この線から向こう側の人は

 近隣住人からの「女性の叫び声と男性の怒鳴り声が聞こえる」という通報を受け、2人の警察官がやってきた。

 お前は国家権力様のお力を思い知ったな。奴らが「警察です!」って怒鳴るだけで、あれだけ混乱していた怒鳴り合いが収まった。まぁ、梅幸の癇癪が止まるまでにはちょっとばかり時間はかかったがな。あいつ、ビョーキだから。

 年嵩としかさの警察官は学校で一番怖い教師風の高圧的な口調でお前たち3人から話しを聞き出し、ポクポクポクチーンでこういった物語を作り上げた。


 精神的に不安定な男性が、婚約者からのプレッシャーに耐えられずに病院で知り合った友人の家に身を隠した。2週間程したら帰るつもりでいたが、婚約者が追いかけてきたため怒鳴りあいに発展。ただの痴情のもつれ。

 男性の腕と額の傷は本件とは無関係のもの。

 事件性なし。


 梅幸とお前にとってこの警察官の『働きたくねぇし、書類書きたくねぇ』根性が滲み出た陳腐な物語は実に都合がよかった。だからお前たちは程よく調教された犬のように国家権力様に「はいはい。おっしゃる通りです。クゥーンクゥーン。もう悪いことはしませんよ。クゥーンキャンキャン」と薄汚い腹を見せたわけだ。

 だが由夏はこの無能な警察官に対して猛烈な抗議をした。

「あの人は大声で怒鳴って私を脅したんですよ! まともな人じゃないのは見ればわかるじゃないですかっ!   さんのことも脅してるんです! そうでなきゃ、急にいなくなって治療をやめるわけないじゃないですかっ! 私たちは順調だったんです! なんの問題もなかったっ!  さんがおかしくなったのは薬を飲んでないせいです! 警察でしょ!   さんに薬を飲ませて! あの人、騙されてるの! 洗脳されてるのっ! 目つきがおかしいでしょうっ!」

 由夏は涙ながらに訴えたが、警察は「いい大人が自分の意思で薬をやめたい、友達ん家に泊まりたいって言ってるのをどうこうできませんよ。大体あなた、結婚もしてないんだからこの人の奥さんでもなんでもないでしょ。そんなんじゃ警察は動けませんよ。今日は家に帰りなさい」と迷惑そうな顔をするだけだった。

 由夏は更に食い下がって抗議を続けたが、年嵩の警察官の「そんなに言うなら交番行って調書書こうか? あなたの方が分が悪いのわかってる? 人の家に押し入ってんだよ? あなたね、自分の行動も少し振り返ってみたら? そういうところのせいで、彼氏さん逃げ出しちゃったんじゃないの?」という嫌味ったらしい言葉を受け、撤退を余儀なくされた。

 立ち去る前に彼女はお前に抱きつこうと両手を広げたが、お前は「ヒッ!」と悲鳴を上げて飛び退いた。足元に飛び出してきたゴキブリを避けるみたいにな。

「なんでそんな顔で私を見るの?」彼女は目に涙を溜めながらそう言った。

 お前が何も答えられないでいると、彼女はしゃくりあげながら家から出て行った。

 警察官はお前に「別れ話はできるだけ人が多いところでやりなさい。なんかあったらまた連絡して」とヤフー知恵袋よりも役に立たないアドバイスをしてから、梅幸に顔を向けた。

「最近あんた関係の通報多くて困ってんだよね。警察もストレスたまる仕事だからさぁ、あんたみたいに大声出したり、暴れたりするようになっちゃう人たまにいるけど、みーんな病院行って薬もらったら治ったんだからさ。あんた、もうちょっと真面目に治療に取り組みなさいよ。長期入院だって悪いもんじゃないんだからさぁ。治るまで出てこないっていうのもさ、解決策の1つなんじゃないの? あんたのために言ってんだよ?」


