宣戦布告

※一部暴力的な描写があります。

※一部性行為を示唆する描写があります。

※あらゆる犯罪を推奨するものではありません。


 結局。お前は梅幸にも自助グループの連中にも連絡をとらなかった。

 生活は順調で、何もかもが右肩上がり。お前には助けなんて必要なかったからな。すでに俺が助けてやっていたんだから。

 俺がお前の前にジャジャーンと登場するタイミングをうかがっている間、お前は「最近は勝手に服が増えたり減ったりすることもない。かなり薬の副作用が落ち着いてきたんだな。こうやって改めて見てみると、うん。どの服も俺に似合ってる。部屋も確かに前よりすっきりしてる。きっと俺の潜在意識はセンスがいいんだ」なんて考えるようになっていた。やっと俺のセンスを理解したってわけだ。

 自己嫌悪の発散方法だった深夜のどか食いもやめていたし、俺がやれと思わなくてもジョギングをするようになった。シャワーも毎日浴びたし、ドライヤーで髪を乾かすようになった。歯もちゃんと磨くようになったよな。いい子、いい子。

 お前はほぼ34年もの間、散々放置してきたご自分のお世話を、ようやくご自分の意思でおやりになり始めたわけだ。

 どうして急に? ──決まってるよな。お前はこう思い始めていたからだ。「俺の人生は手遅れじゃない」って。


 もう十分思い知っているだろうが、これはカルディで投げ売りされていそうなヤバい色の輸入チョコレートみたいにファッキンスイートな思い違いだ。

 いうなればその思い違いは雪山で遭難した時に、持っているか持ってないかで生死を分けるレベルの糖分を含んだ蛍光グリーンの板チョコだ。漂流中に乾きに耐えかねて海水を飲むのと同じで、空腹に耐えかねてそいつを食べるのは愚の極み。一口食べれば甘さの影に隠れた異常量のカフェインがお前を覚醒状態に導く。お前は覚醒がもたらした神のごとき万能感に突き動かされるがまま吹雪の中に飛び出して、冬眠し損ねたヒグマに戦いを挑みに行くはめになるのさ。かかってこいやー! 

 ヒグマは獣の言葉で叫ぶだろう。「神は我を救いたもう! 我こそを救いたもう!」。そして神が与えた思わぬ糧ことお前の手足を折り、ゆっくり味わって食べる。柔らかいお前の腹を食い破り、湯気を立てる内臓を屠る。お前の胃を食べた時、チョコレートの味に感動を覚えるだろうな。「おお、神よ! あなたの与えた糧はなんと甘美なことか! おお! 神よ! 神よ! 蜂蜜入りですね、神よ! ヌガーも入ってる! ヌガー!」。

 ハハ。笑えよ。せっかくユーモアのある例え話をしてやっているんだから。

 ついでだ。ユーモアのある例え話を更に例え話で例えよう。俺はウォータースライダーの例えが気に入っている。お前の生き様に相応しいからな。

 お前はウォータースライダーの途中、ちょうどチューブが水平になった部分で動きを止め、しゃがみこんでいただけに過ぎない。ほんの中休みだ。

 そこだけはチューブの上部が透明になっていて、お前には青空が見えた。

 お前は、小便の臭いを塩素で誤魔化した汚水が流れ続けるウォータースライダーのチューブから、外に出られるかもしれないなんて考えていた。

 ただただ落下し続けて死ぬだけの人生に、別の可能性があるんじゃないかとお前は思い始めていた。お前は自分の世界には外があるのだと初めて実感したんだ。

 ハハハ。

 ところでお前は忘れていたようだが、ウォータースライダーには注意点がある。「途中で止まらないでください。後からきた人とぶつかりますよ」だ。


 お前と由夏はデートのためにどこかに出かける回数が減り、お互いの家を行き来するようになっていた。

 最初は口実があった。見逃したダウントンアビーを一緒にみようだとか、防犯グッズの取り付けを手伝って欲しいとか、牡蠣をもらったから一緒に食べようとかな。

 だがそんな口実が必要だったのは最初の1、2回だけで、後は「明日行っていい?」「いいよー」でことは済んだ。お前が彼女の側にいるのに理由はいらなくなり、彼女がお前の側にいるのにも理由はいらなくなり、お互い合鍵を持つようになった。特になんの問題もなく進行するありふれた30代男女のお付き合いだ。

