第三章 彼は医療という名の魔法を使う
①
それは見るからに高級な車で。ずぶ濡れのままシートに座るのは非常に憚られたのだが、男が乗るようにと促すので晶子は思い切って助手席に乗り込むことにした。
見ず知らずの男の人に付いていくなんて、晶子の性格から考えれば有り得ないことなのだが。すっかり心がすり減ってしまっていることと、男の雰囲気がどうしても覚えのあるようなものに感じてしまったから。
それに、男は車を路肩に停めたままにし、ドアもロックしなかった。嫌ならいつでも出て行って良いということらしい。
「気の利いた毛布などが無くてすまないな……とりあえず、これを使ってくれ。男のタオルなど気持ちが悪いかもしれないが、我慢してくれ。洗濯済みの未使用だから」
「あ、ありがとうございます!」
男が手渡してくれたタオルで、未だに雫が滴る髪を拭う。仄かに石鹸の匂いがして、しかも柔軟剤が効いているのかふかふかとしている。洗濯済みだというが、彼が自分で家事をしている姿が全く想像出来ない。
それくらい、間近で見る彼は現実味が無かった。ただ、改めて見ると『王子さま』と呼ぶには雰囲気が違うような気がする。
「とりあえず、自己紹介でもしておこうか。不審者扱いされるのは、流石に困ってしまうのでな……はい、俺はこういうものだ」
そう言って、隣りの運転席に座った男が晶子に何かを手渡した。小さなレザーのケースから取り出した、手の平よりもずっと小さなカードのようなもの。どうやら名刺のようだ。
「えっと……夢宮大学付属病院、精神科医……お、お医者さんだったんですか?」
「ふふっ、見えないだろう?」
晶子は貰った名刺に書かれた文字を一つ一つ、大事に大事に読み上げる。役職など、よくわからない部分もあったが。つまり彼は医者、それも精神科医らしい。それも夢宮大学付属病院といえば、国内でも最先端の医療技術を誇ることから所属医師や看護師、その他の技術者もエリート揃いだと聞く。
精神科という診療科には馴染みがないが、なるほど。彼の喋り方や雰囲気は正に医者のそれである。しかし、見た目がそれらしくない、という部分に関してはどうやら自覚があるらしい。
「お名前……えと、なるかみ……ひづき、さん?」
「そう、成神緋月。今流行りのキラキラネームとやらを先取りしたような名前で恥ずかしいのだが、ちゃんとした本名だ」
そう言って男、緋月が苦笑する。確かに凄い名前だが、全く名前負けしていない緋月も凄い。
「それで、きみは?」
「あ、私……木之下晶子です」
「ふむ、では木之下さん。ずぶ濡れのままでは高確率で体調を崩す恐れがある。専門外ではあるが、医者として見過ごすことはあまりしたくない。こんな日に再会したのも何かの縁だろう、家まで送ってやる。この近くなのか?」
そう提案するも、緋月は車のエンジンをかけることはしなかった。彼には、その淡褐色の瞳には全てお見通しなのかもしれない。
「……家に、帰りたくないんです」
「うん、それは何故?」
「なんというか……私の家って、少し複雑で」
そう言って、溢れ出る思いをぽろぽろと零す晶子。緋月の柔らかい雰囲気もそうだが、全く事情を知らない第三者の方が話し易いこともあるのだと知った。
それから暫く、相槌を打ちながら晶子の話を聞いてくれた緋月が口にした言葉は、安っぽい同情でも気休めでもなく、
「……まるで、きみはシンデレラのようだな」
そんな、淡々とした感想だった。それも、彼の言葉は今の晶子にはあまりに難解に思えてしまって。しばらく黙りこくっていると、緋月が優しげな笑みを浮かべた。
「シンデレラ、という童話は知っているか? 意地悪な継母や義姉に酷い仕打ちを受けていた少女が、魔法使いの魔法によって美しいお姫様となる話だ。今のきみは、正にそれだと思ってな」
「ああ、確かに……父親が再婚して、義理の母親や姉にいじめられるっていうのは似ているのかもしれませんね」
実際に、自分の境遇を自分の言葉にしてみればどれほど惨めなのかがわかる。着ているのは、所々ほつれたお古の制服と靴で。自分の希望なんか、どんな小さなものでも叶えられた記憶が無くて。
「でも、私はシンデレラとは違います。シンデレラには、助けてくれる王子さまが居たけど私には……私、家を出て行けって言われちゃって、クラスの子にも邪魔だって……もう……私、どうすれば良いのか」
不意に、頬を熱い何かが伝う。それだけで、自分の身体が芯まで冷え切ってしまっていることがわかる。しかし、今更そんなことどうでも良い。
私の居場所なんか、どこにも無い――
「……王子さまというガラではないが、そうだな……魔法使いにならなれるかもしれん」
「え?」
「かなり長い上に、相当複雑な話だが……きみを救えるかもしれない。きみは、心の底から今の境遇を変えたいと望むか?」
突拍子もない申し出だった。彼の言葉は難しく、疲れ切った頭では半分も理解出来なかったが。これだけはわかった。
緋月は、晶子に救いの手を伸ばしてくれたのだ。
「も、もちろん……変われるなら、変わりたい……!」
その手を振り払うことなんて、晶子には出来なかった。それが例え、名前しか知らないような男だとしても、家族や友人に頼れない以上は縋るしかない。
「では、決まりだな」
傍らのドアが、がちゃりとロックされる。緋月が晶子にシートベルトを締めるように言うと、エンジンをかけて車を発進させる。車のエンジンなんてどれも同じかと思っていたが、この車のエンジンはまるで様子は違うよう。
聞き慣れない音に驚いていると、緋月が前方を見ながら言った。
「とりあえず、温かい物でも買いに行こう。それから、きみを俺の『城』へ招待しよう」
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