 由夏と警察官が去った後。お前は押入れに閉じこもってガキみたいに泣いた。

 俺はお前の被害者ぶりっ子にはいい加減辟易していた。このままお前みたいなヘタレの一部分にならなきゃいけないなら、いっそお前に死んで欲しかった。

 だから俺は由夏の言葉を思い出し続けた。由夏の言葉をお前が思い出し、お前を落ち込ませ、お前が首を吊るなり、手首を切るなりのきっかけになればいいと思ったんだ。

 俺の一生懸命さが通じたのかどうかはわからないが、お前は由夏の言葉を繰り返し思い出し、枕を噛んで病気の犬みたいに唸った。

 苦しみの中。お前は数ヶ月ぶりに下半身にぶら下がった命綱に手を伸ばした。

 要するにナニを握ってシコり始めたんだ。苦痛から逃れるためにな。

 人ん家の押入れで朝っぱらから。お前、本当にキモ過ぎる。生きてる価値ねぇよ。

 おなじみの司書。おなじみの女戦士。おなじみの魔法少女。おなじみのエロ触手。おなじみのウツボカズラ。おなじみのカタツムリ。

 お前のエロ選抜隊はどいつもこいつもナニを勃たせちゃくれなかった。ちょっとナニが元気になるたびにお前が由夏を思い出したせいだ。

 お前は手首が痛む程しつこく擦り上げたあとでやっと自覚した。命綱はもうない。脳内に湧き上がる最悪の思い出から気をそらす手段はもうないんだってな。

 お前は憔悴し、泣くだけ泣いた後、滑り降りるようにして眠りに落ちた。夢の中でも由夏の慈愛に満ちた言葉は響き続けた。

 ──こんなのが本当の  じゃないって、私にはわかってるから──。

 俺がこの言葉を思い出し続けたからだろうな。素敵な悪夢だっただろう?


 夜の12時を少し過ぎた頃。お前は目を覚ました。

 梅幸は布団に入ってはいたが眠ってはおらず、枕元のライトをつけて本を読んでいた。あいつはお前が起きたのに気がつくと「丸一日寝ていたな。朝から色々あったから仕方ない。二度寝するならこれでも読んでろ。すぐ眠くなるぞ」と言って枕の側に積んでいた本の中から一番薄いものを取り出して手渡し、お前の手元も明るくなるようにライトの角度を調整した。

 本のタイトルは『中枢神経ちゅうすうしんけい中枢感作ちゅうすうかんさ:脳と苦痛のメカニズム』。

 こんな状況でなければ一生手に取ることはない本だとお前は思った。かなり読み込まれていて、ところどころに蛍光ペンでラインが引いてあったり、走り書きがしてあったりした。WDRニューロンがどうとか、インパルス伝達がどうとかな。

 数ページで爆睡するかと思いきや、お前は食い入るようにその本を読んだ。特に苦痛がどのように発生するのかについてを繰り返し何度もな。苦痛がどういったものかを知れば、万が一薬断ちが失敗して俺との繋がりが復活したとしてもなんとか対処できるんじゃないかと思ったわけだ。ハッハー。どうだい? 対処できてるぅ?

 『怪我というのは、肉体の細胞の一部分が破壊されるということである』

 『細胞は破壊されると発痛はっつう物質を体内に放出する。これが知覚神経に触れて信号に変わり、信号は神経を走って脊髄せきずい視床ししょうを通過、最終的にそれは大脳皮質に届き、そこでようやく痛みを脳が発信する』

 『脳が痛みを感じるようにするので、仮に怪我が完全に治ったとしても神経か脳が誤作動を起こせば傷が治っていても痛みは続く』

 『脳が感じる痛み自体には馴化じゅんかはない。場合によっては一生涯、治ったはずの傷の痛みは続く』などなど。結局、なんの役にも立たなかったな!


 しばらくの間、お前たちはただ本を読んでいたが、やがて梅幸が口を開いた。

「あと数日であんたは元の人生に戻れる。薬が効いていた時と比べたら辛いことも多いだろうが、それでも誰にも勝手にいじくりまわされることのない自分だけの生活に戻れるんだ。おめでとう」

 お前は「本当に色々、ありがとうございます」と礼を言ったが、自分でも驚くほどお前の声は暗かった。

「どうした?」

「これからどうやってやっていけばいいのか不安になってきて……。きっとみんな、由夏みたいに言うんだろうなぁって想像つくから」

「どうにかなるさ。生きてるんだから」

「松馬さんは強いから割り切れるでしょうけど、俺は弱いから……」

「強い奴は中坊に蹴られたりしないよ。あんたは大丈夫だ。やっていけるよ。大丈夫、大丈夫」

 松馬が本に顔を向けたまま軽い調子で言ったので、お前は少しムッとした。

「松馬さんは大丈夫ってよくいいますけど、何か根拠でもあるんですか?」

 どうせ何にもないんでしょ? という皮肉な口調でお前が言うと、梅幸はお前の思った通り「根拠なんかクソ食らえだ」と答えた。

「大丈夫だから大丈夫なんだよ。そこに根拠なんかもたせるな。根拠が消えた時にグラついちまうだろ。根拠がないものが一番強いんだ。不可侵だからな」

 梅幸が歯を見せて笑うのを見て、お前は今まで誰に対しても抱いたことのない感情を梅幸に対して抱いた。『あんな風になりたくはない』と『あんな風になりたい』の混ざり合った複雑な感情だ。

