元々お前のものじゃない

 お前はあいつに連れられ、病院から1、2分ほど歩いたところにあるCoCo壱に足を運んだ。

 住宅地とビジネス街の中間地点にあるからか、昼には遅すぎ、夜には早すぎる時間帯だというのに座席の半分は埋まっていた。

 お前たちは鰻網うなぎあみみたいに細長い店内を進み、一番奥のテーブル席に腰を下ろした。

 あいつはまだ椅子に腰が落ちてもいない内に呼び出しボタンを押した。

 お前に「何か食べるか?」と尋ねたり、メニューを見せたりもせずにだ。

 お前は「なんだ、こいつ」と思った。俺もそうだ。普通は聞くだろ。何か食べますか? 飲みますか? って。そういう必要最低限の気遣いができない奴を相手にするのかと思うと、ちょっと嫌な予感がしたよな。

 あいつは早々にやってきた店員に具なしのカレーを注文した。お前はとりあえずアイスコーヒーを頼んだ。飲みたかったわけではないが、何も頼まないのも座りが悪いからな。あいつが貧乏ゆすりをしているのに気がつき、お前の中の嫌な予感は増していった。

 カレーを待っている間に、あいつは改めて自己紹介をした。

 名前は松馬梅幸ばいこう。珍しい名前だが本名だった。歌舞伎役者にちなんだ名前だそうだ。どうでもいいが。

 動画サイトのプログラマーだったが、数年前に心身を壊して入院。

 お前と同じく入院中に医者から治験を勧められ、参加を決めた。

 だが7ヶ月程投薬を続けたところで、本人曰く身の危険を感じ、治験の参加を取りやめた。以降は投薬治療を全て拒否し、カウンセリングのために通院を続けていると言った。

「カウンセリングのためというのは表向きの理由だがな。通院を続けている本当の理由は、怪しまれずに病院の中を歩き回れるからだ。病院に行けばこうして、あんたみたいにあの病院で治験に参加してる奴を見つけられる。俺はあのクソみたいな薬から1人でも多くの人を助けたいんだ。放っておいたら被害者が増える」

 ははぁ! 全く! ご立派なことで!


 お前がのたうちまわっているのがわかるぞ。

 俺がこうしてあいつを思い出すと、お前もあいつを思い出す。

 お前の思い出しているあいつはどんな顔をしてる? 母親の側で安心しきっている子供みたいなあの時の顔か? それとも潰れた顔面から血を流し、床を這い回っていたあの時の顔か? それとも、水と血で濡れたあの時の顔か?

 後悔でいっぱいのようだな。良心が耐えきれないか? 罪悪感を覚えるか? 

 じゃぁ、よりはっきりと細部に至るまで思い出してやろう。

 お前は楽しくないだろうが、俺は楽しいんだ。楽しむ心は大事だろ? それが人間ってものだし、それが人生ってものだ。お前にはどちらも関係なくなったがな。


 「性格を変える画期的な新薬で、深刻な副作用もないから試してみろって言われたんだ!」

 あいつは口の中の毒を吐き出すように言った。

「製薬会社のクソ野郎は、誰か1人でも深刻な副作用が出たら治験は中止すると言っていた。俺を見ろ! 深刻だよなぁ!?」

 あいつは左の袖を肘までめくり上げ、レの字だらけの腕を見せた。まだカサブタすらできてない真新しいレもあった。お前は思わず顔を背けた。

「ところがだ! まだ治験は続いてやがる! これは深刻な副作用ではないし、俺がこうなったのは新薬のせいじゃなくて、頭痛薬を飲んだせいだってよ! 治験はもう第III相治験! 認可目前じゃねぇか! ふざけてる! あんな薬は絶対に世に出しちゃいけないんだ! クソがっ! クソッ! クソがっ!」

