テディベアとピエタ

※差別的・暴力的な描写を含みます。

※あらゆる犯罪を推奨するものではありません。


 目覚めた時。お前は口の中に残った苦味にも舌のザラつきにも気がついていた。

 お前は確かに「何かが変だ」と思った。

 だが、それも俺が「きっと口を開けて寝たんだろう。埃かゴミを吸ってしまったか、あるいは虫でも食べてしまったのかも」と思うまでの刹那だ。お前は舌の上を虫が這う様を想像して顔をしかめ、それっきりそれについて考えるのをやめた。

 お前は俺が再びスピーカーの上で踊り出したのに気がつかなかった。俺がそのようにした。

 残念ながらたった2錠の薬ではお前を運転席から押しのけるのは無理だったが、お前の思考に影響を与えることはできた。それで十分だった。

 梅幸はいつも通りコンビニまでの健気な御百度参りに向かった。

 お前は一緒に行くと申し出たが、梅幸が癇癪を起こす程激しく拒絶したので不承不承ながらも同行を諦めた。

「気をつけてくださいね」──これがお前があいつと交わした最後の言葉になった。

 発作が落ち着きはじめてからは、あいつが出て行った後に玄関の鍵をかけて留守を守るのがお前の役目だったが、どういうわけかこの日に限ってお前は鍵をかけるのを忘れた。お前はそれを自分のうっかりだと思っていたが……言わなくてもわかるだろ。そういうことだ。


 お前がグースカ寝ている間に、俺は頭をフル回転させて打開策を考えていた。

 2週間も薬を飲まないでいたことが、どういった影響を俺に与えるのか?

 またお前が薬を飲むように誘導できたとして、ちゃんとリカバリーできるのか?

 由夏が飲ませてくれた薬の効果が切れた後はどうなるのか?

 この状態は執行猶予が与えられただけで、結局俺はお前の細胞に取り込まれて消滅するハメになるのか?

 疑問は幾らでもあった。どれも考えても答えが与えられることがない類のものだ。

 だから俺は考えるのをやめた。無人島に漂着した時に、船が沈没したのはどのエンジンが故障したからなのかを真っ先に奴はいないからな。

 俺がやるべきことは、救助は必ずくると信じて焚き火を起こし、砂浜をほじってHELPの文字を書くことだ。鍵を開けておいたのはそういうわけさ。

 そして、俺の生存戦略はいつだって幸運を呼び寄せる。


 人々の話し声が玄関から聞こえてきた時、お前は「また幼稚園の先生たちかな? 今回は随分人数が多そうだ。もしかして由夏がきた時の騒ぎの件かな?」と思った。

 お前が梅幸の代わりに対応してもいいものだろうか、それとも居留守でも使おうかと悩んでいる間にチャイムが鳴り、「ごめんくださーい」という若い男の声がドア越しにお前の耳に届いた。

 聞き覚えのある声だとお前は思ったが、誰の声なのかを思い出す前に玄関が開く音が聞こえてきたので、思い出すどころではなくなってしまった。

 お前は鍵をかけたと思い込んでいたので心底驚いたが、反射的に「はーい! 今行きますー!」と返事をして廊下に飛び出した。

 そしてお前は声の主が誰なのかを知った。

 正直に言うとだ。俺もちょっと意外だったんだぜ? この時は彼がそうだとは知らなかったからな。


 「スイカ! 久しぶりだねー」と俺の救助ヘリコプターこと、ファム・バー・ツーは笑った。入院していた頃にお前に向けていたのと同じ、優しい人柄が滲み出ている素敵なスマイルだった。

 彼の後ろにボーリングのピンみたいに並んだ自助グループの連中も素晴らしい笑顔でお前を見ていたっけな。

 最後列に立っていたのは制服姿の警察官だったので、お前は昨日の警察官のどちらかが彼らをここまで連れて来たのだと思った。

 そいつが玄関を閉めて鍵をかけ、帽子を軽く持ち上げてお前に「やぁ」と挨拶した時になってようやく、お前は自分の勘違いに気がついた。

「素敵な婚約者さんをお持ちですね。  さんのことをすごく心配して、僕らに連絡をくれたんですよ。洗脳を解いて、連れて帰ってくれって。それでみんなで集まったんです。いやー。それにしてもまさかうちの署の担当地区にいらっしゃるとは! 僕、ようやく復職したばかりなんですが、世間は狭いですね!」