「どうしてあなたは、そんなに強いんですか?」

 梅幸はまた俺は強くないと言いかけたようだったが、お前の顔を見て口を閉じ、少し思案してからこういった。

「……俺自身がこんなザマだからな。せめて俺の身の回りにあるもので一番美しいものを掲げて、それを見ながら生きるようにしてる」

「美しいもの?」

「希望だよ」

 あまりに陳腐でバカらしい答えだ。小学生の道徳かよ。

「毎日病院に行けばあの薬のせいで苦しんでいる誰かを助けられるかもしれないという希望が俺をあんたの元に導いた。あんたは俺に新しい希望をくれた。あの薬は追い払えるって希望だ。美しいものだ。俺の気持ちを伝えれば誰かがわかってくれるって希望が俺をコンビニのおばさんの元に導いた。彼女は俺に新しい希望をくれた。俺のことを殆ど知らない人が俺を気にかけてくれてるという希望だ。美しいものだ。希望はいつでもそういうもののところまで、俺を導いてくれる。あれは美しい灯台の光だよ」

 ハイハイ。自己啓発。自己啓発。ハイハイ。

「じゃあ、俺はやっぱり大丈夫じゃないですよ。自分の人生に希望なんか持てないですから」

 お前は力なく笑った。

「今まで一度も希望を感じたことはないのか? 一度も?」

「薬を飲んだ時と、それから薬が効き始めた時になら感じていたような気がします。でも結局このザマです。こんな思いを味わうなら希望なんかない方がずっとよかった」

「希望の1番美しいところは、道を照らしてくれるところじゃない。自分は歩けるのだとわからせてくれるところだ。希望を掲げている間、あんたは動けたんだろう? 進み方を知ったんだろう? 希望があんたを進ませたのかもしれないが、進んだのはあんた自身の力なんだ。わかるか? あんたには力があるんだ。希望があろうがなかろうがな。手にしていた希望が消えてしまった時も慌てることはない。それは自分の中に移動しただけなんだ」

 どこのカルト宗教のグルだよって思ったぜ。『私はブッダの生まれ変わりである。私を主役にしたアニメ映画を作るのだ。私の声は子安で頼む』って言い出すまであと3歩って感じだ。なんでお前がグッときたのか、意味不明だったぜ。

 ワイングラスの絵の中に向かい合った横顔を見つけてしまうと、もう2度とその絵をただのワイングラスの絵としては見れなくなるのと同じで、お前は薄汚いイカれた爪切り男の中に、ヴィア・ドロローサを歩む聖者のごとく清廉な男を見つけ出しちまったんだろうな。

「松馬さんのように思えたらいいなとは思います。でもやっぱり割り切れないんです。心の中が不安と後悔でいっぱいで、それ以外に目が向かない。まともになりたいって思うことが、そんなに悪いことだったんだろうかって思うんです。人気者になりたいとか、人より幸せになりたいとかじゃないんです。ただ俺のことを知りもしない誰かに『こいつはまともじゃないんだから』って思われて、まるでまともじゃないから心なんて持ってないだろうって風に扱われて、自分自身でも自分のことをそう思って、生きていくのがもう嫌だっただけなのに、なんでこんな目にあっちゃったんだろうって。薬に頼ろうとした俺が悪いのかなって……」

「おいおい。どうしてそうなるんだ。薬に頼ることのどこが良くないっていうんだ。今回のはあんたが悪いんじゃないぞ。病院に行ったことも、薬を飲んだことも悪くない、治験自体も悪くない。今回は治験の薬がクソ最悪だったって話なんだ。これは完全に薬害だ。それもものすごく証明しにくい悪質なやつだ。そんな風に自分を責めるな」

