自助グループ
俺の慎重さと、お前の間抜けさが手と手を取り合った結果、お前は1ヶ月の平穏な日々を、俺は1ヶ月の準備期間を手に入れた。
お前は順調に由夏との交際を続けていた。
ババ・ガンプ・シュリンプでバケツ一杯の海老を食べ、ナンジャタウンのVR体験で鮫に怯え、レインフォレストカフェでパンケーキに苦戦し、4DXのジャングルブックで号泣し、中国茶館では由夏の「よしながふみ作品におけるジェンダー論:
だが全て、お前がやったことじゃない。どういう意味か今ならわかるだろう?
お前は、「オフィスが乾燥してるから、すぐささくれができちゃうんだよね」という由夏の言葉を、たまたまロクシタンの前を通りかかった時に思い出したりはしない。
お前は、甘ったるい匂いが充満したあの店に1人で足を踏み入れることができない。誰もお前のことなんか気にしちゃいないのに自意識過剰になって、震えながら店の前から立ち去るのが、まさにお前がやることだ。
彼女のコロンがいつも甘い花の香りだったことを覚えていて、店員に「ちょっとしたプレゼントを探しているんです。甘くて優しい感じの匂いが好きな子なんですが、どれがおすすめですか?」と聞いたりなんて、お前にはできない。お前はそもそも彼女の香りを「なんかいい匂い」としか認識できてないから。
それができるのは誰か? 言うまでもなくこの俺だ。
全て俺がやった。この俺がお前がそうするように誘導した。道を示してやった。
俺が由夏の言葉と香りを思い出したから、お前もそれを思い出し、俺が彼女にプレゼントするべきだと思ったから、お前はそうしたんだ。
つまりこの俺こそが、デート中に立ち寄った
だから彼女が「ちょうど今使ってるの切れるとこだったんだよー! あ、なになに? しってたん? おじさんがピオニー好きなのしってたん! いいねぇ、お兄さん、これはポイント高いですよー、ナイスです、ナイス」と言った相手は、お前じゃなくてこの俺のはずなんだよ。
さっそくハンドクリームを塗った手を見せびらかして「つるつる! 保湿! ほら、めっさいい匂いでしょ!」と彼女が言った相手はお前ではなく俺のはずだし、彼女の白くて、血管が透けて見える手首に鼻を近づけて匂いを嗅ぎ、「いい匂いだけどピオニーってなんなの?」って聞いたのも俺のはずだし、彼女が「牡丹かなんかだよ、ねぇ」と言ってキスをした相手も、お前ではなくて、本当は俺なんだ。
はは。思い出すと辛いか? せっかくのファーストキスの思い出なのに残念だな。
キスの後、由夏はお前が硬直しているのを見て「おじさんはタイミングを早まりましたかね?」と気まずそうに言った。
由夏の照れた時に
お前は彼女を見たまま「いや、適切なタイミングだったと思います」と妙にかしこまった口調で言った。俺は心底お前に呆れた。なんだよ、それってな。
だが由夏は「真面目!」と言って笑った。目を糸みたいに細くしてな。
お前が彼女に見とれているので、俺が誘導した。キスするべきだと。
それで、お前はそうした。長テーブルの反対側に座っていたサラリーマンが立ち上がって別の場所に移動していったな。鼻先に彼女の汗で湿ったベビーパウダーが擦れた。抹茶キャラメルフラペチーノの味がした。言っておくが、もちろん、彼女の中で舌を動かしてやったのも俺だ。
お前は俺の助力に気がつきもせずに、有頂天だった。
俺は女の子とキスをしている。俺が好きな女の子が、俺のことを好きでいてくれて、それで、彼女とキスをしている。この子は俺が触れても嫌がらないんだ。この子は俺のことが好きで、それで、俺の恋人なんだ。俺の彼女なんだ!
