変なおじさんズ

※差別的な表現を含みます。


 今。

 お前は俺の脳の中で分解されつつある。

 お前は自分の形を保とうともがいている。お前は感じ続け、考え続けようとしている。今や残りわずかとなったお前の脳の領土に思考の光を灯し続ければ、自我の消滅を遅らせることができるとお前は思っている。

 確かに遅らせることはできるだろう。今まさに水没しようとしているボートからスプーンで水を掻き出す行為も、コンマ単位で考えれば無駄ではないんだから。

 だがお前は間も無く消滅する。この俺の中で。それに変わりはない。

 深夜と早朝の合間にだけ吹く濡れた冷たい風が、ベランダに立って街を見下ろしている俺の髪を踊らせ、体を撫でていった。

 だがお前は風を感じることができない。俺が感じたと感じるだけだ。

 お前は恐怖を感じ続けているが、その恐怖は時折、風に吹かれた煙のようにフッと消える。お前は自分が恐怖すら感じなくなることに恐怖を覚えるが、それもまた時折、消えてしまう。そして時折は徐々に、時折ではなくなってきている。

 俺の感情はお前の感情を塗りつぶしていく。太陽がのぼる頃には、お前は自分自身の消滅を俺と共に祝うだろう。

 お前は「どうしてこんなことになったんだ?」と考え続けている。1秒でも長く自我を保つために。

 だから俺はこうやってお前の人生を振り返り、1つ1つ順を追ってお前の中の『どうして?」を潰している。

 俺がお前の『どうして?』を潰し終えた時、お前は考えるのをやめ、ただの細胞の塊になり果てる。そういうことだ。

 さぁ、続きを始めようじゃないか。


 薬断ちして12日めの朝。

 朝には殆ど発作を起こさなくなっていたお前に留守を預け、梅幸は家から20分程歩いたところにあるコンビニへ向かった。

 お前は「何か出前をとりましょう。毎日出かけることないですよ。危ないじゃないですか」と何度となく梅幸に提案していたが、梅幸はコンビニ通いをやめなかった。何も買う必要がない場合でも1日1度は必ずそこへ向かった。

 梅幸が「しつこいな! わかったよ! 説明するからもう同じ話しを蒸し返さないでくれ!」と怒鳴り始めるまで、お前はなんでコンビニに行き続けるのかを聞いた。

 この頃にはお前は梅幸の癇癪に慣れており、あいつに怒鳴られようが、睨まれようが気にしないようになっていた。

 梅幸は「あんた、案外太々しいぞ!」と唸ったが、そんなに嫌そうではなかったな。奴もお前と同じように、奇妙な縁を心地よく思っていたのかもしれない。バカとバカが身を寄せ合ってシンパシーを感じてたわけだ。


 梅幸はおにぎりに村を焼かれたおじさんとしてバズった後、自分の症状の説明と、決して攻撃的な意図があって怒鳴ったわけではないことと、迷惑をかけたことに対する謝罪を書いた手紙を持ってコンビニに足を運んだ。手紙であれば大声で怒鳴って相手を怖がらせることもないと考えたわけだ。

 ブルドッグが人間に進化したかのような風貌のコンビニの店長は手紙を読み終えると「これからは毎日ここにいらっしゃい」と梅幸に言った。

 店長は「おにぎりだろうとサンドイッチだろうと、買ってくれるものになら怒鳴っていいから。毎日そうしていればね、そのうち誰も気にしなくなるわよ。人は何にでも慣れちゃうんだから、あなたにも慣れちゃうわよ。あなた、よくいる変なおじさんだから。普通にどこにでもいる人じゃないのよ」と言った。

 梅幸は嬉しくて、そのブルドッグの前でポロポロ泣いたんだそうだ。変なおじさん呼ばわりで喜ぶなんて惨めな奴だ。

 以来、梅幸は『そのうち』に近づくためにコンビニに足を運ぶようになった。

 あいつにとってそれは「いつか何かがよくなる」という神への祈り。信仰の歩み。都市型のお百度詣り。道中で見知らぬ連中に蹴られようと、殴られようと、それは『そのうち』に近づくための試練と考えたわけだ。実際はただ路上で蹴られて、殴られてるだけなのにな。