 新町は星野源を煮崩した顔で笑った。

 お前は凍死寸前のチワワみたいにブルブル震えながら「帰ってください」と声を絞り出した。その場にいたお前以外の全員が爆笑した。

「心配しなくていいよ、スイカ。君のことはちゃんと助けてあげるから。まだ薬をやめて2週間程度だよね? 大丈夫。リカバリーできるよ」

「助けなんかいらない! 俺はこれでいいんだ! 帰ってくれ!」

 お前は玄関を指差して叫んだ。

 「うるせぇな。誰もお前に話してねぇよ」と早瀬が言った。

 もうヨーカドースマイルは浮かんでいなかった。誰の顔にもな。

 お前は見えない手に弾かれたような勢いで廊下を走り出した。お前はファムたちが追いかけてくる足音を背中で聞きながら、和室に駆け込み、押入れに飛び込んで引き戸を閉めた。由夏が来た時と同じようにシーツを引き込みに噛ませ、背中は壁に、両足は左右それぞれの引き戸に押し当てた。それがお前にできる精一杯の防御だった。

 鍵のかかるトイレに逃げ込めばいいのにそうしなかったのは、まぁ、俺だよ。俺。サプラーイズ。

 荒々しい足音が押入れに近づき、そしてバーン! 誰かが外から押入れを蹴った。お前の両足は衝撃でビリビリと振動した。

「固ってぇ! これは蹴破れないですね。みんなで引っ張りましょう。阿藤さんは外でて、誰か来ないか見張っといて。松馬が戻って来たら相談した通りに」

 そう言ったのは多分井原だろうな。『相談した通りに』と言った時の口調から、お前は梅幸に対する強い敵意を嗅ぎ取った。

 「せーの!」という声の後で、引き戸に加わる力が強くなった。

 火事場の馬鹿力とでもいうのかな。お前は1人にしちゃぁよく耐えたよ。

 お前は体全体をつっかえ棒代わりにして引き戸を抑えながら、枕元に手を伸ばしてスマホを掴んだ。お前は梅幸に家は危険だと教えるつもりでいた。

 電話アイコンをタップ。

 連絡先をタップ。

 「ま行」をタップ。

 「松馬梅幸」をタップ。

 コール。

 プルルルルルルル。

 『お客様がおかけになった番号は現在使われておりません』

 お前は「そんなバカな!」と悲鳴をあげた。

 今ならもうどうしてそうなったのかわかるだろう。お前が登録したのは、俺が書き換えた後の番号だったんだよ。バカはお前だ。

 電話が通じなかったことでショックを受けたお前は、一瞬だが引き戸を抑える力を緩めた。しまったと思った時には手遅れ。押入れの引き戸は開かれ、お前は外へと引き摺り出された。

 お前は仰向けに転がされ、暴れないようにがっちりと体を押さえつけられた。東城と井原はお前の口を無理矢理開かせ、ファムがペットボトルの開け口を突っ込んだ。苦くてザラザラした液体が喉に流れ込んでいった。お前はそれを吐き出そうとしたし、実際に少しなら吐き出せた。だが飲み込んだ量の方が遥かに多かった。

「今のスイカに必要なだけのK-5087が溶かしてある水だよ」とファムが言った。

 カラカラに喉が乾いている時に水を飲むと、水が喉から食道を流れて胃に落ちていくのを感じるように、お前も俺もK-5087が脳に働きかけるのを感じた。殆ど塞がっていた俺のライスの道をK-5087というスプーンが突いて元どおりに広げ、そこにルーが流れていくのをな。

 俺はこれでまた運転席に戻れると思ったが、そこでまたあのクソ忌々しい腕の傷の痛みが俺を遠ざけた。お前もそれを感じた。まだ紙一重のところで痛みで守られているってな。

 お前は最後の悪あがきをし始めた。

 お前は目を閉じ、体から一気に力を抜いた。お前を押さえつける力が緩むまでそうしてだらりとしていた。

 「大丈夫かな? 急に抵抗しなくなったけど」と新町が言うと、ファムがお前の口からペットボトルを抜き取った。

「スイカ? みんなの声が聞こえるかい?」

 お前は目を開けると、体に残っている全ての力を使って見よう見まねのヨーカドースマイルを浮かべた。

 梅幸じゃないが、俺もこう思ったぜ。お前は弱虫で腰抜けの役立たずのくせに、案外太々しいところがあるってな! ゴキブリにそっくりだよ、お前!

