている。このままカッターを握り締めて突進しても、生半可な覚悟では彼に抑え込まれてしまうだろう。


「やれやれ、少しは落ち着いて話をしないか? とりあえず、そのカッターを下ろしなさい」

「ふふふ、嫌です」

「晶子さん、俺はこれでも男だ。運動は不得手だが……きみを力ずくで止めることくらいは出来るぞ」

「それなら……私がこれから、先生の前で自殺します」


 固く握るカッターナイフを、自らの首に突きつける。ひやりとした感触が、晶子の滑らかな肌を薄く傷つけた。このまま頸動脈を切り裂けば大量出血して、呆気なく無様に死ぬことだろう。

 ぴりぴりとした痛みが、晶子を悦ばせる。


「先生は、お医者さんですものね? 人の命を救うことがお仕事なんですよね? だから、私を助けてくれたんですよね? こんなに素敵な身体をくれて、本当に感謝しています。可愛い洋服を着られて、幸せです。先生と過ごせた日々が、私の人生で一番幸せな時間でした」


 晶子は身をもって知っている。死というものが、どれだけ他人の心を蝕むのかと。晶子を生んでくれた、本当の母親がそうだ。

 彼女は、晶子が物心つく前に死んだ。顔もよく知らない、血の繋がりだけがある存在。それでも、晶子は彼女の幻影に縋り本当の母親との時間を望み続けた。

 晶子の心に、一番大きく刻まれた傷。それこそが、本当の母親の死。死は忘れられない。どんなに考えないようにして記憶の奥底に隠したとしても、ふとした瞬間に浮き上がって感情を支配するのだ。

 それに、彼は精神科医だ。


「聞きましたよ、凪さんに。精神科は、他の診療科とは死に対する心構えが違うって。精神科に入院した患者さんが死亡するのは、お医者さん達の責任になるんですよね?」


 通常、精神疾患では人は死なない。一般的な怪我や病気とは違うのだ。だが、心を病んだ人々は自ら死を求めることがある。それが自殺だ。

 自殺は自らを殺めるという立派な殺人行為である。そんなことが、他でもない病院で起こることなんて絶対に許されない。そういう兆候を見せた患者は、縛り付けてでも止める。そう凪から聞いた。

 ならば、晶子の死は緋月の責任になるのではないか? 彼を手に入れることは出来ない。それでも、彼の地位を失墜させ、その心に大きな傷を残すことくらいは出来るだろう。

 そうすれば、彼がこれから生きていく中で晶子を思い出してくれる時間が必ず出来る。あの黒髪の女と一緒に居る間も、晶子のことを思って悩んでくれるかもしれない。

 好きになってくれた相手が、自分のことを考えてくれる。それは、とても嬉しくて幸せなことなのだと思う。


「先生、好きですよ。貴方の隣に立つのが、私だったらどんなに嬉しいか……でも、それが叶わないなら私は今すぐ死にます」


 カッターナイフを握る手に力を籠める。ああ、以前はあれほど死ぬことが怖かったのに。今、この瞬間は全く怖くない。むしろ、愉しくて仕方がない。

 きっと、緋月は止めようとしてくれる。今までに見せたことがないような焦った表情で駆け寄って、晶子の手からカッターナイフを奪おうとするだろう。その時に、彼の手を傷つけてしまうかもしれない。彼に痛みを与えられるかもしれない。美貌に一生消えない痣を刻んでしまうかもしれない。

 生き残っても、死んでしまったとしても。緋月の『傷』になれるのならこれほど満たされることはない。


「……晶子さん」


 緋月が、晶子の名前を呼ぶ。彼は今、どんな表情をしているのだろうか。その美貌を、どんな感情で歪ませているのか。

 悲しみ、それとも怒り? 晶子は喜々として、彼を見つめた。


 そして、思い知った。

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