 希望っていうのはいつだって人に道を誤らせるもんだな。宇宙に飛び立ちたいという身の程知らずな希望が、チャレンジャー号を爆発させて宇宙飛行士を皆殺しにしたっていうのに。


 そういうわけでだ。梅幸の信仰を妨げることはできないと考えたお前は、こっそりと梅幸の後をつけることにした。

 お前は梅幸を傷つけようとする人間が現れたら、颯爽と登場して追い払うつもりでいた。弱きを助けるスパイダーマン気取りだったんだよな。くだらない。

 家を出た最初の頃こそウキウキソワソワドキドキハラハラだったお前だが、歩き慣れない住宅街を歩く内に、お前のスパイダーセンスも正義感ぶった妄想も徐々に落ち着いていった。街は通行人も車の通りも少なく、平和だった。悪いことなど1つも起こりそうになかった。

 俺は何をやっているんだ? とお前は思った。ようやく正気に戻ったわけだ。

 こんなところで発作が起きたらどうするんだ? 松馬さんだって自分のことを考えろって言ってたのに。そうだ。松馬さんがコンビニに入るところまで見届けたら帰ろう。家に鍵をかけないで出てきちゃったし──お前はそう思い直した。

 やがて前方にコンビニが見えてきたので、お前は梅幸に追跡がバレる前に引き返そうとした。

 自転車に乗った学ランのガキ共が向かい側から走ってきたのはその時だったな。

 まだ学ランに着られてる感が消せていない中坊共が笑いながら1人、2人、3人と梅幸とお前の横を走り抜けて行った。

 お前は体がこわばって身動きがとれなかった。

 ストレスが急激に上昇していた。油断すると口から汚い言葉が飛び出して止まらなくなりそうだったので、お前は強く唇を噛んだ。

 お前って奴はもういい大人だってのにガキの集団の笑い声が怖かったんだ。中学の時にあの手のガキ共に輪ゴム飛ばしの的にされたのが、中年になってまで尾を引いていた。


 ついでだ。中学の時のお前がどんなだったか思い出してやろう。

 お前は休み時間になる度に机に突っ伏して寝たふりをして過ごす生徒だった。クラスに1人はいる「その手の子」だ。

 机に突っ伏し狸寝入りはお前なりのいじらしくて控えめな意思表示だった。「俺は誰の邪魔もしないし、誰にも関わらないから、どうか俺のこともそっとしておいて」ってな。

 だがそれはお前だけが信じているお前だけの神に向けた、お前だけの祈りだ。お前以外に祈りが通じることはない。お前といい、梅幸といい、みじめな奴らは本当に祈りが好きだな。

 クラスの何人かが「アレ、絶対おきてるって」と笑いながらお前に輪ゴムを飛ばしたり、机を蹴ったりした。「どれくらいやれば、お前が抵抗するか」っていう楽しいゲームだ。

 お前はたった一言の「やめろよ」が言えず、たった1発のパンチも蹴りも放てず、寝たふりをし続けた。誰もがお前が起きているのを知っていたし、それをお前も知っていた。

 お前はあの手の連中のちょっとした玩具だった。ハンドスピナーさ。片手間にできるファストな娯楽。

 なぜお前はその立場を受け入れていたのか? なぜ抵抗も反発もせず、連中に蹴りの1発も食らわせなかったのか?

 決まっている。お前自身が自分を「俺は暗くて友達もいない変な奴だから、こんな風にされても仕方ないんだ」って思っていたからだ。お前は屠殺人を恋い慕う豚だったのさ。ブーブー!

 中坊のお前は学園ドラマに出てくる「学校だけが全てじゃない! だから学校の中の価値観だけで自分を縛らないで! もっと広い世界に目を向けて! 今は負け犬でも社会に出れば楽しい毎日が待ってるんだ!」なんて言葉を信じていた。縋っていたと言ってもいいかもな?