 梅幸は頬杖をついてお前を見た。

「あんたはちょっとするとすぐに自己嫌悪に突っ走るな。まともになれば、あんたは幸せになれるのか?」

「当たり前じゃないですか。もし俺がまともだったら、誰も悲しい目にあわないで済んだんです。由夏だって……」

「そういうのはあんたの思い違いだと思うぞ」

 梅幸は言った。

「『まとも』っていうのはな、誰かや何かを『まともじゃない』ってことにするためにある言葉なんだ。『俺はこれこれこういう理由でまともな人間なのだ』と大声で主張しても自分がまともな人間である証明にはならないが、どこかに線を引いて『この線から向こう側にいる奴はまともじゃない』ってことにしてしまえば、その線のこちら側にいる自分は逆に『まとも』ってことになるだろう? 例えば『スプラッターホラーが好きな奴はまともじゃないんだ』って線を引いてしまえば、それを好きじゃない奴は全員『まとも』ってことになるのさ。声がデカくて仲間が多い腰抜け用のおまじないだ。そんなもそんなもののために、自分を嫌いになることないじゃないか」

 お前が言ってる意味がわからないって面で眉を寄せると、梅幸は苦笑いしながら「発作を起こしてる時のあんたは、あんたのことを『まともじゃない』ってことにしたがる連中の目線に立って、犯してもいない罪であんたを裁いてるんだよ。そんな必要、全くないのに」と言った。

「あんたが自分をどんなに卑下しようと、あんたはいい奴だよ。今日は俺のために怒ってくれたし、俺を心配してくれた。守ろうとだってしてくれただろう。自分だって治療でいっぱいいっぱいなのに」

 お前は正面から褒められてまごついた。褒められ慣れてなかったからな。だから小さな声で「そう言ってもらえるなら、ちょっとだけ、自分に価値があるように思えます」と答えた。

 梅幸は考え込むような顔をして黙り、それからまた口を開いた。

「『あんたは良い奴で、俺を助けてくれた。だからあんたには価値があるし、ここにいていいし、存在していいんだと思う』」

 お前は更にまごまごしたが、それも梅幸が「今、言ったのは嘘だ」と言い出すまでだ。

「……えー……」とお前は心底情けない声を出した。

 お前の愕然とした顔を見て、梅幸は「あんた、そういう面白い顔もするんだな。いつも泣いてるか、落ち込んでるかだったから知らなかったよ」と言って笑った。

 お前も梅幸がこんな風に笑うのを知らなかったな。梅幸の癇癪は最初に出会った時からかなり落ち着いていた。緊張性のもので、お前には気を許していたんだろう。良かったなー!

「あんたは良い奴だよ。俺は本当にそう思ってる。嘘なのは『あんたには価値があるし、存在していい』の部分だ」

「……やっぱり俺、存在してる価値がないんだ……」

 梅幸はタバコの煙でも払うように顔の前で掌をひらつかせ、「違う、違う。紛らわしい言い方をして悪かった」と慌てた。

「『誰かに対して何かをしたから、誰かに認められたから、存在する価値がある』──そういう考え自体が嘘だって言いたかったんだ。あんた、発作を起こした時にいつも『俺はなにもまともにできない、誰の役にも立たないから存在する価値がない。自分はここにいちゃいけないんだ』みたいなことを叫ぶだろう? それがずっと気にかかってた。それにあんた、俺がさっき言ったみたいな耳障りのいい言葉にぐらっとくるだろう? 『あんたはナンタラカンタラをしてくれたから、存在価値がある。誰かがあんたを承認したからあんたはここにいていい』とかそういうのだ。この考え方はな、はっきりいってろくでもない猛毒だ。人を地獄に引っ張り込むパイドパイパーの笛の音なんだ。『価値があって、いい奴だから存在していい』っていうのは、ひっくり返せば『価値がなくて、いい奴じゃなければ存在しちゃいけない』ってことになるじゃないか。それに『価値がなくなったから』『いい奴じゃなくなったから』『存在しちゃいけない』ってことにもなる。しかもそれをジャッジするのはあんた以外の誰かなんだ。自分の価値のあるなしを他人に託す奴があるかよ。どう考えたって悪手じゃねぇか。一体どこに人の価値を決められる権利を持つ人間がいるんだ? そういう権利があるかのように振る舞うバカはどの時代にもいるけど、でもそんな奴はどこにもいないんだよ。『あなたには価値があるから、存在していいんだ』なんて言ってくる奴はな、言葉の意味がわかってないバカか、意味を分かっていて言ってる性悪かのどっちかだ。どちらにせよ信じちゃダメだし、良いことみたいに考えちゃダメなんだ。この耳障りが良いだけの甘い毒のせいで、現にあんたは立ち行かなくなってるじゃないか」