 あいつはそう言いながらポケットをゴソゴソやって爪切りを取り出すと、それを左腕に押し付けて腕の肉を切り始めた。パチン、パチン。今思い出してもうぇえーだな。

 お前は青ざめて「やめてくれませんか」と懇願した。

 あいつはお前を睨み「あんたが見なきゃ済む話じゃねぇのか! やめられるもんならとっくにやめてんだよ! こんなこと、俺が好きでやってると思うのか!」と怒鳴った。

 店中の視線がお前たちに集中し、店内は波を打ったように静かになった。

 誰かが小さな声で「なにあれ、ヤクザ?」と呟くのが耳に届いた。

 お前はこの男についてきてしまったことを後悔し始めていた。

 あいつは床が割れるんじゃないかってくらい激しく貧乏ゆすりをし、それから「クソッ! 怒鳴ったりして悪かったよ! やめるよ! やめりゃぁいいんだろうが!」と怒鳴ったことを怒鳴りながら詫びた。謝る態度じゃねぇよな。

 あいつは血で汚れた爪切りをポケットにねじ込み、左腕の袖を元の位置に戻した。タイダイ柄に血が染みていったな。

 お前のあいつに対する警戒心は跳ね上がっていた。

 言動が不安定なのは最初に会った時からわかっていたが、こうも攻撃的な不安定さだとは思ってなかったからな。タクシーを殴ったり、怒鳴ったりしていたのは必死だったからだろうと思っていた。

 とーんでもござーせん。

 必死だろうとそうじゃなかろうと、あいつは怒鳴って物に当たる奴だったのさ。危険だよな。自傷癖があって突然怒りだす、自分より頭2つでかい男なんてのはさ。

 お前はそわそわし始めた。傍目はためにも「急用を思い出したんでこれで失礼しますー。それじゃあまた機会があればー」と言うタイミングを計っているのがバレバレだったんだろうよ。

 あいつは更に顔を真っ赤にして怒鳴った。怒鳴らないって言ったそばからな。

「わざとじゃないって言ってるだろ! 逃げようとしてんじゃ——クソッ! クソッ! なんだよ、クソッ!」

 あいつは大きく肩を上下させながら呼吸した。時々口の中で風船が割れるように「クソが!」だの「ボケが!」だの大声を出したっけな。

 貧乏ゆすりは道路工事のドリルのごとくだ。何人かが怒鳴り声に耐えかねて店から出て行った。

 お前も彼らに続いて席を立つべきがどうか悩んでいると、あいつは体内の怒り全てを吐き出すような長く強い息を吐いた。まるでハルクになるのをえるブルース・バナーだ。

 あいつは内なるハルクを押さえつけながら、震える声で「俺が入院したのはこれが原因なんだ」と告げた。

癇癪かんしゃく持ちなんだ。ガキの頃からずっと。大人になれば落ち着くだろうって俺も親も周りも思ってたけど、40近いのにこのザマだ! ちっともよくならない!」

 あいつはまた大声を出し、そしてそれを恥じ入るように唸った。

 お前はあいつの顔がタバスコで洗顔したみたいに赤いのは、怒りで興奮しているからではなく、こうして怒鳴ってしまう自分を恥じているからではないかと思った。そしてそれはあいつの目に溜まった涙を見て確信に変わった。

 この人は俺とおんなじだ。自分が恥ずかしいんだ——お前はそう思った。

 幾筋もの涙が頬からヒゲの中へ吸い込まれて行くのを目にして、お前の中のあいつへの感情がオセロみたいに嫌悪感から憐憫へとひっくり返った。

「本当はこんな風に怒りたくない。全然怒ってない時でも怒ってるような口調になって、怒鳴っちまうんだ! 自分じゃどうにもならない。帰らないでくれ! 頼むから! 大事な話しがあるんだ!」

 あいつは懇願した。

 お前は持ち上げかけていた体を戻し「わかりました」と言った。それで安心したのか、あいつの貧乏ゆすりはやっとおさまった。

 お前が自分も薬を飲むまでは言いたくない言葉を叫んでしまうことがあったと言うと、あいつは「知ってる。看護師にマンコだのチンコだの叫んでたのを見たから」と応え、お前は恥ずかしくなった。

 だから話を前に進めようと、なぜ自分が好きでこんな格好をしてるんじゃないとわかったのか? と聞いた。お前さ、大概失礼だぞ。俺の見立てにケチつけるなんてな。「こんな格好」だなんてよく言えたもんだ。