 彼女は東中野ひがしなかのにある3階建てのアパートの3階に住んでいた。1LDKでバストイレは別。部屋は狭く、ドールハウスの1室をそのまま拡大したように安っぽいとお前は思った。すぐに買えて、すぐに捨てられる物で満ちた部屋だ。

 お前が「3階なのにこんなに車の音聞こえるもんなの?」と聞くと、由夏は「んー。一生ここに住むわけじゃないと思うし、別にいいかなって」と笑ったな。

 お前は狭いキッチンで2人分の炒飯を作っている彼女の背中を見ていた。彼女が「一緒に住もうか」という言葉を待っているのにお前は気がついていたが、声には出せなかった。

 お前はあまりにも長い間、他人を自分のテリトリーにいれずに生きてきた。

 お前はお前の王様だった。お前がローでオーダー、お前がキングでスレイブだ。お前は1人で生きていけるように34年かけて自分自身をカスタマイズしてきた。お1人様用の生き方しかお前は知らなかった。

 『絶対になにかでトチる。そして彼女を失望させ、この関係は終わる』──こんな不安がバケツとなってお前に被さり、お前はその中で鼠のように走り回った。わーわー嫌われちゃうわーわー彼女にがっかりされちゃうわーわーどうしようどおうしようわーわー一緒に住んだら嫌われちゃうきっと嫌われちゃうわーわーでも一緒に住むって言わないとやっぱり嫌われちゃう嫌われちゃうわーわー。

 お前は彼女が何を求めているのかわかっているくせに、「彼女のことが本当に好きだから、失望されたくないから同棲に踏み出せないんだ」なんて自分に言い訳していた。腰抜けめ。

 お前は『自分は「まとも」な人間に憧れているんだ』と思い込んでいたが、俺に言わせればそれは勘違いだ。お前は「まとも」な人間になりたかったんじゃない。「まとも」な人間が持っている人生が、日常が、扱いが、欲しかっただけなんだ。

 そうだろう? お前は出走すらしていないレースの金メダルを欲しがっていたんだ。お前にとって由夏はそういう存在だった。「まとも」な人生の象徴。トロフィーワイフ。ニュース番組の左側の席に座っているその筋のマニアくらいしか名前と顔を覚えちゃいない、幾らでも代替えのきく女子アナ。お前にとって由夏はそういう存在でしかなかったんだ。マツコと有吉がいれば、女子アナは誰でもいいだろ。添え物なんだから。

 おい、おい、否定するな。お前は彼女を愛しちゃいなかった。彼女を手に入れられるほどに「まとも」になった自分を愛していただけなんだ。

 お前は酷い男だよ。ああ、全く。女性を人間として見ていない。全ての女の敵。前時代的男根主義に毒されたホモソーシャルでミソジニーなジャップオスの自称弱者男性だ。生きてちゃだめだよ。ゴミなんだから。ハハハハ。まぁ、冗談だ。でも、ゴミなのに代わりはない。

 お前は彼女がお前の部屋のキッチンや、彼女の部屋のキッチンでお前の為に焼きそばや、冷やしうどんや、クリームパスタや、親子丼や、アジフライを作っている間、たった1つの彼女が欲しがっている言葉を言わなかった。

 何にも気がついていないふりをして、彼女の作った料理を食べ、彼女が「ふー、食べましたぞー、ぽんぽんがぱんぱんですわー」とソファーに寝転がりながらお腹を叩いている間に食器を洗った。

 お前は皿を洗っている時、彼女が「旦那さんがいる生活ってこういう感じかねー」と言ったのを「何? なんか言った」と水の音で聞こえなかったふりをした。

 当たり前だが、由夏は気づいていた。お前が聞こえてない振りをしているだけってことにも、びびって踏み出せないでいることにもな。

 由夏が気がついてない振りをしているだけだってことに、お前もまた気がついていた。いつ彼女が気がついてない振りをやめるのか、戦々恐々としていただろう。

 だが彼女はお前の腰抜けさ加減を責めたり、問い詰めたりせず、ピンクパンサーのテーマを口ずさみながら近づいてきて、後ろからお前に抱きついたな。

 それで緊張感は消え、お前は笑い、彼女も笑い、お前は彼女にキスをし、彼女もそれを返した。大抵の場合、お前が「待って、待って。今お皿洗ってるから。割っちゃうから」と言って、シンク下の収納扉の取っ手部分にかけてあるタオルで手をぬぐい、彼女の方を向いてキスを深めるまでそれは続いた。