 梅幸はお前の目を見て強い口調で言った。

「本当に存在価値のないものは、存在しちゃいけないものは、そもそも最初から存在してないんだ。だって、存在しちゃいけないんだからな! 誰が何をどう言おうと、あんたはもういるんだよ。それは変えようがないんだ。目の前に林檎が置いてあって、『お前はここにいないはずだ!』って言えば林檎が消えるのか? 魔法使いか超能力者じゃあるまいし、不可能だろう。何かに対して『存在しちゃいけない』なんて思ったり、言ったりする奴はな、本当はこう言ってるんだ。『お前を消したいけど、消すだけの力がないから、お前にお前はここにいちゃいけないんだと思い込ませて、自分から消えてもらおう!』ってな! だからあんたは、そんなバカバカしい考え方に引きずられちゃダメだ」

 お前は曖昧に頷いた。梅幸は「今はわからなくても、これから幾らでも考える時間はあるから。いつかあんたがその毒を追い払えたらいいと思うよ」と言って欠伸をした。

「本、まだ何か読むか? 読むならこのライト、押入れに持っていっていいから。俺はそろそろ寝るよ」

 お前は手を伸ばして梅幸からイトを受け取った。

 ライトの光が押入れの中に向くと、梅幸の姿は黒いシルエットに変わった。シルエットは布団の中にもぞもぞと潜りながら、やや硬くなった声で「ありがとな」と言った。

「何がですか?」とお前は聞いた。

「……俺を気にかけてくれて、心配してくれて、ありがとう……。あんたは、その、もうすぐ薬断ちが終わるだろう? そしたらきっともう会うこともないだろうからちゃんと言っとこうと」

「え」

「え?」

 お前たちは黙り込んだ。

「……え」

「……え?」

「あの、もう会うことないんですか?」

「だって、迷惑だろ。俺みたいなのがうろうろしてたら」

「いや……全然……。というか、俺としては、あの……友達になったと思っていたので……だからこれからも会えるんだろうなって、あの、勝手に思ってて……」

 梅幸は「えっ!」と短く叫んでから「……いーの?」と言った。ひっくいおっさん声のくせに、遊びに誘ってもらえた子供みたいな間抜けな口調でな。

 お前は勢いよく「はい!」と答えた。自分が押入れにいるのも忘れて体を起こしたので、思いっきり頭をぶつけたな。

 梅幸は「酷い音したぞ」と言って笑い出し、お前も頭を抑えながら笑い出した。

 笑うだけ笑うと、お前の心に1つのアイディアが浮かんだ。

「薬を断てたら、一緒にブックオフに行きませんか?」

 梅幸は何も言わなかったが、怪訝な顔をしているのは伝わった。

「大きいブックオフです。ブックオフバザール。漫画だけじゃなくて玩具とか家具とかなんでも売ってるんです。俺じゃない奴が捨てたいらない物だって、きっと探せば見つかるはずなんです。眠り猫の木彫りの置物、ひまわりの人形、パンダのキーホルダー、スポーンのフィギュア、ハクのおにぎり、死のデッキ破壊ウィルスのカード。そういうのをまた部屋に置きたい。あいつが捨てた俺の特に大事でもなかったいらないものを元に戻したいんです。あっても、なくてもいいものなら、あった方がいいと俺は思うから。それから、何か新しい、なんの役にも立たないいらない物を買いましょうよ。2人で」

 梅幸が暗がりの中で笑うのをお前は感じた。

「ああ。それはとても美しいな」

どこがだよ。頭のおかしい奴はやっぱり、何もかもがおかしいんだな!