 まぁ、続けてしたもう1つの質問は悪くなかった。

「これから何が起きるんですか?」——それには俺も大いに興味があった。

 だから俺も大人しくあいつの話しを聞くことにしたんだ。


 「まず、今あんたに何が起きてるか、その話しをする」とあいつは言った。

「あの薬を飲み始めると別人みたいに身だしなみが変わるんだ。髪型、服装、歩き方、体型、顔つき、喋り方。丸ごと全部だ。個人差はあるが、大体投薬開始から半年くらい。半年過ぎて急に変わるんじゃなくて、ずっと前から徐々に変化していたのが目に見えるようになるのにそれくらいかかるってことだ。思い返してみろ。だいぶ前から生活習慣があんたの意識の外で勝手に変わってるはずだ。早起きして運動してたり、ジャンクフードを食べなくなったりしているはずなんだ。今日、病院から出てきたあんたを見て、薬がだいぶ進行してきたってわかった。最初に見かけた時とは大違いだったからな。もう自覚はあるんじゃないか? 何か変だ、こんな格好をしたいと思ったことはないぞ? って」

 お前が頷いたタイミングで店員がカレーを持ってきて、あいつの前に置いた。

「俺もそうだった。でも医者にもカウンセラーにもこの深刻さは理解してもらえないだろう。『最近の俺はすごくオシャレなんだけど、俺はオシャレになりたいと思ってないんです』なんてな。バカだと思われる!」

 あいつは米の真ん中からちょっと左にずれたところをスプーンでほじり、皿の底が見えるように穴を作った。スプーンの頭くらいの大きさの穴だったな。

 あいつはほじった米を口に運びはしたが、それでスプーンを置いてしまった。CoCo壱、CoCo壱連呼していた割に、カレーが食べたかったわけでもカレーが好きそうにも見えなかった。

「生活そのものに不満はないはずだ。投薬前より確実によくなってる。そうだろう? 俺もそうだった! いつ爆発するかわからなかった俺の癇癪は魔法みたいに消え失せた。幸せだったよ。普通の生活、普通の人生、普通の人、そこにようやく入れたんだから。あんたもそうだろう? だから鏡の中の自分自身が自分だと思えなくなっているのに気がついていても見て見ぬ振りをし続けたんだ。それはな、自我の自殺なんだぞ!」

 あいつは大声をあげてテーブルを叩いた。怖がる必要はなかったが、それでもお前は恐怖を覚えた。慣れるのに時間が必要だとお前は思った。

 あいつはスマートフォンを取り出し、何度かスワイプしたりタップしたりした後でお前に画面を見せた。

 20代から30代くらいの男女数人の集合写真が表示されていた。

 秋で、紅葉で、森の中。全員が笑顔。

 あいつは写真の真ん中にいる男を指差して「薬を飲んでた頃の俺だ。周りは俺の元友達。今は誰とも連絡とってない……本当は俺の友達じゃなかったからな」と言った。

 写真の中のあいつは全くの別人だったな。清潔、誠実、人畜無害。アリエールのCMで白いシーツの波間から顔を出しそうな男だった。

「こっちの方がマシだってんだろ」とあいつは言った。お前はしどろもどろになった。図星だったからな。

「これは俺だけど、俺じゃないんだ」

 あいつはカレー皿を回転させ、お前の方に米がくるようにした。

「いいか、このカレーライス全体があんたの脳みそだとしよう。そしてこのルーは外側からの刺激を受け取る部分だ。何かを聞いたり、見たり、触れたり、食べたり、そういうものは全部刺激なんだ。治験の説明の時に、生存戦略がどうこうって話をされたか? されたよな? あいつらのお気に入りの例え話なんだ。他の連中にも同じ話をしてる。『見知らぬ人と出会った時どうする?』っていう話もしたな。あれにあんたはどう答えた?」

 お前が「無視するだろうと」と答えると、あいつはスプーンでほじくり開けた穴からルー部分に向かって、割り箸1本分くらいの幅の溝を作り、カレー皿を傾けた。

「あんたは見知らぬ人と遭遇し、脳は刺激を感じ、それがここに流れ込む」

 米の間にできた溝をルーが流れ、穴に溜まっていった。あいつはスプーンの先でルーでいっぱいになった穴を突いた。

「今まで白い皿の上の白い米の白い穴だった部分が、刺激を受けてはっきりする。『知らない人だ。嫌だな。無視しよう』っていう気持ちが、このルーで満ちた穴だ。皿だけでも、ルーだけでも、米だけでもない。全てが揃って初めて出来上がるこのルーの穴が心、性格、生存戦略なんだ。刺激によって、あんたという生存戦略はここに姿を表す。刺激による反応、それがあんたなんだ。あんた、ダイラタンシーってわかるか?」

