②
夢宮大学付属病院は病床数一二〇〇を超える、国内で最大級の病院である。隣の市ではあるものの、夢宮の病院にかかる程の大きな病気や怪我をしたことが無かった為に晶子には縁遠い場所だ。
だから、病院の敷地が凄まじく広いことも、その中に数十の研究施設が軒を連ねるような景観も知らなかった。最も、既に夜の帳が降りてしまっている為に、その景色も見ることは出来ないのだが。
「凄い……大学って、こんなホテルみたいな施設まであるんですね?」
「いや、凄いのはあくまでこの大学だからだ。他の大学では、中々こうはいかないと思うぞ」
緋月に連れられるまま、大学の敷地に入りこの施設へ連れて来られた。話の前に、濡れたままではいけないということで施設の四階にあるこの部屋へ連れて来られた。シングルのベッドに、小さな冷蔵庫。テレビに電気スタンド、ユニットバスに洗面台とどう見てもビジネスホテルの一室にしか見えない。
「あ、着替えありがとうございます!」
「いや、構わない。むしろ、可愛げがないジャージしか無くてすまないな」
「いえ、十分過ぎるくらいですよ」
緋月が用意したのは、無地のTシャツと何の変哲もない紺色のジャージだ。まるで体育着のようだが、素材は柔らかくて着心地が良い。
熱いシャワーを浴びることが出来て、すっかり身体は温まった。緋月を待たせてはいけないと思って、中途半端に乾かされた髪はまだ湿っぽい。
「ちゃんとした食事を提供出来なくてすまないが、まあこういうジャンクフードもたまには良いだろう?」
「はい! 普段はコンビニのお弁当なんて滅多に食べないから、何だか新鮮です。最近のコンビニって、何でも売ってるんですね?」
小さな正方形のテーブルの上に広げられているのは、ここに来る途中に寄ったコンビニで買った弁当やホットフードの数々だ。ここ数年は殆ど立ち寄ることが無かったからか、弁当だけでなくホットフードや限定ドリンクなど様変わりした装いに少々胸が高鳴ったものだ。
一文無しで家を飛び出して来た晶子の夕食を緋月に支払わせることになってしまったことは非常に心苦しかったが、結局空腹には耐えられずに甘えてしまった。
「えっと、ところで……成神さん、さっき買ったの……全部食べちゃったんですか?」
「ん? きみの分はちゃんと残してあるから、心配しなくて良いぞ」
「いや、そうじゃなくて……」
緋月の向かいに座って、その足元を見やる。そこには、先程緋月が大量に買っていたスイーツの容器。綺麗に平らげられた殻の容器や包装が、ビニール袋の中に乱雑に詰め込まれていた。
ビニール袋に印字された、『グランストア』という文字が視界に入る。
「夢宮のコンビニには、健康増進の為に随分制限がかかっているからな。甘い物が必要な時は、わざわざ現町のコンビニまで行かなければならないのは面倒だ」
「は、はあ」
「今では多くのコンビニチェーン店が独自の特色を生かした商業展開をしているが、俺は『グランストア』が一番好きだな。雑誌などの品揃えは悪いが、食品は他社とは比べ物にならない。特にスイーツは種類も豊富な上に質が良い。これで一品、高くても四百円台というのは非常にコスパが良い。下手な菓子店よりもずっと美味い。きみと会ったあの日も新たな甘味を求めていたのだが、結局行き着く先はこのコンビニだな」
何やら饒舌に語り始めた緋月。晶子が弁当を選んでいる間にも、彼はスイーツ売り場に向かってはそこに並ぶプリンやロールケーキの類を次々と籠に入れて行ったのだ。
彼は医者だから、てっきり夜勤の看護師さんにあげるのかと思っていたが。
「ほら、きみも食べなさい。さっき温め直しておいたから、まだ冷めてはいないと思うよ」
「い、いただきます……」
緋月の意外な一面に呆然としながら、買って貰ったお弁当の蓋を開ける。麻婆丼という名前に違わず、ふんわりと美味しそうな匂いが辺りに漂う。
プラスチックのスプーンで、麻婆豆腐を口に運ぶ。ピリリと辛い味は食欲をそそる上に、ご飯はほかほかで。正直、自分で作るよりも美味しいかもしれない。
「わっ、本当に美味しい……!」
「ふふっ、コンビニ弁当だからと言って馬鹿に出来ないだろう?」
楽しそうに笑う緋月に、晶子の胸が高鳴る。思えば、こうして男の人と二人きりで食事をするなんて初めてだ。
否、こんな風に楽しく食事をすること自体が初めてなのだ。
「さて、とりあえず食事をしながらで良いから俺の話を聞いてくれるか?」
晶子が半分程を食べ進めたところで、緋月が話題を切り出した。晶子が頷くと、緋月がペットボトルの水をそのまま一口飲む。
「きみをこの研究所まで連れてきたのは他でもない。俺の『実験』に付き合って欲しい」
「じ、実験ですか?」
「そう、俺は最初に医者だと言ったが実は――」
その時だった。鍵ががちゃりと開けられるや否や、ドアが勢いよく蹴破られたのだ。晶子は持っていた器を落とさないようにするのが精一杯で、一体何が起こったのかを把握する余裕なんか無かった。
「緋月先生! 勝手な行動は謹んで下さいと、一体何百回言えばわかってくださるんですか!?」
ズカズカと、足音を踏み鳴らしながら何者かが部屋に入って来た。白衣を着込んだその姿は、医学生だろうか。中性的な容姿をしており、明るい茶髪を高い位置で結い上げている。
驚愕に息を吐くことすら出来ないでいる晶子とは裏腹に、緋月は慣れているとでも言うかのように落ち着き払っていた。
「やあ、ナギ。こんな遅くまで残っているだなんて、偉いな。とっくに帰ったのかと思ったぞ」
「とっくに帰ってましたよ!! でも、警備員さんから先生が女子高生を研究所に連れ込んだようですがっていうとんでもない電話に飛んで帰ってきたんですよ! おかげで楽しみにしていたドラマを見逃しちゃっているんですよ、どうしてくれるんですか!!」
キャンキャンと喚き立てる女にも臆せずに、長い足を悠々と組み直す緋月。突然の闖入者に戸惑う晶子に、困ったように笑いかける。
「驚かせてすまないな。この子はナギ、来栖凪。俺の優秀な助手だ」
「先生、説明して下さい。こんな時間に女の子を連れ込んで、一体何をするつもりなんですか!?」
凪がキッと強い視線を向けてくる。アーモンド型の大きな瞳は力強くて、何だか悪いことをしている気持ちになってしまう。
「別に、きみが好きな薄い本のような酷いことをするつもりは無いさ」
「一体何の話ですか!?」
「彼女には、俺の実験に協力して貰うつもりだ」
「実験って……まさか、無茶言わないで下さい! 一般人をあの実験に関わらせるだなんて――」
「既に九割は完成している。あとは新薬の治験と同じ、実験によってデータを集めるだけ。何も危険性は無い」
そう言って、緋月が微笑む。今までとは様子が違う、迫力のある笑みに凪もぐっと息を飲むしか無いらしい。
とりあえず、と緋月が言う。
「まずは、食事を終わらせてしまおうか。ナギも来たことだ、『実物』を見せてから話の続きをしよう」
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