 お前たちはその後も薬断ちが終わったらああしたい、こうしたいと話し続けた。

 その内梅幸はうとうとし始め、話しの途中でぱたっと枕に頭を落として眠り始めた。

 お前は借りていたライトを押入れから外に戻した。スイッチを消す前に、赤みがかったライトの光が梅幸の顔を闇の中から浮かび上がらせた。

 その時の寝顔をお前は今もはっきりと覚えている。俺が思い出すまでもなくな。母親の側で眠る子供みたいな穏やかな顔だった。

 お前は胸に希望を抱いた。

 きっとうまくいく。俺は薬がなくても生きて行くことができる。大丈夫。明日も、明後日も、生きていくことができる。

 感動的だな。クズとクズが友情で結ばれたんだ。素晴らしい、素晴らしい、拍手してやるよ。

 お前がライトを消し、押入れの戸を閉めて眠りにつくまでの間、俺が何を思っていたのか教えてやろう。

 死ね。

 それだけさ。

 死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。

 ただそれだけを思っていたよ。


 翌朝。俺は玄関先で梅幸が誰かと話す声で目を覚ました。

 相手の声は聞き間違えようがなかったな。由夏の声だ。会話はすぐに終わり、玄関が閉まる音が聞こえてきた。

 俺は由夏と梅幸が一体何を話していたのか気になって仕方なかったが、お前が目覚めたのは由夏が出て行ってから1時間近く経ってからだった。あの時はイラついたもんだが、まぁ、許してやるよ。俺は心が広いからな。

 お前が居間に行くとちゃぶ台の上にロキシタンの紙袋が乗っていた。

「あんたが寝てる間にあんたの彼女がきて置いてったんだよ。昨日は酷いことを言って悪かったって謝られた。あんたを起こそうか? って聞いたんだけど、気まずいから呼ばないでくれって言われて……。起こした方が良かったか?」

「いえ。俺も彼女とどう接すればいいかわからないんで」

 梅幸は爪切りでパチパチ腕をやりながら「そうか」と言った。お前はもうあいつの奇行に慣れちまってたな。慣れちまって、ちょっと妙なことに気がついてた。柔らかい肉を切ってるはずなのになんでパチパチ音がするんだ? ってな。いずれ聞いてみようとお前は思った。

 紙袋の中にはお前の弁当箱と、いくつかのプラスチックのタッパーが入っていた。それからいい匂いのする手紙もだ。ピオニー。

 手紙には「あなたが婚約や同棲のことをプレッシャーに感じているのに気がつかなくて本当にごめんなさい。お友達にもあなたにも失礼なことを言ってしまいました。無理やり連れて帰ろうとも、薬を飲ませようとも今は思っていません。あなたが飲みたくないなら、それでいいんです。薬を飲まないとあなたは昨日のような状態になってしまうのでしょう? 驚いてしまったのは確かですが、でも、あなたがあなたであることに変わりはありません。新しいあなたに慣れる時間をください。私はありのままのあなたを受け入れられるようになりたいんです。あなたが私に何も言わずにいなくなったことには怒りを覚えますが、あなたが悩みを打ち明けられない原因が、私にもあったのだと思います。今はお互い顔をあわせると感情的になってしまうでしょうから、あなたが落ち着くまで電話をしたり、メールをしたりするのはやめます。あなたの健康がとても気がかりです。昨日会った時、あなたはやつれているように見えました。お弁当を作りました。よかったら食べてください(お友達の分も作ろうかと思いましたが、手料理が苦手な人もいますし、アレルギーとかあるかもしれないから控えました。それになにより、私はあなたのために作ったので、あなたに食べて欲しいです)。朝、昼、夜の分入ってます。食器を洗っておいてくれるととても助かります。明日取りに来ます」と書いてあった。

 お前は紙袋からタッパーと弁当箱を取り出し、それをちゃぶ台の上に並べて順番に蓋を開けた。

 カレードリア。ニラと豚肉とキムチの炒め物。にんにく入りオイスター炒め。

 どれもこれも匂いが強くて味が濃い料理だった。

 一目見ただけで俺は彼女が俺のために何をしたのか悟ったし、お前も彼女が俺のために何をしたのかを悟った。お前は間抜けで頭の鈍いバカ野郎だが、この時は中々いい勘をしてたぜ。

「急にどうしたんだ?」

 梅幸はお前が料理を見つめながら泣き始めた意味がわからず、狼狽えていたな。

 「全部捨てましょう」とお前は涙をぬぐいながら言った。

「彼女、料理の中に薬を混ぜてます。前に自助グループに会った時、連中の1人がもう1人の俺にアドバイスしたんです。『薬は味の濃い料理に混ぜてしまえばいい』って。カレーとか、キムチとか。彼女、それを知ってるんだ。もう1人の俺が、俺が気がつかない内に彼女に教えてたに違いないです。これ、彼女の得意料理でもなんでもないし、俺の好きな料理でもないですから。彼女、辛いの苦手だから、キムチなんか絶対買わないんです」


 結果的には大正解だったが、お前は「でも一体いつ、もう1人の俺は由夏にそんな話をしたんだ?」と疑問に思った。記憶を引っ張り出してみても、俺が由夏にそんな話をしているところを思い出せなかった。今もそれについてぐるぐる考えているだろう?