 お前は顔を横に振る。

「水に片栗粉やコーンスターチを一定の割合で混ぜると、触る分にはただのさらさらした液体だが、叩いたりして衝撃を与えるとその瞬間だけ固形化するようになるんだ。衝撃で液体の中の片栗粉やコーンスターチの粒の密度がグッと高くなるから起きる現象だ。見た方が早いな」

 あいつはまたスマートフォンをいじり、YouTubeを開いて幾つかの動画をお前に見せた。

 例えばこんな動画。

 透明ビニールを巻かれて、仰向けに置かれたスピーカーの上に真っ赤な液体が溜まっている。やや粘ついた感じのその液体は、スピーカーから音が流れ出すと、音に合わせて震えだし、意志を持ったように動き始めた。

 例えばこんな動画。

 外国のテレビ番組のワンシーン。コーンスターチを大量に流し込んだプールの上を、恐らくは短距離走か何かのアスリートだろう締まった体つきの女性が走っている。カメラがズームになり、彼女の足が水を叩く瞬間がスローモーションで画面にうつる。彼女の足が水面に触れた瞬間、水が固まり、彼女の足を跳ね返しているのが見える。彼女はプールの半分くらいまで水上を走ったが、途中で力尽きて水に沈んでしまった。

「人間の心はこれに似てる。ドーナツがなければドーナツの穴がないように、ルーがなければルーでできた穴がないように、衝撃がなければ心は存在できない。俺たちは心とか魂とかいうものはそれ単独で存在できるものだと思いがちだ。心が体から離れるとか、魂が天に昇るとか言うじゃないか。まるで単独で存在できる、独立したものみたいに。でも心は単独では存在できないんだ。心や魂と呼ばれるものは、外部から刺激を受けている間だけ、輪郭ができるものなんだよ。刺激を受け続けているから心は形になる。踊る片栗粉入りの水。それがあんたなんだ」

 あいつはまたカレー皿を回転させて自分の方に米がある側を向けると、また米をほじって穴を開けた。そして穴とルーとを繋ぐ溝を作り、お前に向けた。

「あの薬はストレスの感じ方を変える。あんたは見知らぬ人を無視するが、これは」とあいつはスプーンの先で新しく作った穴を突いた。

「『こんにちはー』と挨拶する穴だ。薬が作った新しい穴。新しい溝」

 あいつはカレー皿を傾ける。新しく出来た穴にルーが流れ込んだ。

「新しい刺激への反応。それがあんたの頭の中に出来たんだ。わかるか? 刺激を受け続けて形になるものが、新しく出来た。つまり、あんたの頭の中に別の心が、魂が出来上がったってことなんだ。あんたと同じ記憶を持ち、自分をあんただと思ってる、あんたじゃないあんたが頭ん中にいるんだよ。そいつがあんたの髪を整え、服を選び、話し方を変え、あんたのものを捨てているんだ」

 お前はあいつの言うことをあまりに突飛で現実味がない、まるでSFかB級ホラーみたいな話だと思った。にわかには信じられないし、にわかじゃなくても信じられない。お前は確かに自分の状況に不安と恐怖を覚えて、誰かに自分の置かれている状況を説明して欲しいと思っていたが、あいつの説明はお前が聞きたかっていたものとはかけ離れすぎていた。

 一方で俺はあいつの話に聞き入っていた。

 あの頃の俺はまだ自分が何者なのかよくわかっていなかった。気がついたら俺はいて、お前を感じていた。お前の記憶は俺の記憶で、お前の感情や思考の流れを俺は感じていた。

 日に日に何か、自分が変わっているように感じてはいたが、それがなんなのかは掴めていなかった。あいつの話を聞くまではだ。

 あいつの話を聞いて、暗闇に覆われていた俺の世界に光がさした。

 俺は自分がどうしてここにいるのか、全てを理解したんだ。俺は俺の輪郭を知った。不明瞭だった俺とお前にはっきりとした区切りが出来たのを俺は感じた。きっと、闇遊戯が自分が武藤遊戯ではないと気がついた時も、俺と同じ光をみたはずだぜ。そう思うね。