 ファムたちはその笑顔を見て安堵のため息と声を漏らし、お前から手を離した。

「いやー。よかった! 万が一薬が効かなかったらどうしようかと思ってたんだよ」

「カムバックおめでとう。危ないところだったね」

「俺たちのこと覚えてる? ドトールに来た時、君もちゃんといたよね?」

「乱暴にしちゃってごめんなさいね。まさか押入れに逃げこまれるとは思わなくて。しぶとい奴が相手だったんですね。大変だったでしょう」

 自助グループの連中は口々にそう言い、お前を励ますように肩や背中を軽く叩いたり、握手を求めたりした。

 お前は怪物の口の中にいるような恐怖を感じていたにも関わらず、それを少しも見せないように振る舞った。あの時のお前の演技力はオスカーものだったよ。

「もうすぐあいつが帰ってきます。みんながここにいたらきっと騒ぎになる。とりあえず早く家から出てください。あとで俺もここから脱出して警察に駆け込みますから。脅されて監禁されていたんだって訴えれば、あいつはおしまいですよ」

 お前は立ち上がって玄関の方向を指差したが、誰もそこから立ち去ろうとはしなかった。

 お前と目線があった東城は「えーと実は前からみんなで相談して、準備していたことがあってね。  さんにとっては急な話しかもしれないけど、今回の  さんの件もあるし、色々まとめてやっちゃおうってことになったんだよ」と言った。

 何が言いたいのかわからない歯切れの悪い言葉にお前は微かに苛立ったが、ヨーカドースマイルは維持できていた。

 ファムが「説明しちゃっていいと思うよ。ほら、スイカ。ここに座ってその包帯とって。酷い巻き方だ。巻き直さないと」と言い出した時は危うく表情が崩れるとこだったけどな。

 お前はファムに命じられるたままに畳に腰を下ろし、腕の包帯をほどき始めた。そうするしかない。嫌がれば疑われるからな。

 ファムは包帯の下から現れた傷を見ると「あーあ。雑な処置だなぁ。これじゃぁいつまでも痛むよ。……驚かないけどね。わざとそうやってたんだろうし」と言った。それから自分のバッグから消毒液やら包帯やらガーゼやら使い捨てタイプの注射器やらを取り出して傷を正しく処置し始めた。

「婚約者さんから『腕に包帯を巻いてた』って聞いた時にぴーんと来たんだよ。これ、あいつにやられたんだろ?」

 ファムの質問にお前が頷くとグループの連中は「やっぱりね」と頷きあった。

 「相談してたことっていうのはそれなんですよ。あいつが俺たちの弱点を知ってるってこと」と東城が言った。

「あいつはすでに1人、僕たちの仲間を消滅させてるんです。本当だったらあいつになるはずだった、ちゃんとしたまともな松馬梅幸さんをです。  さんや第III相治験から参加した人は面識ないだろうけど、本当にまともな人だったんですよ。なんにも悪いことなんかしてなかった。誰にも迷惑をかけなかった。それなのにあいつは彼を殺したんです。生まれで人を差別して、それで殺してしまうなんて、とても許されることじゃないですよ。それに今回は  さんまで殺そうとした。刑務所に入れようと、精神病院で一生を過ごすことになろうと、あいつが俺たちにとって危険であることに変わりはないです。あいつと同じくらい頭のおかしい誰かがあいつの話に耳を傾けるかもしれない。ちょうど、役立たずの方の  さんみたいにね。あいつは脅威になり得る。永遠に取り除かなきゃいけないんです。彼は人種差別主義者のナチ野郎ですよ」

 お前は自助グループの連中が梅幸が家に戻って来たら全員で取り押さえて、まともな梅幸にしたことのツケを払わせた後でこの世から永遠に取り除く計画を話している間、全エネルギーをヨーカドースマイルの維持に注ぎ込んだ。

 あまりにもそちらに意識を集中させていたから、ファムが傷の周りの肉に注射を射ったのに気がつかなかった。俺がお前が気がつかないようにしていいたっていうのもあるけどな。細々したところによく気がつくんだよ、俺は。

