⑥
結局、緋月が研究所に戻ってきたのは午後六時近くになってからであった。凪にはそれまで自由にしていて良いと言われたが、大学の敷地内を歩く気にはならず。ましてや夢宮や雨白に行くこともせずに。結局、病院内にある入院患者用の図書室で時間を潰した。
意外にもワンフロアぶち抜きで作られた図書室はなかなかの規模で、晶子の家の近所にある公立の図書館と同等かそれ以上に充実していたので退屈はしなかったが。
「ふむ、なる程……」
今朝、凪の前でペーパーテストを受けたのと同じ部屋で、緋月が凪とパソコンの画面を興味深そうに眺めている。向かいに座る晶子には何が何だかわからず。膝の上に置いた手を握ったり開いたりするくらいしかやることが無い。
昨夜とは違って黒いコートではなく白衣を着ている緋月を見ていたいが、流石に気が引けてしまい。結局、黙り込んだまま視線を落とすしかなくて。
「健康状態は良好だな。体重が平均値よりも低いが、痩せ過ぎているわけでもなさそうだ」
「血液内のHb値が少々低いですが、女性ですので……問題はないと思います」
「ナギが気になるのは、やはりこれか?」
「はい。年齢や生活環境などを考えれば、許容出来る範囲かもしれませんが……このまま実験に移行するのもどうかと」
「もっともな意見だ。投薬治療を先行させた方が良いかもしれないな」
そう言う緋月の瞳が、失望の色を映したようで。
「あ、あああの! 私、もしかして……何か、病気が見つかったんですか?」
二人の口から治療、という言葉が聞こえてくれば流石に我慢出来なくて。顔を上げて、緋月達を縋るように見る。
幸運にも、今まで大きな病気や怪我を患ったことはない。だから想像出来ないだけかもしれないが、自分の身体のことなどどうでも良かった。ただ、病気があるから緋月に見限られてしまうのではないか。
ただ、それだけが恐ろしいのだ。必要無い、と彼にまで捨てられてしまったら……。今にも泣きそうな晶子に、緋月は綺麗な笑みを向けた。
「いや、そこまで重く捉える必要は無い。ただ……思っていたよりも少し、きみの心は疲れているようだ」
「心が?」
「身体が疲れると、勉強したり運動したりすることは面倒だろう? のんびりお茶でも飲みながら、本を読んだり映画を見たり、もしくはベッドに潜って寝てしまいたい。そうは思わないか?」
「そう、ですね」
緋月の言葉に、晶子は頷くだけ。
「心も同じだ。目には見えないが、心は魂と身体を繋ぐ大切な器官であり酷使すれば疲れてしまう。今日の検査により、きみの心は休息を求めている状態だと判明した。本来ならば実験は一旦中断して、投薬と休養による治療を開始すべきだろう。何、投薬と言っても軽い精神安定剤を少量処方するだけだ」
「中断って……一体、どれくらいの期間になりますか?」
「そうだな……個人差が大きいので何とも言えないが……大体三か月くらいだろう」
「さ、三か月も!?」
「それに、きみの場合は家庭環境も複雑なようだしな。入院する程でも無いのだが……まあ、夢宮にはきみのように心の休息を求める人達専用の施設も多くある。病院に入院するのと違って、自由が利くところばかりだ。何、少しの間合宿に行くようなものだと考えれば良い」
「専属の医師や看護師が常駐している施設も沢山ありますから。先生の言う通り、暫く休息をされた方が良いかと思います」
昼間はあんなに文句ばかり言っていたのに、凪まで緋月の意見に頷いた。もしも、否、今までの晶子だったら確実に二人に流されてその提案を受け入れたことだろう。もしくは、実験も何もかもを無かったことにして家へ逃げ帰るか。そのどちらかを選ぶしか無かった筈。
抗うよりも、流されてしまう方が遥かにラクなのだ。でも、それを知っていても、晶子は首を縦には振らなかった。
「……いや、です」
「晶子さん?」
「私、治療は受けません。入院もしません、施設にも……行きたくありません」
