不必要で素敵な生活

 そう。ちょうどそれくらいからなんだ。

 お前が「お前」から、「お前と俺」になっていったのは。

 驚いたか? こんな頃からいたのかって? まぁ、お前が俺に気がついたのはもう少し後だったからな。

 思いがけない場面で思いがけない目に合うことを、「足元から鳥が立つ」って言うんだろ? お前は鳥が羽ばたいてからようやく自分の足元に鳥がいたと気がついて慌てるが、鳥はお前がやってくるずっと前からそこにいたのさ。

 そしてお前がくるのを待っていたんだ。

 

 治験開始から数ヶ月が過ぎた頃、お前の人生はまさにバラ色だった。絶好調だ。

 お前が企画した体に貼れるマスキングテープは女子小学生にウケて、中々のスマッシュヒットになった。汗を吸うとマスキングテープに混ぜ込まれた香りカプセルが弾けて、青リンゴやレモンやミントの匂いがするってやつ。表向きは文房具だから学校に持っていけるっていうのがよかったんだろうな。

 ニコプチモデルがインスタに写真を載せたっていうのも追い風になったし、まとめサイトに「こんなにアレンジできちゃう! 話題のボディマスキングテープ!」とかいう記事が載ったのもでかかったんだろうよ。

 社長はまたお前のディスクにやってきて「すごいじゃないか、本当に生まれ変わったなぁ! わっはっは! これからも頑張れよ! わっはっは!」と肩を叩いたな。お前は社長お気に入りの社員の仲間入りをしたわけだ。

 治験前のお前程ではないが、些かコミュニケーション能力に難がある須藤すどうさんやイワトビペンギンこと越野こしのなんかを除いて、お前は職場の大多数の人間と打ち解けた。

 とりわけ、藍羽さんバッチン江崎さんグリコ篠田さんのんのとは特に仲良くなった。治験前は「おはざいまーす」と「お先失礼しますー」しか言葉を交わしたことはなかったっていうのにな。

 会社だけの交友関係は会社だけの交友関係ではなくなり、お前はLINEグループに誘われ、そして遂にあのバーベキューとかいうものに誘われた。バーベキューだよ。バーベキュー。お前にとってはマチュピチュやモンゴルと同じくらいの「そういうのがあるのは知ってるけど、一生足を運ぶことはないだろうなぁ」って存在だったよな。バーベキュー。憧れのバーベキュー。充実した人生の象徴。バーベキューだ。

 言い出しっぺのグリコは「兄貴がアメリカーッ! って感じの馬鹿でかい肉を送ってきたから、週末みんなでバーベキュー行こうよ! 俺がアメリカーッ! って感じの肉を食わせてやるからさ! 肉以外はお前らの担当な! アメリカっぽい食材で揃えようぜ!」って騒いでたっけな。

 お前、「みんな」や「お前ら」の中にいれてもらえたの、人生で初めてだったんじゃないか? なぁ? 確かそうだったろ? 治験万歳だよな。お前、俺に感謝しなきゃ。だろ?


 キャンプ場を通る浅い川で冷やしたペプシは、お前の想像よりは美味くも冷たくもなかったが——むしろぬるかったよな——、焼きマシュマロは想像を超える美味さだった。のんのが言った通り、オレオに挟んで食べるとまさにアメリカの味だった。

 バーベキューには唯一の既婚者であるバッチンの奥さんと彼女の友達も4、5人参加していたが、お前はスキニージーンズが似合う雌鹿みたいな女性とやたらと目があった。

 それが由夏ゆかだった。


 バーベキューの翌日。お前は自動販売機の前でバッチンに「桜山さくらやまさん、どう?」と聞かれた。

 お前は桜山さんが誰だかわからなかったから、俺は辛いのが苦手なのに間違ってチョリソーを食べてしまい、お前の隣でゴホゴホ咳き込んでいた雌鹿女を思い出してやった。だからお前は桜山さんが誰なのかを思い出せた。

 お前が「ああ。あの色の白い子?」と聞くと、バッチンは「佳菜子かなこさんの大学時代の後輩なんだ。最近こっちに越してきたから知り合いがあんまりいなくて寂しいんだってさ。駅で配ってるフリーペーパーとかで記事書いてるライターなんだぜ。いい感じの子だろ? 今週末、池袋のビアガーデンに行くからさ、お前も来なよ。桜山さんも来るから」と言った。

 それがどういうことなのかを理解したお前はつい「いや、俺はいいけど、桜山さんが嫌がるだろ。そういうの」と言ったな。長年染み付いてきた「どうせ俺なんか」根性が滲み出したわけだ。