 ファムが「麻酔射ったからしばらくしたら痛みが完全に消えるからね」と言って、新しく巻き終えた包帯を軽く叩いた時になってようやく、お前は事態を把握した。

 落ち着け、なんとかできる、理由をつけてこいつらを家から追い出すんだ、松馬さんが帰ってくる前になんとかするんだ、大丈夫だ、まだ麻酔は効いてない、こいつらに気がつかれないように他のところを怪我すればいい、それで時間が稼げる、まだ大丈夫、まだ──と、いうところで、阿藤が部屋に戻ってきた。両手には自助グループの連中の靴を抱えていたな。

「通りの先に松馬が見えた。今、信号待ちしてる。1、2分で戻ってくると思う」

 阿藤はみんなに靴を渡しながら「やるんだよね?   さんに説明した?」と聞いた。阿藤の背負っているリュックのジッパーが少し開いていて、そこから糸鋸の刃とハンマーのものだろう木製の柄が覘き見えたな。

 新町が「やるよ。そのために来たんだしさ。畳が汚れないようにビニールシートひこう。急いでね。  さん。ぶっつけ本番で悪いんだけど、さっき説明した通り、あいつをこの部屋に連れて来てくださいね。僕たちはみんなここに隠れてますから」と言った時、お前の顔に浮かんだ笑みは演技ではなかった。

 お前が「任せてください」と言った時、チャイムが鳴って鍵を開けてくれという梅幸の声が聞こえてきた。

 よかった、とお前は和室の襖を閉めながら思った。

 玄関を開けて、松馬さんに逃げろって言うんだ。

 お前は廊下を歩き、玄関にたどり着き、鍵を開けた。

 もちろん言うまでもないが、お前が包帯を解いて傷口に指を突っ込んで麻酔の効果を相殺しようとも、わざわざ鍵を開けなくても廊下から「松馬さん! 逃げて!」と怒鳴ったりしようともしなかったのは、俺がそうさせなかったからだ。

 玄関が開き、いつもより少し大きなコンビニ袋をぶら下げた梅幸が家に入って来た。


 「松馬さん、ちょっと和室まで来てもらえませんか? パソコンから焦げ臭い匂いがするんですよ」と俺は言い、お前は俺にしか聞こえない悲鳴をあげた。

 松馬は疑いもせずに和室に向かった。あのキチガイはお前に気を許していたからな! 良かったなー?

 和室の襖を開いたあいつは幾つもの手にあの薄汚いもじゃ毛やおなじみのタイダイ柄のシャツを捕まれ、引き摺り込まれていった。

 俺は玄関を閉め、鍵を掛け、和室から聞こえてくる悲鳴を楽しみながら廊下を戻り、そして一足お先に始まっていた愉快なフェスに加わったんだ。もちろん、お前もご一緒にな!


 お前と感覚を共有できることをあんなに嬉しく思ったことはないよ。

 ガムテープで口を塞がれ、両手を背中で手錠に掛けられた状態で、他の連中に蹴られてるあいつから爪切りを取り上げてさ、あいつの髪を掴んで頭を持ち上げてさ、あの目を覗き込みながら「思ってたよりずっとバカだな」って言ってやった時、俺がどれだけ気持ちよかったか、お前にも伝わってただろ? 

 そういや、爪切りの秘密も知ったよな。なんてことねぇ。下敷きみたいな薄いプラスチックの板が刃が噛み合うところに咬まされてただけだった。もしかしたらだが、「パチパチ音がする=腕が痛い」って自分で自分にパブロフの犬みたいに刷り込んで、いずれは爪切りをパチパチ鳴らしただけで腕を傷つけなくても痛みを感じるようにしたかったのかもな。まぁ、今となってはどうでもいい話だ。

 あいつに「いずれ」は来ないし、あの爪切りもあいつの目玉にぶっさして中でパチパチしてやった時に壊れちまったしな。眼球が破裂した時の感触、お前も覚えてるだろ? 気持ちよかったよな? だって俺がそう思ってたんだからさ。お前もそう思ってたはずだぜ? 