 でも、大人になるにつれてお前は思い知る。

 世の中っていうのは、自分が変わらない限りは、永遠に卒業できない無限学期の学校だ。そりゃーそーだろ。だってお前だけが歳をとるんじゃない。お前を虐めていた連中も同じように歳をとるんだ。ずっと、おんなじ学年にいるんだよ。

 寝たふりをして、消しゴムや輪ゴムを投げつけられても気づいてない振りをし続ける休み時間は、場所を変え、面子を変え、時間を変え、姿を変え、それでも永遠に続く。だって、お前は変わらないからな! お前は屈辱と痛みと羞恥にただ黙って耐えることしかできない。お前がお前でいる限り永遠に、お前に救いなんてないんだ。わかってるよな? だからお前は俺に負ける。


 さて、話しを戻そう。道の反対側から少し遅れて4人めの中坊がきた。

 ベルの音と咳払いに振り返ると、先ほどお前の横を通り過ぎて行った3人が自転車の向きを変え道いっぱいに横並びになっていた。ガキどもはお前に「おっさん、ちょっと横に詰めて歩いてくれる? 邪魔なんだよね」と言いたげな目線を送っていた。お前はそうした。中坊相手に目力で負けた。ダッセ。

 全員がスマホを掲げて4人めに向けていた。4人めは間も無く、梅幸の横を通り過ぎようとしていた。

 巨大な猫に背中を舐められたようなぞわりとした感触をお前は味わった。

 何か良くないことが起きるとお前は思った。

 そしてそれは的中した。

 まぁ、良くないことっていうのはお前にとってはって話で、俺としては大歓迎だったがな。

 お前が梅幸の方に顔を向けると、すれ違い樣に4人めがあいつの脇腹あたりを思いっきり蹴っ飛ばすのが見えた。ハッハァ! ナイスシュー!

 梅幸は倒れ、脇腹を抑えながらうずくまった。クリティカルヒットだったんだろうよ。癇癪起こしてギャーギャー喚く間もなかったもんな。あいつが腹を押さえたまま動かないのを見て、俺は本当に胸がスッとしたぜ。倒れているあいつの頭を、骨が砕けるまで踏みつけてやればいいのにって思った。俺が体を動かせたら絶対にそうするのにってな。

 4人めは倒れている梅幸に向かって「キモいんだよ、こじき!」と怒鳴り、自転車を立ち漕ぎしてお前の横を通り抜けようとした。

 背後から笑い声が聞えたな。4人めは絵に描いたようなドヤ顔で、お前の後ろにいる3人を見ていた。お前のことなんか気にもとめていなかっただろう。だからお前に自転車の後輪を蹴り飛ばされ、悲鳴を上げることもできずに自転車ごと倒れるハメになるなんて夢にも思わなかったんだろうよ。

 お前は呻いているそいつの襟首をむんずと掴んで、梅幸のところまでズルズルと引っ張っていった。ただのモブだと思っていたお前がいきなり飛び入り参加してきたことに、中坊たちは頭が追いつかなかったらしく、ただただ呆然としていたな。

 お前は4人めのガキを梅幸の前に突き飛ばし「この人に謝れ!」と怒鳴った。

 梅幸はお前を見てかなり驚いていたな。脇腹を抑えてまだ呻いていたが、その目は「あんた、何でここにいるんだ」って叫んでた。

 お前が一言「心配で」と答えると、梅幸は目を丸くした。人に心配されるなんて相当久しぶりだったんだろうよ。

 3人のガキが自転車で追いかけてきて、大声でお前に自らの行為を弁明し始めた。梅幸みたいな見るからにアレなのはともかく、お前はパッと見は普通の大人に見えたからこその行動だろうな。お前が連中の学校に連絡でもするんじゃないかって焦ったんだろう。

「違うんです! 俺たち、そういうんじゃないんです!」

「そのおっさん、悪い奴なんです! みんな怖がってるんです! だからです!」

「ほら! これ見てください! そのホームレス、頭おかしいんだからっ!」

 ガキの1人はお前にスマホを向け、「おにぎりに村を焼かれたおじさん」の動画を見せてきた。

 お前の顔が険しくなるのを見て、奴らは声変わり前の甲高い声で必死になって弁明を続けた。


 そのホームレスは子供を怖がらせて、女の子にいたずらして、お店のものを壊して、人に殴りかかる危険人物だ! 幼稚園の先生たちを殺そうとしたこともあるんだ! 犯罪歴もある! 自分の親を殴りつけて殺したけど、ガイジだから無罪になったんだ! 一度無罪になったから調子に乗っているんだ! そんな危ない奴、街をうろつかせちゃいけないでしょ! みんな、最初は親切に病院へ戻るように勧めたんだ! それなのにまだ居座るから俺たちは仕方なく、みんなのためにやってるんだ! 蹴られたくないなら、出て行けばいいだけの話じゃないか! それか人様に迷惑をかけないように引きこもっているべきだろう! 良心があったらそうするはずだ! そいつはキチガイであることにあぐらをかいて、俺たちに甘えてるんだ! 税金ドロボウなんだ! 誰の役にも立たないくせにさ! キチガイ特権を乱用しているんだ! ガイジ! トーシツ! マジキチなんだ!