 バッチンは肩をすくめて「バカだなぁ! お前、モテ期きてんだぞ! じゃぁ土曜の予定は空けとけよ。色々決まったらLINEするから」と笑ったな。


 その日、風呂上がりにお前は鏡の前に立って自分の姿をまじまじと見た。

 そこには腹回りに肉の浮き輪をつけた男はいなかった。

 上司に「外回りをしない仕事だから服装は自由でいいとは言ったけど、お客さんがフロアに入ってくることだってあるんだから、もうちょっとなんとか気を使ってくれよ」と注意されるまで髪もヒゲも伸ばしっぱなしにしていた男はいなかった。

 ギョロっとした目がゾンビみたいで気持ち悪いと言われていた男はいなかった。

 いつもだらしなく半開きになっていた口は閉じ、どこからが顔でどこからが首なのかはっきりしなかった顎は引き締まり、ヒゲは1本として剃り残しはなく、艶がなく縮れていた髪は綺麗に整えられていた。コンプレックスだった大きすぎる目すら、確かにお前の魅力になっていた。

 ロマンチックな容姿。それがお前に相応しい言葉だった。

 お前は化粧品かエステのコマーシャルに出てくる安っぽい女優みたいに自分の顔に両手で触れ、鏡の中の自分に魅入った。まるで自分じゃないみたいだって思ったし、いつの間にこうも変化したのかわからなくて戸惑っていたよな。

 だから俺は、退院してからすぐにジョギングと筋トレを始め、月に一度は必ず美容院に行くようにし、顔は石鹸じゃなく顔用の洗顔料で洗い、風呂上がりの髪はタオルでかき混ぜるように雑に拭くのではなく、ドライヤーできちんと乾かすようにし、食事は和食中心にしていたことを思い出してやった。だからお前もそれを思い出した。

 俺はそれでお前が納得するだろうと思ったが、お前は釈然としないまま鏡を見つめ続けていたな。

 俺は「問題はないじゃないか。前よりずっと格好良くなったんだから」と思った。お前の釈然としないって気持ちが消えるまで繰り返し何度も。

 

 お前は池袋西武の屋上ビアガーデンに行き、由夏に再会した。

 彼女、綺麗だっただろ? 覚えているよな? スキニージーンズで、Tシャツで、スニーカー。ラフな格好だったけどシーグラスと麻紐で作ったネックレスがよく似合ってた。

 お前は何を喋ればいいのか、どう振る舞えばいいのかわからないようだったから、俺が考えてやった。

 俺が「ここすごい広いですね。もっとこじんまりしたところかと思ってた」と思うと、お前がそれを言う。

 俺が「いや、池袋はあんまり来ないですね。最近は綺麗になったけど、昔は本当に治安悪くて、昼でも歩くの怖かったですよ」と思うと、お前がそれを言う。

 俺が「そう! 池袋ウエストゲートパーク! 観てた、観てた! まだ農家じゃなかった頃の長瀬!」と思うと、お前がそれを言う。

 俺が「え、DASH村ってそんなことになったの? あれは? ヤギ飼ってなかったっけ? ヤギはどうなったの?」と思うと、お前がそれを言う。

 由夏との会話は楽しかっただろう? 何を話していいのかわからずに言葉につまることはなかっただろう? 俺がお前の記憶の中から適切なものを選び出して、適切なタイミングでお前に会話の道しるべを示してやったからだ。

 お前は駅の改札口で由夏と別れる時、「また今度、タイミングがあったらお茶しましょう!」と手を振った。


 それで、タイミングをあわせてお前はまた彼女に会った。

 ゴリラコーヒーの前で「ゴリラ! コーヒー! なんでっ! なんでゴリラ!」と爆笑し始めた彼女に釣られて一緒に笑ったり、新宿ピカデリーのロビーで「昔の映画館って入れ替え制じゃなかったから1回入っちゃえば何回でも映画を見れたよねー」なんて話をしている内に上映時間を20分も過ぎてしまって、ファインディングドリーを見逃したり、爬虫類カフェに行ったはいいが2人ともビビってしまって蛇に触らずに早々に店を出たりした。

 つまりは、デートをした。

 通り沿いのH&Mのショーウィンドウに反射したお前と由夏は、どこにでもいるありふれた普通のカップルだったな。お前は世界のその他大勢で、モブで、背景だった。

 お前はそれをとても幸せだと思っていいはずだった。

 仕事は順調、友達に恵まれ、可愛い彼女までできた。

 それなのにお前はショーウィンドウの前で突然足を止めると、「ごめん、ちょっと急用があって! 本当に、本当にごめんね!」と言って、由夏を置いて家に逃げ帰った。

 ふざけてんのか、お前。あの日、由夏とはかなりいい感じだったのに。

 俺は何度も「大したことじゃない」「由夏を置いていってはいけない」「心配することなんて何もない」と思ったが、お前はそうは思わなかった。あの頃はまだお前の方が、まぁ、操縦席にいたからな。