 答えを教えて、お前が考えないで済むようにしてやろう。


 お前が完全に油断していたあの1ヶ月の間。

 俺が夜中に由夏に電話をかけたのはなんのためだと思っていた?

 まさか、俺がただ彼女の声が聞きたいがために、あんな危ない賭けに打ってでたと? ハハッ! 思ってたんだな、このバカが。

 俺は電話で彼女にこう言った。

 「俺が薬を飲むのを嫌がったり治験を止めたいと言い出したら、どんな手を使ってでもいいから薬を飲ませてくれ。キムチやカレーなんかの味が濃い食事に混ぜるのでもいい。変な奴が邪魔をするかもしれない。見ればすぐにわかるよ。どっからどうみても頭おかしいって感じの奴だから。そいつは俺と同じ薬を飲んだけど、効果がでなかった奴なんだ。自分の不幸に他人を巻き込もうとしてるのさ。そいつは頭がおかしいが、頭のおかしい奴独特の変な説得力を持ってる。人を洗脳するのが得意なんだよ。そういう奴が最近、俺に近づいてきてる。できるだけ関わらないようにするつもりだけど、万が一にも俺がそいつに洗脳されて、薬を飲まないと言い出したら、お願いだよ、由夏。俺を見捨てないでくれ。もし君1人で難しいなら、助けてくれそうな人たちの連絡先リストを送るから、彼らに連絡して。あと、この電話のことや会話の内容は、電話以外で俺には話さないでくれ。電話での会話は、電話での会話にしておくんだ」

 彼女はあまり俺の話を真面目に聞いちゃいなかった。距離を感じたよ。彼女の「そっかー。大変なんだね」という言葉の合間から『この人、想像してたよりも症状が重いのかも』っていう心の声が聞こえてくるようだった。

 俺にとって幸運だったのは、彼女が本当に誠実だったって点だ。

 彼女はお前を紹介される前から「会社で変なこと叫んで倒れた人」というのを聞かされていたし、お前のようなまともじゃない奴にどう対処すればいいのかを学んでいた。『お前のような奴が妙な妄想を言い始めた時は、妄想を否定してはいけません。落ち着くまで相手に合わせてあげましょう』ってこともな。

 だから彼女は俺の話を信じちゃいなかったが、俺のお願いを聞き入れて電話の内容をお前には言わなかったのさ。

 

 梅幸は深い同情を浮かべた顔で「俺が捨てとくよ」と言い、弁当箱やタッパーを持って台所に消えた。

 あいつが生ゴミ用のゴミ箱に由夏の料理を捨てる音を聞きながら、お前は「大好きだったんだけどなぁ」と呟いた。

 お前はこの時まで『例え薬を飲まなくなったとしても、由夏はもしかしたら側にいてくれるかもしれない』というパステルカラーの希望を抱えていたが、それはカレードリアと一緒にゴミ箱に投げ入れられたんだ。

 身の程知らずな夢をみるからだ。お前なんかが由夏と釣り合いがとれると思ってたのか? それとも、お前のクソみたいな人生に由夏を巻き込んで、お前の世話を彼女にみさせるつもりだったのか? 彼女の人生を疲弊させるつもりでいたのか? ろくでなしだな、お前。

 梅幸は「明日、あんたの彼女が来たら追い返してやろうか?」と聞いたが、お前は首を横に振った。

「薬が混ぜられていたのに俺が気がついたって彼女に知られたら、また別の手段で薬を飲ませようとしてくるかもしれないでしょう。だから美味しく食べたふりをします。食べたけど、薬が効かなかったってことにすればいい」

「……大丈夫か?」

 お前は力なく笑った。全然大丈夫じゃなかった。

 

 翌日。また由夏は手料理をぶら下げて梅幸の家にやってきた。

 お前はまた寝ていたから、気がつかなかったけどな。

 最初に料理を持って来た日とは違い、由夏は中々玄関先から帰ろうとしなかった。

 お前が本当にちゃんと料理を食べたのかを知りたがり、お前の顔をみたがった。可哀想な由夏。せっかくの手料理が捨てられてるとも知らずに!