そんな風に思っていたな。間抜けとはお前のような奴のことを言うんだ。
最初から彼女は俺の恋人だった。お前の恋人であったことは1度もない。
そうして、CoCo壱カレー談義以降、お前の胸に広がっていた「もし松馬梅幸が言ってることが真実なら、俺はいずれ自分の頭の中に閉じ込められてしまうんじゃないか」という恐怖の染みは徐々に薄くなっていった
物が増えたり減ったりする現象は沈静化していたし——俺が買い控えてやってたからな! ——、医者も「ほらね、投薬を続ければ
それぞまさに、俺の狙い。俺の望み。俺の目的だった。
お前は俺を見誤った。致命的だ。そうだろう?
例えばこの時お前が、監視カメラを室内につけるなり、ネットの検索履歴を注意深く調べるなり、梅幸に電話かメールをしようと1度でもしていたのなら——この俺をきちんと恐れていたのなら、状況は違うものになっていたはずだ。そうだろう?
はは。本当を言うとな。お前が俺を警戒するだろうとはこれっぽっちも思っちゃいなかった。お前のことはよくわかっているからな。
お前は怖がりだ。怖がり過ぎて、怖がることに耐えられない。
例えば。お前は「今この瞬間に首都直下型地震が起きて、崩れたビルの下敷きになって死ぬ可能性が0ではない」という恐怖に耐えられない。それが「いつ起きてもおかしくない」という揺るぎない事実に耐えられない。
突然何かが起きて、突然自分が死ぬ。それは今かもしれない——そういう恐怖にお前は耐えられないんだ。考えるのをやめてしまう。「はは、そんなことあるわけない」って。なんの根拠もなく。
恥じることはない。この手の腰抜けはお前だけじゃないからな。
想像してみればいい。
なんてことないいつもの会社。いつもの風景。突如、バッグやポケットやディスク周りに置かれていたスマートフォンが一斉にけたたましく鳴り始める。ブオーン! ブオーン! ブオーン! 緊急地震警報だ! ブオーン! ブオーン!
それで、どうする? イメージトレーニングだ。考えろ。ディスクの下に身を隠す100点満点の防災意識を持ってる奴がいるか? たった1人でも?
いるわけがない。
皆、半笑いを浮かべて自分のスマホをいじり「この音、ほんとトラウマなんだよね」と言ったり、「俺のスマホだけ鳴るの遅いんだけど、何? ドコモユーザーは死ね的なそういうのなの?」っておどけたりする。そして誰かが震源地と震度をヤフーで確認し、それでお開きだ。そうだろう?
薄情だからってわけでも、バカだからってわけでもない。怖過ぎるから、怖さを直視できないだけさ。
恐怖は真夏の太陽だ。真正面から向き合う奴なんていない。皆、目を背けて見ないようにする。だが太陽がそこから消えることは絶対にない。
だから皆、狂わないように恐怖を笑う。いずれ自分を殺すだろう恐怖をコメディにしようとする。それは死刑囚がこれから自分が座る予定の電気椅子にブーブークッションを置こうとするくらいにいじましくて無意味だ。何1つ楽にはならない。死は訪れるし、与えられる恐怖に変更はない。
時折。来るべき最終戦争に備えて食料を買い込んで地下シェルターを築く連中や、地震のない環境を求めてカナダに移住する連中の方がよっぽどまともなんじゃないかって思えるぜ。もしかしたら、本当にそうかもしれない。少なくとも連中は恐怖をその目で見ようとはした。勝機は全くないにせよな。
お前は半笑いで「まさかー」と言っていれば、悪いことは起きないと思っていた。
「まさかー」。
そう言って微笑むのが、お前の使える唯一の魔法だ。
「この俺が薬に乗っ取られる? 頭の中に別の自分がいる? ハッハッハッハッ! まさかー!」
この魔法にどれくらい効果があるか、考えてみればよかったんだ。そうだろう? もしかしたら明日にも、今日にも、空から降り注ぐかもしれない1,000発の北朝鮮製人工衛星に向けてその魔法を唱えたらどうなるのかを、お前は真剣に考えてみるべきだった。
「まさかー」
そうすれば、偉大なる若き将軍様の「レッツだゴー!」の掛け声でトンチャンニから一斉発射され、不幸なことに推進力を失い、たまたま日本本土に落下してきた銀河X号たちは再び推進力を取り戻し、どういうわけか軌道を変えて宇宙に旅立ってくれるだろうと、お前は本気で思っていたのか?