 お前は家に帰るとクローゼットを開けた。そしてあろうことか、「なんなんだよ、これ!」と悲鳴をあげた。

 失礼な奴だよな。お前と違って俺が揃えった服はどれもセンスがよくて、仕立てもいい服ばかりだったのに。

 お前はハンガーにかかったジャケットやシャツをクローゼットから取り出して床に放り投げた。

「こんな服、買ってない! 俺が買うわけない! 俺の服じゃない! 俺の服はどこにいったんだ!? 1着もないじゃないか!」

 お前がそんなことを叫ぶから、俺はその服を買った時のことを思い出してやった。

 衣類回収日のたびに1袋分の服を捨て、服を捨てたら新しい服を買い、少しずつクローゼットの中を変えていった。何もおかしなことは起きてない。

 だが、お前は納得しなかった。

 お前は着ていた服までそこにダニでもいるみたいに乱暴に脱いで、ゴミ袋に詰め込んだ。あれはマークジェイコブスのパンツだったんだぞ、あの時お前が乱暴に脱いだせいでジッパーが壊れちまったんだ。本当、最悪だよ、お前。

 お前は冷蔵庫を開け、俺が買っておいたモッツアレラチーズとドライトマトとオリーブ、セロリとデコポン、それに生ハムまでゴミ箱に投げ入れてくれたよな。

「俺は買ってない! 買ってない!」って喚きながらな。


 俺が買ったものを一通りゴミ袋に詰め込み終えると、お前は部屋の真ん中で膝を抱えた。せっかく俺が整えてやった爪をガリガリ噛んだ。

 お前はがらんとした部屋に素っ裸で1人。ブツブツと独り言を繰り返した。「俺の物がなくなってる、俺の物が何もない」ってな。

 仕方ないだろ。お前の部屋はいらないものだらけで、必要なものが何にもなかったんだから。

 一体いつまで中学校の時に日光で買った眠り猫の木彫りの置物や、商店街のくじ引きで当たった音楽に合わせて踊るひまわりの人形や、ペットボトルについてきたパンダのキーホルダーや、ブックオフでついつい買ってしまったスポーンのフィギュアを取っておくつもりだったんだ? あぁ? ハクのおにぎりが今後お前の人生のなんの役に立つんだよ? 昔のVジャンプについてた死のデッキ破壊ウィルスのカードが、お前の人生に何をもたらすっていうんだよ? 一体いつまでお気に入りの漫画の最終回が掲載されたジャンプを本棚に詰めとくつもりだった? 読まない本、やらないゲーム、そこかしこがヨレヨレになってる安物のペラペラした紙みたいな服、そんなもの、なんの価値もない。なんの役にも立たない。存在しているだけで空間をダメにする。お前みたいにな。

 だから俺が処分してやったんだよ。そしてお前に必要なものを買い揃えてやったんだ。お前の充実した丁寧な生活に必要なものをな。

 国産の手作り家具一式、手織りのカーペット、最新のルンバ、1人暮らしの男用の料理が載ってるレシピ本、清潔感があって質のいい衣服と靴、気取らない帽子、コーヒーのカスを使って作られた食器──売り上げの40%がアフリカの子供達の支援に回されるのさ──、インテリアとしてホットトイズのBTTFバック・トゥー・ザ・フューチャーのマーティとデロリアンのフィギュアと、バズ・ライトイヤーとウッディの特撮リボルテックも買った。窓の側においておくといい感じなんだ。

 BTTFやトイストーリーが好きかどうかは関係ない。そこにそれがあると素敵かどうかが大事なんだ。

 必要というのは、そういうことなんだ。いいか、不必要なものには2種類あるんだ。素敵な不必要と、素敵じゃない不必要。俺は素敵な不必要を揃えたんだ。


 お前はずっと震えていて、混乱していた。

 お前は病院で出会った奇妙な男のことを考えていた。

 あいつがタクシーを叩きながら叫んでいたことを考えていた。

 お前は病院に行けばまたあいつに会えるだろうか? 話ができるだろうか? と考えた。それから「治験から外れた方がいいのではないか?」なんてことまで考え始めた。

 だから俺は思い出してやった。

 会社で発狂する前の人生がどれほど惨めだったかを。

 家族もなし。友達もなし。恋人もなし。

 仕事では軽く見られ、独り言は増え、社会からはキチガイ扱い。

 ジャンクフードとオナニーでギリギリ自殺しないで踏みとどまっていた日々。

 あの生きているだけで罰を受けているように感じた日々。

 それを全て思い出してやった。


 お前の人生は悲惨。お前の人生は終わりのないウォータースライダー。どこまでも永遠に下降し続ける。お前はお前である限り、永遠に地獄を歩き続ける。それを思い出してやった。