 彼女を抱きしめるたびに、お前はわずかに震えた。歓喜によるものでも、性欲によるものでもない。恐怖によってだ。

 彼女の肉体はあまりに薄く、軽く、平たい。一体どういう奇跡でもってこんなにか弱い生き物が動いているものかとお前は思う。彼女に触れる時、お前の胸にはいつも畏怖があった。何かの間違いで壊してしまいそうでいつも怖かったんだよな。

 お前は彼女に今まで誰とも付き合ったことがないと打ち明けていた。それに当然、セックスをしたこともないと。それに関しては痛々しい見栄をはるよりは素直でいいんじゃないかと思うが、その理由をまたしても存在しない脳機能障害のせいにしたのはいただけない。お前は会社の同僚たちの輪に入るために34年分の自分を本当の自分ではないのだというふりをしたが、またしても同じことを繰り返した。

 お前は自分が何をしていたのかわかるか? 

 お前は自分でこう言ってたんだ。

「俺は俺の病んだ腫瘍しゅよう。俺は切除され、破棄されるべきだ。俺の新しい人生のために」——なぁ、今ならわかるか? お前のそういった振る舞いを、言動を、思いを、俺がどう感じていたのか? なぁ? 今ならわかるよな?

 俺は思ったよ。

 「やっちゃっていいんだな」ってな。


 それで、あの日。

 皿を洗うお前の耳に、由夏の歌うピンクパンサーのテーマが届いた。

 お前は少し両腕を持ち上げて、由夏が後ろから抱きつきやすいようにした。

 それで、由夏は後ろからお前に抱きついてきた。お前は言った。

「待って、待って。お皿が」

 俺は言った。

「割れちゃうからさ」

 俺は手に持っていた皿を置いて振り返り、洗剤混じりの水で濡れた手で由夏の体を抱いてキスをした。

 俺のファーストキスだ。俺だけの。いつもは俺がもっとこうしろ、もっとああしろってお前の中で思ってからお前の舌は動いたが、もう一々思う必要はなかった。お前を経由する必要はなかった。新しい回線、新しい高速道路、新しい神経回路だ。

 由夏は最初は驚いていて、唇が離れる合間にクスクスと笑っていたが、その内に何も言わず、ただ俺の舌と自分の舌を絡ませることに集中した。洗剤でぬるついた手を彼女の服の下に滑り込ませると、彼女はかすかに震えた。俺と彼女の唇は少し離れ、彼女は「冷たい」と囁いた。俺はその声ごとキスで飲み込んだ。ぬるついた両手で彼女の背中を撫でた。あの肩甲骨の膨らみ。薄い皮膚を持ち上げる背骨。感動的だ。

 俺の掌はスキャナーで彼女のシルエットを全て読み取ろうとしていた。ブラジャーのホックを外し、それから胸に触れた。彼女の乳首、すっかり硬くなってたな。俺は彼女の首筋に鼻を埋めて匂いを吸い込んだ。

 お前も思い出すだろう? あの甘い香り。由夏の香り。俺の恋人の香りだ。

 由夏は言った。それはもう嬉しそうに。もちろん、覚えてるよな? あの糸みたいに細くなった目を。

「おじさんの魅力にとうとう参っちゃいましたか、真面目君」

 俺は笑いながら彼女を連れてベッドに行った。部屋の電気を消すと、ブラインドから差し込む日差しがベッドの上に斜めにストライプを描いた。彼女は「汗臭いからちょっとシャワー浴びたいんだけど」と言ったが、俺は彼女をベッドに座らせた。彼女はベッドに仰向けに転がって、いたずらっぽい目で俺を見た。ずれたブラジャーが彼女のブラウスの布地を妙な風に膨らませていたな。

「これが本性か。今まで草食系ぶってたんだね。いやーおじさん、騙されちゃった」

 俺は彼女に覆い被さり、キスをしながらブラウスのボタンを外していった。

 覚えているよな? 顔や腕や足も白いけど、いつも服で隠れている胴体や胸の白さときたらどうだ。オパールみたいに輝いてたな。乳首は彼女の唇と同じで、少しだけオレンジがかっていた。

 ストライプの日差しの下で、彼女の産毛が輝く。金色のパウダーをまぶしたみたいだった。本当に彼女は綺麗だった。お前もそう思うだろう? 思い返してみろよ。あの時、お前はものすごいパニック状態だったから、生まれて初めてみる生の女の体に興奮している余裕がなかっただろう。

