②
放課後、晶子は満身創痍であった。自分をあざける薄気味悪い声が耳から離れず、いつ何をされるのかとびくびくしていた。結局、陰口を言われるだけで何もされなかったが。
明日は、どうなるかわからない。晶子は完全に清水に目を付けられてしまった。学生の間では、こういう時には暗黙のルールがある。
つまり、晶子はイジメのターゲットになったのだ。
「どう、しよう……」
先生に言う? しかし、イジメという問題において教師程頼りにならないものはない。悪気は無くとも、彼等の言動がイジメの火種に油を注ぐ可能性があるからだ。
友人達に相談する? だが、他校に居る彼女達がどれだけ力になってくれるかわからないし、なってくれたとしてもそれは微々たるものだろう。むしろ、彼女達は既に新しい学校でそれぞれの生活がある。
それを、自分勝手な相談で邪魔をしてしまうのはどうしても憚られる。
「どうしよう、どうしよう……」
とぼとぼと、夕暮れ色に染まる家路を歩く。傍を流れる用水路の水が、きらきらと輝いている。家に帰ったら、お父さんに話してみようか。しかし、家族に打ち明けるというのもまた、勇気が要るものだ。
鬱屈とした思いを胸にため込んで。やがて晶子は、いつものスーパーマーケットの前まで来ていた。そうだ、夕飯の買い物をしなければ。
「えっと、お財布お財布……」
店先で鞄の中を探る晶子。一週間に一度、義母から雑費として五千円を預かる晶子は、店に入る前に財布の中を確認するのが癖になっていた。
だが、
「あ、あれ……あれ? うそ……」
いくら探しても、入れた覚えの無いブレザーのポケットまで探っても、財布がどこにも無かったのだ。晶子の財布には小さな鈴が付いているから、少し揺れただけでもちりんちりんと音が鳴る筈。それが聞こえないということは、少なくとも晶子の身近には無い。学校に忘れてきてしまったのだろうか。
いや、そもそも今日は朝からずっと財布を開いた記憶がない。ならば、家に置いてきてしまっていたのか。まさか、どこかに落としてしまったのかもしれない。それは一番最悪のパターンだ。
「とりあえず、家に帰ってみよう……」
今の時間帯ならば、まだ誰も帰ってきていない筈。晶子は鞄を肩に掛け直し、家まで急いで帰ろうとした、その時だった。
「やっほー、木之下さーん?」
後ろから呼ぶ声に、心臓が凍り付く。そのまま聞こえない振りをして、店の中にでも入ってしまえば良かった。だが、晶子は律儀にも振り向いてしまったのだ。
「おっつー。……どうしたの、何か困ってたりするー?」
「し、清水さん……」
そこには案の定、清水の姿があった。幸運だったのは、今日は彼女が一人で居たことだろうか。それだけでも、晶子の胸中が少しラクになる。
「ひょっとして……財布でも失くしちゃった?」
一瞬、彼女が何を言っているのかわからなかった。だが、清水が自分の鞄から取り出したものを見た瞬間、頭が真っ白になった。
薄汚れた、ピンク色の小さな財布。チャックの部分に、銀色の鈴が付いている。間違いなく、晶子の財布である。
「あ……それ!」
「放課後、教室に落ちてたの偶然拾っちゃってさぁ? 担任は居なかったし、職員室まで行くのもダルかったし。まあ明日クラスの子に聞けば良いかなーって思って、預かってたんだよねぇ? でも、木之下さんのなら丁度良かった!」
「か、返して!」
背筋が怖気立つとは、こういうことなのかと思う。清水の言葉は善意のそれだが、声色や表情からは悪意が漏れだしている。だから、だろうか。
早くそれを返して。そんな晶子の訴えが、清水の悪意を更に煽ってしまったよう。
「……返して? 何それ、せっかく人が親切にこんな汚い財布を届けてあげたっていうのに……お礼も言えないわけ?」
「あ、ご……ごめん」
「ごめんなさい、でしょ?」
つかつかと、清水が歩み寄ってくる。怖い、逃げ出してしまいたい。だが、財布を何としても返して貰わなければ。
「ご、ごめんなさい……お願いします、私のお財布を返してください」
「ふん、最初からそう言えば良いんだよ。ほら」
そう言って、清水が晶子に向かって財布を投げた。ちりん、と悲しげな音を立ててコンクリートの地面に落ちるそれを、晶子は慌てて拾う。とにかく良かった、そう思ってふと、違和感を覚える。
おかしい、自分の財布はこんなに軽かっただろうか?
「な、にこれ……」
財布に残っているのは、十円玉と一円玉が数枚。それからレシートが数枚とポイントカードや割引券だけ。母親から貰ったばかりのお金が、どこにも無かったのだ。
「ま、待って清水さん!?」
急いで先を歩いていた清水を追いかけ、その腕を掴む。あからさまに迷惑そうな顔をした清水に、気押されてしまいそうになる。
「何?」
「あの、お財布の中身……お金が」
「はあ? 知らないよ中身なんて。財布に穴でも空いてたんじゃないの?」
「で、でも――」
「アンタさあ、馬鹿にするのもいい加減にしてくれない? アタシが盗んだって言いたいの?」
突然、息苦しさが晶子を襲う。清水が晶子の胸倉を掴んだのだ。細身に見える身体のどこに、こんな凶暴な力を隠していたというのか。
衣服首を締め付け、呼吸が上手く出来ない。
「ほんと、アンタってムカつくヤツだなぁ? アタシをバカにして、何がそんなに面白いの……ああ!?」
「うぐ、ご……ごめんなさい、ごめんなさい」
ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返す。やがて、清水がゴミでも放るかのように晶子の身体を離した。衝撃でワイシャツのボタンが一つ外れてしまったのか、座り込んだ晶子の元に白いボタンが転がってきた。
「……アタシ、アンタみたいなヤツって本当に嫌い。大嫌い。だから、教室にアンタが居るだけで超気分悪いんだよね。ジャマなの、わかる?」
「そ、そんな……」
「他の皆も、アンタのことウザイって言ってたしね。ねえ、明日から学校に来ないでくれる? 来られなくなるようにしてあげても、良いんだけどさ……その場合は、明日から覚悟しておいてよね」
果たして、言葉がこれほどまでに恐ろしいと感じたことがあっただろうか。清水という存在が、どうしようもなく怖くて。
結局、清水がそこから居なくなるまで、晶子は座り込んだまま顔を上げることが出来なかった。
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