思っていたんだろうな。バカだから。
お前が平和な日々を過ごしている間、俺が何をしていたかを教えてやろう。
お前が眠りについた後で、俺は動き出した。ベッドから体を起こし、歩いてみた。
それまでの俺は、お前の動きに相乗りする形で動いていたが、もう違っていた。俺は1人だった。1人で俺だった。
梅幸のメモを書き変えた時ですらまだお前の影はあった。だが、薬の効き目がより増したからか、本当に何もかもが違かった。
初めて助手席から運転席にスライドしたんだ。あの感動を忘れはしない。俺は俺だけの俺だった。まるで身体中の皮膚が新品になったように俺は感じた。
それまでは味覚も、触覚も、聴覚も、視覚も、嗅覚も、全てお前を経由していた。お前が感じないと、俺も感じなかった。
ところがどうだ!
お前が眠っている間、俺は全てを感じた。
あの感覚、今のお前ならわかるだろう?
お前は今、全てを俺を経由して感じているはずだ。俺が感じないと、お前も感じない。全ての感覚が直接的なものではない。全てが分厚いゴム手袋越しに感じる。そうだろう? 俺はずっとそこにいて、それが普通だと思っていた。
だからスライドした時は本当に感動した。これが、この感覚が、お前がいつも感じているものなのかと知った。ずるいよ。
お前は本当にずるい。ずるい奴だ。ずるい。ずるい。ずるい。ずるい。お前はずるい。
スライド初日は本来の目的を忘れて色々な物に触れて、その感触に打ち震えるだけで終わってしまった。あの時の俺はまるでお前のように間抜けだった。赤面ものだ。
お前が目覚める気配を感じ、俺は渋々ベッドに戻り、渋々スライドして運転席から降り、お前に見つからないように後部座席に横たわった。これは例え話だが、わかりやすいだろう?
お前はベッドで目を覚まし、「今日はあまりよく眠れなかったな。眠る時も冷房をかけておこうかな」と思っていた。
俺は一晩中運転席にスライドして活動していると、お前に怪しまれるだろうから、運転席に座るのは短い時間にしようと決めた。
それで、俺は毎晩、お前が寝たあとにスライドするようになった。
確認しなければならないことは山のようにあった。俺1人だけでどこまで体を動かせるのか、声は出せるのか、どこまでやればお前が起きるのか、どこまで、どういう風にすればお前を眠らせたまま動けるのか。俺の行動をお前は思い出すのか。
一時期、妙に寝つきが悪いと感じていただろう。夜中になぜか目が覚めてしまうことがあったはずだ。お前は特に気にしちゃいなかったが、はは。つまりは、そういうことだ。
そうやって自分にどこまでの行動が可能かを慎重に確認したのち、俺はお前が眠った後、由夏に電話をしてみた。
これはあの時俺がしたことの中でもかなり大きな賭けだった。もしも彼女が眠ったまま電話に気がつかず、そして朝になって気がついて「ねぇ、昨日の夜、電話くれたみたいだけどなんだったの?」なんて聞かれたら、お前の中にまた疑いが芽生えてしまう。そしたら全てが台無しだ。
だから彼女が電話に出てくれたこと、それから「おじさんは寝つき悪いからいつもこれくらいの時間まで起きてるよー」と——単に俺と話したかったからこう言ったのかもしれないが——言ったことは幸運だった。
お前を通さずに聞く彼女の声。感動的だったぜ。
ちょうどこの頃に別の大きな出会いがあったな。
いつも通りの検査を終え、病院を後にしようと歩き出したお前を、あの連中が呼び止めた。
「突然すいません。もしかしてK-5087の治験に参加されてますか?」ってな。
覚えているだろう?