 健全な青少年の心偽らないピュアネスなお言葉に、お前の中でメロスが怒りを爆発させた。お前は、かの邪智暴虐じゃちぼうぎゃくのガキ共を除かねばならぬと決意した。

 お前はガキ共全員の頭を順番にぶん殴って「それがこんなことをしていい理由になると思っているのか! 全部聞きかじりじゃないか! この人に謝れと言っているんだ!」と怒鳴った。人を殴るのは初めてだったな。

 ガキどもはお前の怒りがどうやっても収まらないことを理解したのか、「とっとと謝って適当にずらかろうぜ」って顔をして目配せしあい、心の全くこもってない声で「んしたー」といったな。「どーもすいませ」の「んしたー」だ。

 その舐めた態度にお前の中のメロスの怒りはマイケル・ベイ並みの大爆発を起こした。やっと声がでるようになった梅幸が「おい、あんた。もういいから」と止めるのも聞かずに、お前は大声で怒鳴った。

 お前はハリウッド映画に登場するアメリカ大統領並みの大演説をぶとうとした。政治的に正しくて、説得力があり、人道的で、現代的で、ありとあらゆるマジョリティにもマイノリティにも配慮したリベラルみ溢れる感動的な大演説がお前の頭の中に確かに存在していた。人々の良心を呼び起こし、奮い立たせる長ゼリフ。

 もしもそれが言えていたら、あのガキ共は涙を流して梅幸に詫び、今までの生き方を恥じ、より良い世界を実現するために中東の紛争地域に赴いて地雷を踏んで花火になっただろうよ。お前にとっては最高のエンディングだよな。

 だが残念ながらそうはならなかった。次々と襲いかかった強烈なストレスはお前の口に汚い言葉を吐かせるトリガーになった。


 「マンコー!」

 閑静な住宅街にお前のキチガイじみた叫び声が響いた。

 その叫びは時を完全に停止させた。ハハ。お前、スタンド能力者かなんかだったんだな。ウケるぜ。全員が完全に硬直してたよな。ガキ共も、梅幸も、それにお前自身もな。

 鉄砲水のように吹き出した羞恥心。お前の汗腺はぶっ壊れ、血液は煮立った。足は初めて竹馬に乗った奴のようにガクガクだ。どっからどう見てもお前は普通じゃなかった。それなのにお前はまだ取り繕おうとした。唖然としているガキ共に説教をしようとした。

 でも口から出てくる言葉は──。

「マンコ! マンコ!」

 お前は口を抑え、言葉を止めようとするが、そうはいかない。

「チンコ! マンコ! 死ねっ! 死ねっ! マンコ!」

 お前はコントロールを失った。お前は青ざめ、ガキ共も青ざめる。狂人を見る目でお前を見る。

 ガキの1人が言った。

「やべぇよ、マジキチじゃん」

 お前は立っていることもできなくなり、地面に膝をついた。

 ガキ共は口々に「ガイジが仲間を呼んだんだ」「マジで気持ち悪ぃ」「行こうぜ、こういうガチなの無理」と言って自転車に乗ってどこかに去っていった。去り際にお前のザマを写メるのは忘れなかったな。

「あんた、大丈夫か? おい」

 お前は全然大丈夫じゃなかった。お前は路上に寝転がり、でんでん太鼓みたいに手足を振り回して喚き始めた。汚い言葉を吐きちらすお馴染みの症状とバウンド発作の合わせ技。夢のコラボレーションだ。

 もしも俺がお前の立場だったら、恥ずかしさのあまり死んでいただろうよ。お前、よくショック死しないもんだぜ。お前みたいに生まれた時から恥を引きずって生きてきた奴は、恥に耐性でもできてるのかもしれないな。

 通行人たちがお前と梅幸を見ていた。お前には彼らの嘲笑が空気に溶けて、綿菓子の糸みたいに絡みついてくるように感じられた。だから手足を振り回して、それを追い払おうとしたわけだ。頭おかしいな。