 お前は「この人、ちょっとおかしいな。薬をやめたせいなんだろうけど、妄想が酷くなってる。なんとか適当に理由をつけて帰ろう」と思っていたが、どういうわけかその場から立ち去れはしなかったな。なんでか、今ならわかるだろう。

 この俺があいつの話を聞きたかったからだ。


 「薬はこの新しい穴に刺激が行くようにする」 

 あいつは新しく作った穴に続く溝をスプーンでほじって広げた。

「何か新しい刺激が与えられるたびに、ルーは新しい方に誘導される。誘導されると更にこの溝は広がって行く。新しいあんたの心はどんどん硬くなる。はっきりしてくる。ダイラタンシーだ。新しいあんたの心はスピーカーの上で飛び跳ね、プールの水面を走る。一方で、あんたの心はどうなるか?」

 あいつはスプーンの先で最初に作った穴とルーとを繋ぐ溝を弄って、埋めてしまった。

「あんたに繋がる刺激の道は、使わないから埋められてしまう。あんたは閉じ込められるんだ。自分の体の中で助手席に座るはめになる。新しい自分が動き回るのを、ただ何も出来ずに見つめるだけの存在になるんだ。それだけじゃない。刺激が与えられない状態が続くと、あんたそのものが消えるんだ。あんたは自分の心の形を保てなくなる。鳴らないスピーカーの上の液体になり、やがて水分が蒸発して、ただの粉になる。あんたは踊れなくなる」

 あいつは最初に出来た穴に米を被せた。

「俺は、限りなくこれに近い状態にまで追い込まれた」とあいつは言った。

「ある日突然、自分じゃない自分が勝手に動き出したんだ。俺が憧れていた普通の生活をそいつが送り始めた。そいつが何かを食べたり、何かを感じたり、何かを考えたりすると、それを俺も全て感じた。あいつが生活を楽しんでいること、人生を素晴らしいと感じていること、俺のことを『二度とあんなみじめな病気野郎には戻らない』と思っていること、全部感じた。恐ろしいなんてもんじゃない。俺の感情は消えて、別の俺の感情に上書きされていくんだ。俺は俺として考えたり、感じたりしなくなり、やがて俺は別の俺と同じように考え、感じるようになり始めていた。吸収され始めた。……俺が助かったのは、本当にたまたまなんだ」

 俺はなぜ助かったのかを聞きたいと思い、お前もそう思った。だからお前はあいつに聞いた。

「どうやって助かったんですか?」

「俺は偏頭痛持ちなんだ。そう頻繁じゃないが、半年に1回か、1年に1回、とても立っていられない程の頭痛に襲われて倒れることがある。最高のタイミングで偏頭痛が起きた。新しい俺は頭痛薬を飲み込んで、それで消えたんだ。魔法みたいに!」

「頭痛薬なんかで? どうして?」

 お前は拍子抜けした声を出した。

「俺が知るか! とにかく効いたんだよ! だから俺はここにいるんだ!」

 あいつはまた怒鳴った。そして怒鳴ったことを恥じ入るように「クソッ、チクショウ」と呻きながらおしぼりで顔を拭いた。


 あいつは大嘘をついていやがったわけだが、この時の俺は「頭痛薬には脳に働きかけて苦痛を感じなくするものもあるっていうからな。何かしらが作用して、新しいこいつに刺激がいかなくなったんだろう」と納得した。

 全く。してやられたぜ。


 「俺の言っていることに現実味がないのはわかってる。それに、俺はバカじゃない。あんたに俺がどう見えるか、世間から見て俺がどういう人間なのかくらいわかってる。『おかしな妄想に取り憑かれた自傷癖のある病人』だ。否定はしない。でも、俺はあんたの感じている恐怖を唯一理解できる人間で、あんたが怯えているのを唯一笑わない人間なんだ。だから頼むから、これ以上進行しないうちに治験を中止しろ。本当に恐ろしいことになるぞ」

 お前がどう答えたらいいものか悩んでいる間に、あいつはお前に連絡先を交換したいからスマホを出せと命じた。

 お前が「スマホは持ってないんだ」と、まだ素直に「お前にアドレス教えたくないんだけど」と言った方がマシな嘘を吐くと、あいつは大声で「もってねぇわけねぇだろう!」と怒鳴り、また顔を真っ赤にして恥じ入った。