 すごかったよな。あの時のお前。

 悲鳴しかあげてなかった。

 うわーやめろーやめろーなんだこれーなんだーどうして体が勝手に動くんだーうわーやめろーお前は誰なんだーどうして俺の体を動かせるんだーやめろー俺の彼女に触るなーやめろーやめてくれーお願いだー、彼女に触らないでくれー。うわー。誰かー。誰か助けてくれー。由夏ー。由夏ー。逃げろー。こいつは俺じゃない。俺じゃないんだ。君をレイプするつもりなんだ。由夏ー。うわー。

 ってな。

 レイパー呼ばわりは心外だ。現実逃避も大概にするべきだ。

 お前も全てを見て、全てを感じていただろう。彼女は俺を待ち望んでいたのさ。彼女が俺のシャツを脱がし、彼女が自分でベルトを外してジーンズを脱いだ。彼女が俺にゴムを渡し、自分で足を開いたんだ。

 セックスっていうのは気持ちいいもんだな。彼女、興奮してたよな。お前も気がついていただろうが、外を車が通る音がすると声が高くなるんだ。可愛らしい変態具合だよな。俺は気に入ったぜ?

 生々しい話しは嫌いか? じゃぁ、お子様用にレイティングをかけた表現で言ってやろう。舐めて、噛んで、揉んで、吸って、お互いの皮膚が汗で濡れて、こすれ合って、消しゴムカスみたいな垢が太ももに浮いてくるまで、俺と由夏はセックスした。

 お前はずっと悲鳴をあげ続けていた。やめてくれー。やめてくれー。やめてくれー。お願いだー。もうやめてくれー。助けてくれー。

 なぁ、どんな気分だ? 自分の恋人だと思い込んでいた女が俺に喜んで抱かれるのを同じ体の中で感じるっていうのは? 初めての恋人がお前を見つめながら、俺に向かって「すごく気持ちいい」って言うっていうのはさ、どんな気分なんだ? なぁ? セックスの後、彼女は俺の腕に頭を乗せながらこう言ったよな。「やっと本当のあなたに会えた気がする。これからはもっと自分を見せ合おうね」って。

 いい言葉だよな。胸に響いたぜ。お前の悲鳴も心地よかった。

 

 俺はこの日、由夏の家に泊まった。

 由夏が眠る前にまたセックスした。お前はすすり泣いてたな。まるでいたずらしてやろうと両親の部屋のベッドの下に隠れていたら、部屋にやってきた両親がベッドの上でおっぱじめちまって、両耳を塞いで歯を食いしばってるガキみたいだったよ。お前は。

 早く終わってくれってお前が強く強く願うから、俺としてはそれを踏みにじりたくなるんだよ。そして実際に、踏みにじってやった。

 俺は由夏が眠るのを待ってからシャワーを浴びた。

 風呂上がりに、俺は洗面台の鏡に映る俺を見た。

 お前も俺を見ていただろう? 

 俺は鏡に向かって小さく手をあげて、子猫のお腹をゆっくり擽るように指を動かした。俺は微笑んだ。そしてお前に向かって言った。

「ジャジャーン」

 愛想よくしてやったっていうのに、お前は恐怖のあまり気絶した。

 

 次の日。

 俺は由夏と一緒に朝食を食べながら、お前がずっと前に言うべきだったことを言った。

「どこかちょうどいい場所探して一緒に住もうよ。これからお互い休みの日に色々物件を見に行こう」

 由夏は「了解でーす。私、麻布か豊洲がいーなー」なんて軽い調子で言ってたが、その顔には安堵が滲んでいた。ずっと停滞していた恋人関係がやっと前進したぞってな。

 朝食を食べ終え、彼女が洗濯機を回している間に俺は食器を洗った。彼女は俺に後ろから抱きついて「お、今日は随分丁寧に洗ってくれてるね」と言った。

 この時にはお前も気絶から抜け出して、ぼんやりとだが意識がはっきりし始めていたよな。まだ「ああ、まだ夢をみているんだ」と見当違いな現実逃避をしてやがったから、彼女の言葉で目が覚めただろ?