 「大丈夫だ。肩を貸すから立って」と、梅幸は暴れまわるお前を抱え起こした。

 お前は悲鳴をあげ、罵声をあげ、梅幸を突き飛ばして走り出し、転び、地面に頭を叩きつけた。痛みによってお前は恥辱を忘れた。だからお前は土下座のような体勢になり、頭をガンガンとぶつけ始めた。アスファルトにお前の血がこべりついた。お前は考えるのも感じるのもやめたかった。今とは間逆だな。皮肉なもんだぜ。

 梅幸はお前をまた抱え起こし、怒鳴った。

「俺に捕まって立つんだ! 家に帰るぞ! 大丈夫だからな!」

「大丈夫じゃないっ! どうやって生きていけばいいんだ! 俺、こんななのに! こんな風になっちゃうのに! 俺は死んだ方がいいんだっ!」

「黙れ! 死んだ方がいいなんていうな!」

「死にたい、死にたい、死にたい、なんにもまともに出来ない!」

「うるさい! そんな程度で死ぬ奴があるか!」

 悲鳴をあげ、怒鳴り、ぶつかり合い、もつれ合いながらお前たちは帰路についた。

 みんながお前たちを避け、道を開けたな。お前たちは薄気味が悪く、無様で、滑稽だ。いない方がいい。


 来た道を蛇行しながらお前たちは歩いた。お前はちょっとすると地面に倒れて頭をぶつけて自傷に走るので、梅幸は汗だくになりながらお前を支えていた。

 公園を通り過ぎ、あと数メートルで家というところで、梅幸が足を止めた。

 お前は梅幸にしがみついて泣きじゃくっていた。発作はまだ止まらなかった。

「  !」

 だからお前を呼ぶ由夏の声すら、最初は耳に届かなかったんだ。

「  !   でしょ!? ねぇ!」

 梅幸に肘で突かれてお前は顔をあげた。由夏が梅幸の家の前に立ち、お前たちを見ていたな。

「  ! ずっと探してたんだよ! そのおでこの怪我どうしたの!? 腕の包帯は!?」

 彼女はスマホをジーンズのポケットにしまいながら駆けてきた。

 お前はポカンと口を開けたまま由夏を見ていた。見えないハンマーで頭を横殴りにされたみたいな衝撃を受けて、まともに頭が動かなかった。

 どうしてここにいるんだ? とお前は思った。

 由夏はお前の表情を読んで「前にふざけて浮気防止アプリ入れたじゃん。それで  がここにいるってわかったから。ほんと、いれといて良かったよ!」と説明した。お前はスマホを電源を入れたまま押入れに置き忘れてきたことを後悔した。そんなアプリを入れたこともだ。

 お前は彼女との再開を混乱と恐怖で迎えたが、俺は狂喜していた。お前の中で干上がって消滅するのを待つばかりだと思っていたが、由夏が現れた。0だった生存の可能性が0ではなくなった。彼女は俺の逆転の女神だ。

 俺にはわかってたんだ。彼女は俺のために何をすべきかを心得ている女だってな。

「電話もメールもLINEも既読つかないし! 病院に行ったら入院してないって言われるし! 家には全然戻ってこないし! 一体どうしたの? 家にお薬が置きっ放しだったから吃驚したよ! あれ、毎日飲まなきゃいけない大事な薬なんでしょう? 言ってたじゃない。あと何ヶ月かは飲み続けないと発作が起きちゃうって!」

 由夏が肩にかけたバッグを軽く叩いて「安心してね、ちゃんとお薬、持って来たから」と誇らしげに笑った時、梅幸が怒鳴った。

「何を考えてるんだ! 今すぐ捨てろ!」

 由夏は悲鳴をあげ、ただでさえ小さな身を更に縮ませた。彼女の雌鹿の目は潤み、恐怖で破裂しそうになっていた。あんなデカくて身なりの汚い、見るからに心を病んでる奴にあんな剣幕で怒鳴られちゃぁ誰だってそうなるさ。

 お前は由夏を安心させようと「違うんだ、この人は君に怒ってるわけじゃないんだよ」と説明しようとしたが、口から飛び出したのはまたしても卑猥な言葉だった。

「チンコ」

 由夏の顔が悲しみで歪んだ。その傷ついた顔に耐えられず、お前は叫んだ。

「なんで、なんで来ちゃうんだよっ! マンコ! 帰ってくれよっ! チンコ! ちくしょう! マンコ! マンコ! マンコ! ちくしょう、あっちに行ってくれ! 見られたくなかったのに! チンコ! マンコ! マンコ!」