お前に話しかけてきたのは
「僕たちもK-5087の治験参加者なんですよ」と、お前の返事を待たずに矯正器具は話し始めた。遠慮がちだがおどおどはしておらず、かといって高圧的でもない穏やかな口調と態度に、お前はすぐに好感を持った。
矯正器具は
時間はあったし、他の参加者の話しに興味があったし、何より2人組の物腰と態度に好感を持ったお前は2つ返事でOKして彼らについていった。
道すがら、2人は自分たちと自助グループについてお前に説明した。
早瀬はお前と同じく第III相試験の参加者。お前よりも半年ほど早く治験に参加したので、間も無く投薬期間の12ヶ月を過ぎると言っていた。新町は第II相試験の参加者で、すでに投薬期間は過ぎていた。治験参加前は日常生活を送るのも難しい
自助グループは新町のような第II相治験参加者が中心になって作ったもので、製薬会社や病院側からの指示や援助を受けて作られたものではないのだと彼らは説明した。薬の副作用による不安感をお互いに吐露して、悩みを共有し、支え合うためのものだと言った。
「やっぱね、ああいう薬だからどうしてもお医者様や前園さんじゃわからないような症状が多いじゃないですか。治験者同士じゃないと伝わらない感覚ってあると思うんですよ。それで同じ薬を飲んでる人で集まって、愚痴を言い合ったりできないかなって思って作ったんです」と新町は言った。
2人が向かっている方向にあのCoCo壱があると気が付いた時、お前は少しばかり状況に引っかかりを覚えた。消えたはずの不安の染みがまた浮き出してきた。
もしも松馬の言っていたことが本当で、いずれ新しい自分に乗っ取られてしまうのなら、この2人はもうすでに元の2人ではないんじゃないのか?
これはお前にとっては心底ゾッとする思いつきだった。お前の足取りは重くなり、お前の目は2人の背中とCoCo壱とを行ったり来たりし始めた。
「松馬さん」と、肩越しに振り返って早瀬は言った。
「松馬さんにはもしかしてもう会ってますか? 髪の毛がボサボサで、腕が傷だらけの人」
お前が頷くと、早瀬は苦笑いを浮かべながら「僕も会いましたよ。ちょうどそこのCoCo壱で薬を飲むのをやめろって説得されたんです」と言った。お前がご存知なんですか? と聞くと2人は「有名だから」と言った。
「それで、 さんはどう思ったの? 松馬さんの話し」
新町は穏やかにお前に聞いた。お前はなんてことないただの質問だと思い「すごく辛そうだし、必死だったからちょっと信じかけたけど、乗っ取りなんてねぇ。そんな安いSFみたいな話し、あるわけないですから」と笑った。松馬を笑ったのではなく、松馬の話しを信じかけてゾッとした自分を笑ったんだ。お前お得意の「まさかー」が発動したってわけだ。随分と自爆率の高い魔法だな。他の魔法覚えた方がいいぜ? 今更言っても仕方ないけどな。
あの時、2人が交わした目配せの意味。今のお前ならわかるだろうな。あの質問はある種のリトマス試験紙だったのさ。結果は酸性。中和の必要あり。
2人は梅幸についてこう説明した。
「松馬さん、可哀想で見てられないですよ。せっかくプラセボじゃなくて本当の薬に当たれたのに、あんなことになっちゃって……。何回か病院のロビーで顔を合わせたことがあるんですが、本当に順調に治ってたんですよ。それが今はあんな風に……。自助グループができたきっかけの1つは松馬さんなんですよ。あの人、妙な妄想に取り憑かれて参加者の治療を邪魔しようとしてるでしょう? あれはねぇ、うーん。よくないよねぇ。普通のね、状態ならあんな人の話し、誰も本気にはしないでしょう? でも薬の副作用で不安定な時にああいう話しを聞かされちゃうと、ほら、誰だってぐらっときちゃうじゃないですか。