晶子は必死に拒絶した。それは、まるで強大な重力に抗うような、自分を縛り付ける縄から肉を引き裂いてでも抜け出そうとするような。
とてつもなく、苦痛だ。
「実験って、心身共に健康じゃないとダメなんですか? 医療は、病気の人を元気にする為にあるものじゃないんですか?」
「そ、それは」
「病気を治す治療の実験なら、実験体が病気を持っていても何も問題は無いと思うんですけど……何か、間違っていますか?」
「いや、間違ってはいない。むしろ、文句が言えない程に正論だ」
戸惑う凪を尻目に、緋月がくすりと笑った。
「きみの主張通り、医療とは本来怪我や病を相手にするものだ。いずれは新薬のように、心の病を抱える人々に提供出来るレベルにしていくつもりだ。だが、残念ながらこの実験は未だにその段階まで辿り着けていないんだ。精神科学の分野は他科と違い、マウスやモルモットでの実験が有効ではないからな」
やれやれ、と緋月が肩を竦める。そう、癌や他の内臓疾患等であれば、動物実験でかなりの成果が挙げられる。しかし精神疾患はそうはいかない。
晶子の心に、不思議な高揚感が生まれた。
「それなら、ぜひ私を実験体にしてください。大丈夫です、これでも今までに風邪を引いたことくらいしかないくらいに頑丈なんです!」
「晶子さん、それは流石に――」
「お願いします、先生! 私、少しでも早く先生の……先生のお役に立ちたいんです!」
緋月の傍に居たい。本当の心は必死に隠して、晶子は深々と頭を下げる。同時に、自分の浅ましさに吐き気さえ催すようで。
「……わかった」
「え?」
「女性にそこまで言われたら、男として受け入れなければ失礼だろう?」
はっと顔を上げれば、緋月の瞳と視線が交差した。ああ、そういえばこの人はどうしてこんな不思議な目をしているのだろう。
晶子がぼんやり考えていると、唖然としていた凪が慌てて口を開いた。
「ちょっ、ちょっと待ってください! 先生、それは問題ですよ!?」
「何、後で上に許可は取る。もしも許可が下りなければ実験は即刻中止にするさ」
「ですが!!」
「無論、実験は木之下さんの体調を最優先に考慮して進める。ナギ、この俺がここまで言っているんだ。少しは信用したらどうだ?」
ぐっ、とナギが押し黙る。何も言い返せない秘書を尻目に、緋月が晶子へと視線を戻す。
「決まりだな。では木之下さん、実験は上の許可が下り次第、予定通りに進めさせて貰う……ということで良いかな?」
「あ、はい!」
「宜しい。では、今日はもう休んだ方が良い。俺は少しやることがあるから、それを片付けてからで良ければ一緒に夕食にでも行こう」
緋月の提案に、心は踊り顔がカッと熱くなる。多分、耳の先まで真っ赤になっていることだろう。
どうしよう、凄く嬉しい。
「それまで、部屋でゆっくりしていると良い。ナギ、木之下さんを部屋へ送ってくれ」
「い、いえ! もうお部屋の場所は覚えたので、一人で大丈夫です!」
せっかくの申し出を断るのも失礼かと思ったが、今の晶子にはどうでも良かった。今は誰にも邪魔されず、この余韻に浸っていたいのだ。
「で、では成神先生、凪さん。私はこれで!」
「ああ木之下さん、一つだけ良いかな?」
椅子から立ち上がり、部屋のドアに手をかけた晶子を呼び止める緋月。勢い余ってドアへ体当たりしそうになるのをなんとか堪える。
「えっと、何でしょう?」
「その、『成神先生』というのは止してくれないか? 前にも言ったが、我ながら少々大袈裟な苗字で少々肩身が狭くてな……緋月で良い。その代わりに、俺も『晶子さん』と呼んでも良いだろうか? ナギがそう呼んでいるのに、何だか俺だけ他人行儀な気がしてな」
「……! はい、緋月先生!」
信じられない。今までの人生で、こんなにも幸せを感じたことがあっただろうか。眩暈さえ感じる程の優越感に、晶子は躍るような足取りで部屋を後にした。
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