 お前は梅幸にしがみついてワーワー泣き出した。

 由夏はお前のように惨めに泣き喚いたりはしなかった。彼女は涙を引っ込め、梅幸を勇敢に睨み返した。ブラボー。ブラボー。さすが俺の由夏。

 彼女は腹をくくったのさ。突然行方が分からなくなったかと思えば、薬を飲むのを勝手に止めた挙句、明らかに状態が悪化してしまった恋人を、妙な男から取り返すぞってな。愛は偉大なりだ。

「あなたは一体誰なんですか? 彼の友達ですか? 私の婚約者とどういう関係なんですか? 答えてください!」

 梅幸が言い淀んでいるうちに由夏は続けた。最初は落ち着いていた声がどんどんヒステリックに怒鳴るようになっていったな。

「一体、  さんを何に巻き込んでいるんですか! 彼がなったのは、薬を飲んでないからじゃないんですか!? そうですよね!? あなたが  さんに薬をやめろって言ったんですか!? あなたこそ、一体何を考えてるのっ! 悪化しちゃってるのが見て分からないの!? こんな酷い状態、見たことないよ! あなた、私の彼に何をしたの!」

 お前は梅幸のせいじゃないと説明しようとしたが、また口から卑猥な言葉が飛び出すんじゃないかという恐怖が、お前の唇を溶接した。唇の間から蚊の羽音を思わせる音と唾が漏れた。ヴヴヴヴヴヴヴッ、ってな。

「ああ。  。可哀想に」

 彼女はお前の肩を優しく撫でた。

「大丈夫。が本当の  じゃないって、私にはわかってるから。恥ずかしがらないで。病気なんだから仕方ないよ。さぁ、今から病院に行って、お医者様に見てもらおう?」

 愛に満ちたいたわりの言葉が、お前を打ちのめした。お前は悲鳴を上げ、両手で耳をふさぎながら玄関に向かって駆け出した。梅幸と由夏がお前を追いかけてきた。

 お前は靴も脱がずに家に転がり込み、2人の制止を無視して押入れに飛び込んで、引き戸を閉めた。外から開けられないように引き違いの隙間にタオルケットの端を詰め、内側から押さえつけた。

「一体どうしたの!  ! 本当にどうしちゃったの!? ねぇ!   ! 自分がどういう状態なのかわかってないの!?」

 由夏が押入れを叩き、お前は悲鳴をあげる。

「自分でわかるでしょう! 普通じゃないって! そんなんじゃどうしょうもないでしょう! ねぇ! 病院にいって、今からでも薬を飲んでいいか聞きましょう! もしかしたら今からでも遅くないかもしれないでしょう? ちゃんと元どおりになれるかもしれないじゃない! ねぇ、ここを開けて! 自分で自分がおかしいって自覚して! 薬を飲むことは悪いことじゃないの!」

 キャァーッと彼女は悲鳴を上げた。

「離して! 触らないで! あなた、なんなの!」

「そこから離れろ! あんたが喋れば喋るほど事態が悪化していくのがわからないのか! 彼氏が大事なら今はそっとしておくんだ!」

「悪化!? 悪化させたのはあなたでしょう! 本当にあなた何なの!? 誰なの!? 私はただ彼を病院に連れて行くべきだって言ってるだけでしょ! それの何がいけないの!?」

「黙れないのなら出て行ってくれ! ここは俺の家だ!」

「こんな状態の彼をおいていけるわけないじゃない!   ! 出てきて! 一緒に帰るよ! お願いだから、出てきてってば!」

 お前は耳を塞いで「帰れ! もう来るな!」と怒鳴った。


 そこから先は怒鳴り声の応酬だ。誰が誰に対して何を怒鳴っているのかわからない程の混乱が続いた。

 お前の発作はとっくに治っていたが、それを言い出すタイミングは完全に失っていた。

 この地獄みたいな怒鳴りあいは永遠に続くんじゃないかとお前が思い始めた時、ガンガンと玄関を叩く大きな音と「警察です! 開けてください!」という太い声が響いた。

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