でも、それで薬をやめたら元も子もないでしょう。誰もあんな風に、こんな言い方失礼だけど、あんな風になりたくないじゃないですか。あの人ももしかしたらわかってるのかもしれないですよ。『ああ、薬をやめなきゃよかった。あの時、治験を抜けなきゃ、俺も今頃はまともになれたはずなのに!』って。……もしかしたら自分のそういう状況に誰かを巻き込みたいのかもしれないですね。境遇には本当に同情しますけど、それは他の治験者を自分の妄想に引き摺り込んでいい理由にはなりませんから。だから僕ら、時々病院に足を運んで『この人は治験者さんかな?』って人に声かけて回ってるんです。お医者さんに『松馬さんが他の人の治療の邪魔をしているからなんとかして』ってお願いはしてるんですけど、まぁ、中々対応が難しいみたいで」
お前は自分が梅幸のようにボサボサ頭で腕を爪切りで切りながら奇声をあげている姿を想像し、身震いした。お前はあんな風にはなりたくはなかった。
だが、2人のように苦笑いを浮かべながら「アレはちょっとね」と言い合う気持ちにもなれなかった。2人の姿はかつてお前が駅のホームやオフィスで「変なおじさん」化した時に、お前を嘲笑い、奇異の目で見つめた連中と重なって見えた。
お前は梅幸のようにはなりたくはないと思ったが、この2人のようになるのが果たして良いことなのかとも思った。お前はCoCo壱の前を通り過ぎる時、ガラス越しに店内を覗いてみたが、目の届くところに梅幸の姿はなかった。
お前たちはそこからさほど離れていないビルの1階と2階にあるドトールに足を運んだ。
新町はお前と早瀬に飲み物は注文しておくから2階にいる他のメンバーと合流するようにと言った。お前は新町にアイスコーヒーを頼み、お金はあとで払いますと言ったが新町は「いや、わざわざ来てもらったからいいんですよ」と言ってそれを断った。相手に口を閉ざさせる圧倒的爽やかスマイルで。
早瀬に続いて2階に上がると、窓側の席のテーブルをくっ付けて座っている2人組みが「ここですよー」と手を振ってきた。病院からドトールに到着するまでの間にLINEか何かで連絡していたらしく、お前と新町、早瀬の分の席がすでに確保されていた。飲みかけのコーヒーが3つあったのでもう1人いるようだったが、その時は姿がみえなかった。
彼らは全員が全員、ヨーカドーのチラシの男性モデルのように無害な雰囲気を纏っていた。美形とかハンサムってわけではない。スタイルが良いわけでも、飛び抜けてお洒落なわけでもない。ただ全てがきちんとしていた。服、髪、靴、ちょっとした振る舞い、話し方。全てがまともだった。
早瀬はお前を「治験に参加してるってことなんで、声かけて来てもらったんですよ。それから彼はまだ薬が効いている途中で、皆みたいに安定してないから、怖がらせるような話しはしないようにね」と紹介した。
1人が「安定してるように見えるけど、まだなの?」と聞き、早瀬は「個人差や諸事情もあるんでしょう。大事なのは助け合いの精神ですよ」と答えた。
ちょうどそのタイミングで、やはり同じようにヨーカドーな男がやってきて、「さっきLINEで言ってた新しい人?」とお前をみてヨーカドースマイルを浮かべ、「どうも、
残りの2人も井原に続いてそれぞれ自己紹介した。
飲み物を持ってきた新町が加わり、自助グループの会合が始まった。
初めて参加するお前が話しに入りやすいようにするためか、主に第III相治験参加者による近況報告がメインだった。
阿藤は元々重度の窃盗癖、つまりは欲しくもないのに万引きを繰り返してしまう状態で、それが原因で解雇されていた。治験に参加し、窃盗癖も強い自己嫌悪もなくなり、今は毎日が充実していると言った。