 俺はウツボカズラ、お前はウツボカズラに取り込まれた惨めなカタツムリ、梅幸はマヌケな野鼠だ。ハハ。夢が現実になったな。


 さっきからだいぶ大人しいな? 刺激が強いのはダメなのか? あの場にいたくせに、俺と一緒にやったくせに、思い出すのは嫌? とんだ繊細ぶりっ子だな。

 いいけどな。俺は今、機嫌がいいんだ。この時のことを思い出すと本当に幸せな気持ちになる。だからお前にも優しくしてやろう。

 ああ。そういや昔、「笑っていいとも!」の放送事故についてのコピペをみたよな? 変な客が出て来てタモリに迷惑をかけたと思ったらCMが始まって、CMが開けたらその変な客はいなくなってて、代わりにテディベアがいるってやつ。実にいいアイディアだ。それでいこう。


 お前のお気に入りのテディベアは、お目目のところにあった黒いボタンが外れてしまった。ボタンを留めていた赤い糸が顔から垂れて、テディベアが顔を揺らすのに合わせてゆらゆら揺れた。

 俺はテディベアの髪型が好きじゃなかったから、ハサミでザクザクと髪を切った。もっと短く、もっと短くとやるうちに毛だけじゃなくて布まで切ってしまった。ついでに耳も。片耳がないテディベアなんてみっともないだろ? だからもう片方も切った。それでバランスがとれて俺は満足した。

 テディベアは元々は腐った牛乳みたいな中途半端な肌色だったが、俺はあまりいい色だとは思わなかった。そのテディベアは叩くと色が変わるタイプのテディベアだったから、俺はみんなと一緒にテディベアの全身を叩くことにした。テディベアの中には黒や紫や青や赤のインクが入った風船が入っていて、それを叩いて割ると毛の色が変わるんだ。俺たちは叩いて、蹴って、踏んで、殴って、テディベアの全身が素敵な色味になるまで頑張った。俺たちはニューカラーのテディベアをとても気に入った。ただ色を変えるのに気を取られすぎていて、テディベアのお口が変な風に曲がってしまった。テディベアのお口の中にあった白いビーズもほとんどが取れてしまった。全部拾い集めるのが大変だった。

 俺たちはテディベアのお腹に針をさしてみたり、足や手を人間だったら曲がらない方向に曲げたりして遊んだ。最初は動かし慣れていないから中々うまく曲がらなかったが、最後の方はぐにゃぐにゃと曲がった。まぁ、テディベアだから当たり前だけどな。


 俺たちは遊べるだけ遊んだ後、お片付けをしようと思った。

 俺がテディベアを風呂場まで運んで行った。

 もうこのテディベアは使えないから、ゴミ袋に入れて捨てられるように頭と手足にパーツわけして、そこから更にまたパーツを分別しなきゃいけなかった。都会はゴミを捨てるのも大変だよな。

 俺はお前がテディベアを大好きで、捨てたくないと思っていたのを知っていた。

 だからお前に聞こえるように声を出して言った。

「助けてもいいぞ」

 俺はテディベアの頭を浴槽に貼られていた水の中に突っ込んだ。

 テディベアの頭から空気の泡がコポコポと上がって来た。

「ほら、こいつの頭を抑えてる手をどけてみろよ。それだけでいいんだ。こいつは今、たった5cm程度、顔面が水に沈んでるだけなんだ。お前が手をどけさえすればこいつの顔は水から外にでて、空気を吸える。そしたら、助けてやってもいいんだぞ」

 俺はもう片方の手でテディベアの背中を撫でた。お前の手にも温もりは伝わっていただろう?

「顔が見えないと必死になれないか?」

 俺はテディベアの頭を一度水から出し、ころっと横に転がして仰向けにして、もう一度、今度は顔がよく見えるようにして水に沈めた。ボタンを無くした赤い糸が水中でもゆらゆら揺れていた。テディベアの口から空気の泡が上がる。

 俺はお前が叫び、泣き、そして懇願するのを感じていた。

 なんでもするから、お願いだからもうやめてくれ! 俺の人生が欲しいなら、肉体が欲しいなら全部お前にくれてやるから! だからお願いだ、その人を助けてやってくれ! ──とかなんとか。そんなことをお前が思っているのを感じたよ。

 お前は何もわかってない。そもそもお前はいるべきじゃなかったし、お前の人生なんてあるべきじゃなかった。俺は俺のものであるべきものを自分の手で掴み取ったのであり、お前から横取りしたわけじゃない。お前の物言いにはイラっときたね。

 俺がテディベアを水から引き上げた時、お前は少しもホッとしなかった。俺の中にあるテディベアに対する感情は変化してなかったからな。

 テディベアは残されたもう片方のボタンで俺を見た。いや、俺の奥にいるお前を見ていたんだな。

「あんたのせいじゃないよ」

 それがテディベアの最後のお言葉。

 俺はもう一度テディベアを浴槽に沈めたが、もう空気の泡は上がらなかった。

 バイバイ、バイコーちゃん。バイバーイ! 希望は失われた時に身の内で光り輝くとかなんとか言ってたけど、俺には全然見えなかったぜー! ほんと、クソの役にも立たねえ、クソみたいな人生だったよな! なーんのために生まれてなんかきちゃったのぉー? あ、そっかー! 人様にご迷惑をかけたツケを払って、惨めに、惨めに死ぬためだよねー! ハハッ。