 梅幸が「今、寝てるから」と言うと、由夏は渋々引き下がった。

 彼女はダイアナの紙袋にまた弁当箱とタッパーを詰めていた。また手紙があった。お前への愛が綴られていたな。

 弁当箱とタッパーにも愛が詰まってた。もちろん、粉々に砕いたK-5087も。

 梅幸は由夏の手料理をまたゴミ箱に捨て、お前は押入れにこもって泣いた。


 この日、発作は起きなかった。

 梅幸はお前に「頭の中にまだいるか?」と、俺のことを聞いた。

 もちろん、俺はいたとも。もう殆ど自分で何かを感じたり、考えたりできないような状態ではあったがな。

 お前は「いるような……いないような……」と答えた。

「殆ど消えかかっているようだけど、でも、こいつ、いない振りするの得意だから、消えかかってるのも振りなのかもしれない」

 梅幸は「もう1日だけ様子を見よう。腕の傷が痛んでいれば、仮に消えかかっている振りをしているだけだろうと、もうあんたを操れるほどの力はだせないはずだ」と言った。

 

 そしてまた次の日。由夏がやってきた。今回は手ぶらでな。

 お前は寝ていて、俺は起きていた。由夏の声が聞こえた。

「本当はあの人、食べてないんでしょう?」

 梅幸は何かごまかすようなことを言っていたが、由夏は「わかってますから。私が薬を入れたの、気がついたんでしょう?」と答えた。

「だからあの人、私に会ってくれないんでしょう? 私に裏切られたって思ってるんでしょうね。私はあの人に薬を飲んで欲しいんです。病気ときちんと向き合って、ちゃんと治して欲しい。あの人が言ってたんです。もしも俺が薬を飲むのを嫌がったら、どんな手を使っても薬を飲ませて欲しいって」

「それはいつの話?」

「付き合い始めの頃。3、4ヶ月くらい前です。あの時は『この人、何言ってんだろ?』って思ったけど……。今回、こういうことになってしまって、私、その時の彼の言葉を思い出して、なんとかしてあげなきゃって思ったんです。でも、間違ってた。昔の彼の言葉じゃなくて、今の苦しんでる彼の言葉を聞くべきでした。彼が飲みたくないって決めたなら、それを尊重するべきでした。少なくとも、だまし討ちするような真似はしちゃいけなかったんです」

「……彼、今は寝てるけど起こして連れてこようか? 2人で話した方がいいだろう」

「寝てるんですか? じゃぁ、起こさないで」

 由夏の声は悲しみに沈んでいた。

「彼に会う気はないんです。もう私たち、ダメだと思うから。私は彼を騙そうとしたし、彼も私に一度も相談しないで薬をやめるって決めた。……関係を続けていくのは無理です」

「何か、伝えて起きたいことは?」

「『ごめんなさい』ってそれだけでいいです。それじゃぁ、私はこれで」

 少しの沈黙の後、由夏が言った。

「寝てるなら、顔を見て行っていいですか? 最後に一目だけ」

「……入って」

 梅幸と由夏の足音が近づいてきて、和室の襖が静かに開く音が聞こえた。

 「事情があって押入れで寝てる」と梅幸が言うと、由夏は戸惑った声で「色々あったんでしょうね」と言った。

 少しして押入れの引き戸が開いた。梅幸は小さな声でお前を呼んだが、お前は眠り続けていた。

 俺はまぶたを開けることすらできなかったから、気配で察するしかなかった。

 彼女は押入れの外に座った。

 まぶたを透かす光が何かに遮られ、彼女の前髪がお前の顔にかかった。

 お前は彼女が熱烈なキスをしたのに気がつかず、彼女が部屋から出て行ったのにも気がつかなかった。

 お前が目を覚ましたのはそれから1時間は過ぎた頃で、由夏がきていたこと、彼女が泣いていたことを、別れると言っていたことを、かなり気まずそうな様子の梅幸から聞かされて初めて事態を把握した。

 

 1時間もあれば、由夏が粉々に噛み砕いてキスと共にお前の口の中に入れたK-5087は溶け消えてるよな。


 そういうわけだよ。

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