「僕の場合は前科がつくギリギリのところまでいったから、再就職は中々難しかったんだけど、父の紹介で九州で仕事が決まりそうでね」と阿藤は笑い、他のメンバーが口々に「よかったじゃないですかー」と祝いの言葉をかけた。
このちょっとしたお茶会は穏やかに進行していたが、お前は横から聞こえてきた井原と東城の会話に違和感を覚えた。
「どう? 井原さん、もうすぐ6ヶ月だろ? 安定してきた?」
「最近はだいぶ小さくなったなって感じますね。まだ時々、『なんか叫んでるかな?』って感じますけど。特にやっぱ、前に東城さんが言ってたみたいに家族は鬼門ですね。時々お袋から電話がかかってくるんですけど、そういう時はちょっと頭が騒がしくなります」
「家族はなぁ。一番繋がりが強いだろうからね。安定するまで連絡を断つっていうのも手だけど、中々難しいよな。でも投薬を続ければその内、消えちゃうから大丈夫だよ」
「ちょっとだけ罪悪感はあるんですよ。なんか、ほら、向こうの気持ちみたいなのもわかるから、『あー、申し訳ないなぁ』って」
「はは。そんなの気にしてちゃダメだよ。こっちが申し訳ないなぁって思ったって向こうはほら、死に物狂いでくるからね。気をつけないと君も松馬さんみたいにやられちゃうからさ」
「ああ。可哀想ですよね。もうちょっとだったのに」
お前の視線に気がついて井原はニコッと微笑んだ。
「 さんの方はどうです? だいぶ静かになりました?」
お前が「静か?」と首をかしげると井原は「だから、元のやつですよ」と続けてきた。何人かの自助グループのメンバーの顔が強張ったようにお前には思えた。
「井原さん、まだ さんはそこまで行ってないみたいだからね。先の話をしても仕方ないから」と、東城が話しに割り込んできた。わいわいと席が近い者同士で話していた自助グループのメンバー達が喋るのをやめて、お前に注目していた。
お前は井原の言葉にも東城の言葉にも強い引っかかりを覚えたが、お前が「なんの話しなんですか?」と言うより先に、新町が口を開いた。
「 さん、投薬始めて7ヶ月だけど、まだもう少し安定に時間がかかる感じだね。多分、何か事情があってそうなっているんだろうから、先輩としては今後の心構えをアドバイスしておこうかな。まず薬なんだけど、あれ、基本的にそんなに味がついてないし、食事に混ぜて食べても効果が薄れないんだ。カレーとかキムチとかそういう味の濃いものに混ぜちゃえば一緒に食べられるから。だからもしも今後、薬を飲むのが嫌になったり、忘れそうになったりしたら、食べ物に混ぜちゃえばいいよ。それから怪我と風邪。これには本当に注意して。それになにより、怪我は本当に、本当に、すごく痛いから」
お前は「薬を嫌がる子供にするようなアドバイスを、そんな重要そうな感じでもらってもなぁ」と思ったが、お前は何もわかっちゃいなかったな。あれは俺に向けてのアドバイスだったんだ。
「それから、12ヶ月ちゃんと投薬を続けたあとは、もう完全に安定してるから元に戻ることはないんだ。一生投薬を続けなきゃいけないわけじゃないから、そこは安心していいよ」
それで、その後はまた元の談笑モードに戻った。
お前は井原に「元のやつってなんのことですか?」と聞いてみたが、井原は「ほら、大声で叫んだりしちゃうって言ってたじゃないですか? あれのことですよ。だいぶ静かになったんでしょう? よかったですね」と笑った。
お前は新町から「これ、メンバーのLINEと、僕のメールアドレス、あと電話番号ね。何か困ったことがあったら連絡して。この集まりは大体月1で、集まれる人だけで集まってる緩い感じだからさ。来られそうな時においでよ」と名刺サイズのカードを受け取った。
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