 俺はふと思い立って風呂場の椅子に腰掛け、膝の上にテディベアを横抱きにしてみた。そして風呂場の壁にある鏡を見た。

 お前はテディベアを抱きかかえる俺の姿を見た。

 「全部お前のせいだ」と、俺はお前に言った。

 俺は和室の掃除を終えたお友達がテディベアを分解しに浴室にやってくるまで、ずっと鏡を見続けた。お前はテディベアの糸くずやインクがあちこちについた自分の姿を見続けた。

 お前がテディベアに対して思ったことの1つには同意するよ。確かにあいつは少しばかり、十字架にかけられた大工の息子に似ている。鏡の中の俺とテディベアはちょっとしたピエタに見えなくもなかった。

 

 その後はお前も知っての通り。

 テディベアはさっさと分解され、幾つかはトイレに、幾つかはゴミ収集車に、幾つかは海に、幾つかは九州にある養豚場で豚に与えられた。あいつはあいつにふさわしい場所に帰ったのさ。めでたし、めでたし。

 俺はファムから必要な分の薬と痛み止めを受け取って家に帰り、俺のことを待っていた由夏から強烈な平手打ちを食らった。「心配したんだから!」って怒鳴り散らした後、「もうどこにも行かないで!」って胸に飛び込んできた由夏の可愛いのなんのって。

 俺は心の底から彼女に感謝し、愛してると言い、もちろん行動でも示した。心温まる優しいセックス及び、彼女は住みたがっていたけど俺はちょっと渋っていた豊洲のマンションの鍵をプレゼントって形でな。


 いい部屋だろ? 2LDKのデザイナーズマンション。ドイツ製の壁紙には黒いフレームに入れられた彼女のお気に入りのウェス・アンダーソン作品の海外版ポスターが並び、無垢材の床の上をルンバが走る。2人でソラマチを歩き回って選んだシンプルな真鍮のシャンデリアの下には素朴なテーブルセット。窓の側にはモンステスラ。ソファーはニトリの一番安いやつだが、由夏がこつこつ作り上げたカギ編みのカバーをかけるとぐっとフォトジェニックになる。テレビ台の隅っこに並んだウッディとバズのフィギュアも喜んでるよ。

 このベランダからの眺めもいい。海が見える。レインボーブリッジも。ここは俺に相応しい場所だ。


 テディベアが消えたことは、特に事件にはなってないな。まぁ、わかりきってたけどな。

 新町は何回かのドトールでの自助グループお茶会で「そもそも通報受けてないですもん。まぁ、万が一通報受けても捜査なんかしないと思いますよ。書類書いておしまい。だって相手はアレですよ? みんなこう思ってますよ。『変な人だったもんな。どっかで死んじゃってるのかもね』って。億が一、事件になったとしてもね。ああいうことをしそうなのは僕らじゃありませんよ。アレ、中学生にいじめられてたんでしょ? 最近の中学生は悪いの多いから何かしたのかもしれないじゃないですか。1人ずつ順番にじっくり取調室で話しを聞いて、『他の子は全部話したよ。君はまだ未成年じゃないか。自白すれば少年院に少し入るくらいで済むし、高校受験にも間に合うよ。このまま否定し続けると君だけが他の子の分まで長いこと罰をうけなきゃいけなくなる。さぁ、正直になりなさい』って、自分が何をしたのかを教えて諭してあげれば、それで罪を認めてくれますよ。そういうの得意な知り合いがいっぱいいますから、なんにも心配することないんです」と新町は胸を張って笑った。

 心強いよな。日本の平和は彼のような善良な警察官が守ってくれているんだ。ハハッ。

 安っぽい「犯人は現場に戻る」って説を実行するみたいでちょっと複雑だったが、俺は一度だけあのテディベアの家の前まで歩いて行った。もちろん、お前も知ってるよな?