 あいつはテーブルに置かれていた店内アンケート用紙を手にとると、アンケート記入用の鉛筆で自分の電話番号とメールアドレスを書いてお前に渡した。

「いいか、少しでも変なことが起きたらすぐに連絡してくれ。それから、治験をやめるって真剣に考えてみてくれ。あんたは俺の話を信じていないんじゃなくて、信じるのが怖いだけなんだ。本当はわかってるはずだ。とてもよくないことが起きようとしているし、すでに起きているんだって。なぁ、どんなに今の生活が充実していて、幸せに思えていたとしても、それはあんたの人生じゃないんだ。あんたの人生にしてはいけないんだよ」


 あいつはお前の分の料金を支払ってCoCo壱から出ていった。

 お前はあいつが結局手をつけなかったカレーを見つめながら、もしかしたらあいつは今まで何度も治験を受けている相手にこうしてカレーを例にして治験をやめろと言っているのかもしれないと思った。

 お前はコーヒーを飲み終えると店から出て、家に帰った。

 お前は薬箱を開いて、そこに頭痛薬があるのを確認した。

 お前は仕事のこと、同僚たちのこと、それから由夏のことを考えた。

 お前の心はメトロノームの針みたいに大きく揺れていた。

 お前は自分の変化に怯えてはいたが、新しい生活は気に入っていた。

 俺は「もしも万が一、梅幸が言っていたようなことが起こり始めたら、乗っ取られる前に頭痛薬を飲むか、病院に駆け込むかすればいい。それでなんとかなる」と思った。だからお前もそう思った。

 お前は素直ないい子だよ!

 

 お前は眠り、そして俺は起きた。

 寝ぼけたお前を動かした時と同じように、しかしその時よりもずっと慎重に、俺はお前を動かした。お前は夢遊病者で、俺はお前の操り師だった。変な感覚だったぜ。二人羽織でお前を動かしてるような感じだ。

 俺はお前の寝ぼけた肉体を動かし、梅幸から受け取ったアンケート用紙を取り出した。そして、梅幸のメールアドレスと電話番号をデタラメなものに書き換えた。鉛筆で書いてあってよかったぜ。

 それから頭痛薬を開けて、中に入っていた錠剤を似たような形態のビタミン剤に入れ替えておいた。お前は幸い頭痛なんてほとんど起こさないから、多少の形の違いには気がつかないだろうと思ったしな。

 本当は風呂に入りたかったが、お前に妙な疑念を抱かせたくなかったので、それは我慢した。

 それで、俺はベッドに戻り、眠った。

 もしかしてバレるんじゃないかとヒヤヒヤしたが、お前は何も気がつかなかった。

 何も異変を感じないのなら、お前は「これはなんだっけ?」と思い出そうとしない。思い出さなければ、お前は自分が夜中に起きて文字を書き換えたことにも気がつかないはずだ。いい抜け道を見つけたと俺は思ったよ。


 100%信じてはいないものの、お前が梅幸の話のせいでナーバスになっているのはわかっていた。

 だから俺はしばらくの間、息をひそめることにした。俺は梅幸の中にいたあのアリエール野郎みたいに、頭痛薬ごときで消されるなんてまっぴらだった。

 新しい服や靴、体にいい食べ物を買うのは我慢したし、お前が夜中にカップ麺を食べようとしても止めようとしなかった。

 薬に効果がないと思われるのも困るので、俺は由夏とのデートの時にお前に気がつかれないように会話を手助けしたし、お前に気がつかれないように同僚たちとの普通のやりとりを手助けした。

 俺はお前の生活を見守っていたのさ。お前がなんの不安もなく楽しく過ごせるように。治験をやめようなんて絶対に思わないように。

 

 お前は夜中にスマートフォンを開いて写真を見た。

 色々な写真があった。同僚たちと遊びに行った写真もあったし、病院に行くたびに仲良くなったファムとその家族と一緒に川下りに行った写真もあったし、由夏とデートした写真もたくさんあった。お前は満足していた。素晴らしい人生を築いたんだと。

 俺はずっと思っていたんだよ。

 この人生は全部、俺の築いたものなんだから、お前が持ってちゃいけないよなって。

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