「洗ってくれるのはありがたかったんだけど、いつもちょっと雑だったんだよねー。でも今日はピカピカ。どうしたの? おじさんとスケベができてテンション上がっちゃってるの?」

 俺は笑いながら答えたよな。

「これからは前よりずっと良い俺になるからさ。期待しといてよ」

 彼女は俺の頬にキスをし、「そーだなー。おじさん、食後に美味しい珈琲が飲みたいなー。昨日よりも素敵な彼氏だったら、きっと面倒臭がらずに作ってくれるんだろうなぁー」なんて言った。可愛いよな? もちろん、俺は彼女の仰の通りにしたさ。

 日曜日の柔らかい日差しの差し込むリビングで、まだどこか昨日のセックスの余韻でうっとりしている恋人同士が、エアコンのきいた部屋で熱くて濃い珈琲をお揃いのカップで飲むんだ。素敵だろう? 俺は幸せ、彼女も幸せ、お前だけがわめき続けてた。

 まぁ、せいぜい叫んでりゃいいと俺は思ってたぜ。どうせお前はもう2度と、ハンドルを握れることはないんだからってな。

 

 俺はお前から平穏で素敵な日々を引き継いだ。

 俺は俺の思うがままに行動した。みんなが、俺に好感を抱いた。だって俺はさ、実際に素敵な奴だからな。

「  さん、またちょっと感じ変わったね」

「彼女と同棲するんだって。そのまま結婚までいくんじゃない?」

「もう前がどんなだったか忘れちゃったよ。あの人、いい人だよね。彼女さんが羨ましい」

「  さん、仕事教えてくれる時すごく優しいから、女子社員から地味に人気高いよ」

「なんかあの人、すごい美形とか、すごい良い何かがあるわけじゃないんだけど、とにかく感じがいいよね」

 そんな風に言われたよな。

 上司との関係、同僚との関係、友達との関係、恋人との関係。全てがパーフェクトの更に上だった。

 お前はスンスン、スンスンと泣いてばかりいた。

 最初の頃、お前は俺が寝ている間に俺の体を動かそうとしたり、俺が誰かと話していると『助けてくれー! こいつは俺じゃないんだー!』ってわめき散らしたりしていたが、どれもうまく行かず、日に日に絶望は深まっていたんだよな。このまま消されてしまう、このまま誰にも気がつかれないまま、心が消されてしまうって。

 俺は時々鏡越しにお前に手を振った。

 お前はそのたびに悲鳴をあげ、震え上がった。飾らずに言うが、愉快だったよ。

 

 さて、これは俺に訪れた最初の人生の春だったわけだ。

 俺は少々油断をしていた。何せ俺が警戒していたのはお前だけだったからな。お前さえ閉じ込めることができれば、それで解決だと思ってた。

 これは俺の落ち度だ。俺は視野が狭くなってた。反省している。

 

 お前を閉じ込めてから2週間後に、俺は薬の効果を確かめるために病院に足を運んだ。

 いつも通りの検査、いつも通りの医者とのおしゃべりタイム。

 お前は俺の中で祈っていた。

 「お医者様、どうか気がついてください。こいつは俺じゃないんです。お願いです。俺の脳波を、血液を、尿を、全て調べて異常を見つけてください。俺を助けてください」

 医者は笑顔で言ったな。

「副作用のきつい時期を超えましたね。どの数値も異常なし。非常に良好です。素晴らしい」

 お前はまたワンワン泣いた。

 俺は俺の中でお前の掲げる希望が1つ、また1つと潰れていくのを感じていた。

 医者に会えばきっと異常に気がついてもらえるはずだという希望は、お前が掲げている希望の中でもとりわけ大きかったな。それがあえなく潰えた時のお前の悲鳴。とてもスイートだったぜ。

 俺は上機嫌で病院から出て行こうとしていた。

 この時もう少し地に足がついた気持ちでいれば、つけられているのに気がつけていただろうにな。ほんと、反省しているんだ。

 病院の玄関口に差し掛かったところで、俺は帰る前にトイレに寄って行こうと思って、足をそっちに向けた。

 広くて、清潔で、壁もドアも天井もクリーム色で、どことなく消毒液に匂いが漂う病院の男子トイレには誰もいなかった。片側の壁には小便器が5つ並び、その奥に個室が3つ続いて並んでいた。

 俺が一番個室に近い小便器の前でジッパーを下ろそうとした時、誰かがトイレのドアを開けて中に入ってきた。大して気にも留めなかったな。普通そうだろ? まぁ、お前に「普通」について聞いたところで大して参考にはならないだろうけどな。