 本当に静かなもんだった。立ち入り禁止のテープもなければ、何かが起きたという雰囲気すらない。誰もあいつが死んだことに気が付いてすらいないんだ。

 俺はこんなもんを見にくる必要なかったなと思い、元来た道を引き返したがその途中でブルドックにそっくりなおばさんに声をかけられた。

 「あなたここら辺の方?」と聞かれたので違うと言うと、彼女は「そうなのー」と困ったように首を傾げてから「もし知ってたらでいいんだけどね。髪の毛がボサボサで派手な服着た背の高い男の人、見てないからしら? 多分ここら辺に住んでると思うんだけど」と聞いてきた。

 ああ、なるほどねって俺は思ったよ。こいつがあいつの御百度参りの相手かってな。確かにブルドックだった。

 「最近見かけないですね」と俺は正直に言った。そうだろ? 嘘は吐いてないぜ。

「そうなの……。あの子ねぇ、随分苦労してる子なのよ。病気のせいで外に出られないとかなんとか、ほら、最近はやってるなんとか症とかなんとか病だとかでね。ああいうのって放っておくと引きこもりになっちゃうでしょう? 私ねぇ、良くないと思うのよ、そういうの。辛いでしょ、1人って。だからね、あたしこの先のローソンをやってるんだけどね、毎日お店にいらっしゃいって言っておいたのよ。見てくれは怖いけど、いい子だったのよ。時々笑ってくれるようになったしね。でも最近は全然お店に顔出さないから心配になっちゃって。友達ができたみたいでね、最後にきた時は友達のお祝いだってケーキを買ってったのよ。すごく嬉しそうだったから私も──」

 とかなんとか。ブルドックはだらだらと喋り続けた。だからまぁ、ちょっと意地悪したくなるよな?

 「そういうのやめた方がいいですよ」と俺は言った。

「ご存知ないですか? その人、よく道端で子供に石投げられたり、殴られたりしてたんですよ。ああいう人だから揶揄われていたんです。かわいそうに……。タチの悪い不良のいいカモでしたよ。みんな言ってましたよ。『あんなに殴られたり、蹴られたりするなら家にいればいいのに、なんで出歩くんだろう』って」

 ブルドックおばさんの顔は一気に青ざめたよな。ウケるぜ。

「最近見かけないのはそういう嫌がらせに耐えられなくなったからじゃないですか? あの、あなたが悪気がないのはわかりますけど、あまりああいう人に軽い気持ちで関わらない方がいいですよ。誰にとっても良い結果にはならないでしょう?」

 ブルドックはたるんだ頬を手で抑えて「あら……どうしましょ」と唇を震わせた。

「私ったら、余計なことをしちゃってたのかしら」

 俺は「悪気があったわけじゃないなら、もう忘れた方がいいですよ。今後はそういったこともやめた方がいいと思いますね。誰も得しないじゃないですか」と言って立ち去った。


***********************************


 後ろで窓が開いた。

 「おはよう。今日は随分早起きだね」と下着の上にリネンのガウンを羽織った由夏が言った。手には水の入ったコップとK-5087を持っている。

 同棲を始めた時、彼女は俺に約束させた。薬を飲む時は必ず彼女の目の前で飲むこと。会社で薬を飲む時は、飲む様子を動画にして送ること。ほんと、いい彼女だ。

「この薬で最後だね。治験参加資格はなくなっちゃったから  の記録は治験記録には残らないけど、薬だけは最後までもらえて本当によかったよ」

「他の治験参加者が色々動いてくれたんだよ。みんなには感謝しないと。もちろん君にもね。俺を必要としてくれてありがとう。みんなにこんなに必要とされて、本当に嬉しいよ」

「なによ、改まっちゃって。病気で辛かったり、苦しかったり、人生を投げ出したくなることもあるだろうけど、あなたは生きる価値のある人よ。みんながあなたを愛してるもの」

 俺は由夏からコップと薬を受け取り、舌の上にパステルブルーのそれを乗せ、水で流し込んだ。お前の悲鳴を俺は感じたが、やがてそれは煙のように消えて無くなった。


 お前は34歳だった。

 なんの役にも立たない無駄な人生を送った、なんの役にも立たない人間だった。

 俺がお前を感じることはもう2度とないだろう。お前は俺の脳の中でゆっくりと溶けてゆき、俺を構成する細胞に一部になり、やがて俺のフケかアカか何かになってルンバに吸い込まれて消えるだろう。お前に相応しい処遇だ。


 俺は35歳になった。

 俺の人生は夜明けの太陽のように光り輝いている。

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