 ん? と思ったのは足音が一直線に俺に向かってきた時だ。

 俺はおろしかけていたジッパーから手を離し、振り返った。

 夏の影のように長細い男が俺に向かって何かを突き出すのが見えた。俺はとっさに両手を顔の前で組んだ。組んだ腕の隙間から男の顔と、男が突き出したものが見えた。

 松馬梅幸だった。あいつが握りしめ、俺に向かって突き出していたのはフルーツナイフだ。

 避けようとしたが適わなかった。フルーツナイフは俺の右腕に深く突き刺さった。

 強烈な痛み。目の前が真っ白になり、思考が吹き飛んだ。

 痛みは凄まじかった。

 今も傷は残っているし、時々ひどく痛んで意識が飛びかける。これからも残り続けるだろう。何せ完全に貫通していたんだからな。

 俺は悲鳴をあげてそこから逃げ出そうとした。

 だが、できなかった。

 俺は個室の壁に背中をもたれさせたまま、ずるずると腰を落とし、トイレの床に座り込んだ。

 痛くて痛くて、本当に痛くてたまらず、俺の心は悲鳴をあげていたが、俺の唇は震えるばかりで声がでなかった。

 そればかりか、俺が思ってもいないことを俺の口は言った。

「俺を殺すの?」

 お前は口を抑え、「声が出た」と呟いた。

「やっぱり、閉じ込められていたんだな。絶対にそうだと思った」と松馬は言った。

 松馬は額に浮きだした汗をタイダイ柄の長シャツの袖で拭いながら「刺したことは謝らない。あんたを殺そうとも思ってない。あんたを助けたかったんだ」と続けた。

「助ける?」とお前が聞くと、松馬は「助かっただろう? 違うか?」と聞き返してきた。

 お前は自分の体を見つめ、手や顔を動かし、自分の体が自分の思い通りに動くのを確認した。それはつまり、俺が俺の思い通りに体が動かないことを確認していたのと同じだ。

 お前は震えながら「ああ、ああぁ、動く。本当に。ああ、俺の体。俺に戻ってきた。助かった、助かったんだ」と呟き。それから泣き始めた。

「俺、俺、怖かっ、怖かった、俺の中に誰かいるんだ、そいつが俺を俺の体から追い出そうとしたんだ。酷かった、悪夢の世界にずっといたんだ、ああ、ちくしょう、由夏になんてことを、ああ」

「抜くぞ」と梅幸は言い、お前の腕に刺さったままだったナイフを抜き取った。痛みの凄まじさにまたしても俺の意識は消えかけた。お前も「痛い痛い」って泣いてたよな。

「今のあんたは、あんただな? 間違いないな?」と梅幸はお前に聞いた。

 お前は「俺です、俺は俺です」と答え、四つん這いになって梅幸に近づき、あいつのボロボロのジーンズに抱きついて泣いた。

「怖かっ、怖かった、怖かった、もうダメかと思った。ありがとうございます、ありがとう、助けてくれてありがとう、本当にっ、本当にありがとう」

 梅幸はお前の腕を振りほどき、それからお前と目線を合わせるようにしてしゃがんだ。しゃがんでもまだ少しお前より目線が高かったな。

 あいつはお前の目をじっと覗き込んだ。


「貴様がそこにいるのはわかってる」

 あいつは俺に向かってそう言った。

 そうさ。お前の目を通して俺が見ているのをあいつは知っていたんだ。

「貴様はずっと前からそこにいるはずだ。いないふりをして、盗み聞き、盗み見をしていたんだろう。CoCo壱で話しをした時も、貴様はそこにいたはずだ。あの時、俺は言ったよな? 『俺はバカじゃない』って。貴様が盗み聞きしてるのに、わざわざ薬の弱点を話すわけないだろう。頭痛薬のおかげで俺が助かったってのは嘘だ。貴様らの弱点はな、これなんだ」

 梅幸はお前の口を素早く塞ぐと、腕の傷に指を突っ込んできやがった。お前の悲鳴は梅幸の手の中で抑えられた。俺はお前の中で絶叫した。

「貴様らは、痛みに耐えられないんだ」

 梅幸はお前が叫ばないのを確認してからお前の口を塞ぐのをやめ、ぐっと顔を近づけてきた。

 あいつは確かに、間違いなく、俺を見て言った。

「思ってたよりずっとバカだな」

 

 この時、俺の心は決まったんだ。こいつを絶対になぶり殺しにしてやるってな。

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