 だからお前もそれを思い出し、頭を抱えて泣き始めた。すんすん、すんすん、えーんえーん、怖いよー。

 ははは。バーカ。

 俺は思い出してやった。薬が切れた時に駅のホームで起きたことを。

 強烈な羞恥に焼かれ、苦しんでいるお前を誰もが笑っていたことを。あの恐怖。あの痛み。全て思い出してやった。

 お前は胎児みたいに体を丸め、泣き続けた。

 俺は思った。

 薬をやめたらまたあれが起きる。薬をやめたら元に戻る。いや、元に戻るよりももっと悪い。元よりももっと酷くなる。あの恐怖、あの痛み、あれ以上のものが襲い掛かり、そして2度と離れてくれなくなるだろう。

 だから、お前もそう思った。


 お前はよたよたと立ち上がり、ゴミ袋を開けて、袋のまま捨てたモッツアレラチーズを取り出すと、封を切ってそれを手づかみで食べた。

 それからキッチンテーブルの上にある薬箱からK-5087を取り出し、それを飲んだ。

 しばらくすると薬が効いてきて、少しばかり細くなっていたお前と俺の繋がりがまた太くなった。

 俺は部屋を元に戻さないといけないと思った。だからお前もそう思い、部屋を元に戻した。

 俺は由夏に連絡しなければいけないと思った。だからお前もそう思い、由夏に詫びの電話を入れて、この埋め合わせは絶対にすると約束した。

 俺は何も問題はない、薬が切れかけたから不安定になっただけだと思った。だからお前もそう思い、治験をやめようなんてバカな考えは消えていった。

 一旦は。

 

 数日後。

 治験の経過報告のために病院を訪れたお前は、医者に最近身の回りで妙なことが起きるのだと訴えた。

「変なんです。気がつくと買った覚えのないものが部屋に増えているんです。それも薬を飲む前だったら絶対に買わなかっただろうなってものばかり。革靴とか、帽子とか、カフスボタンとか、除湿機とか! 服装の好みも変わったんです。前は着られればなんでもいいし、安ければそれでいいと思っていたので、GQジーキューとかヨーカドーとかで買っていたんですけど、最近はそういうのじゃなくて、なんていうか、考えて買ってる感じの服ばかりクローゼットにあるんです! オシャレなんです!」

 お前は自分がものすごく妙なことを言っているのは自覚していたので、医者が困ったような笑みを浮かべてもショックは受けなかった。

「うまく伝えられないんですけど、会社から帰ってきて、玄関をみると見覚えのない、どう考えても俺のセンスじゃない靴がおいてあるんです。それで『あれ? 誰かいるの?』って怖くなると、その靴を買った時の記憶が蘇ってきて、それで『ああ。なんだ、俺が買った靴じゃないか』って思うんです。でも、それがすごく、変なんです。まるで俺の脳みそが、俺を騙そうとしてるような感じなんです。それに、変なのはそこだけじゃないんです。俺が靴を買った記憶はあるんですが、なんでその靴を買ったのか、自分がそれを欲しいと思ったのかどうかが、わからないんです。ただ買ったなって行動だけを覚えていて、『なんで、どうして』がないんです! 靴だけじゃなくて、全部なんです! 全部の話しです!」

 医者はうんうんと頷きながらカルテに文字を書き込んだ。だからお前は言葉を続けた。

「最近、付き合い始めた女性がいるんです。それで、この間彼女と一緒に街を歩いていたんです。そしたら通り沿いのお店の大きなショーウィンドウに彼女と誰かが手を繋いで歩いているのが見えたんです。それで俺、びっくりしちゃって。だって彼女と手を繋いでいるのは俺なのに、なんで彼女は違う人と手を繋いでるんだ? って。バカみたいだけど、幽霊にでも遭遇したみたいに怖くなったんです。ショーウィンドウに反射しているのが自分だってわからなかったんです。あまりにも俺が思っていた俺の姿と、今の俺の姿が違うので。この、髪とか、服とか、顔とか、俺なんですよ。髪を切ったのも、服を買ったのも、毎朝ジョギングしたのも覚えてる。でも、やっぱりその記憶の中に、俺の感情が残ってないんです」

 医者はお前の話を聞き終えるとなだすかすような口調でこう答えた。

「今  さんが感じている強い不安感は、やはり薬の副作用だと思います。第II相試験でも同じような不安感を訴えた方はいましたし、現在行なっている第III相試験でも同様の症状を訴える方は多いです。前にきていただいた時も、同じようなことをお伝えしたかもしれませんが、今、脳みそが頑張っている時期なので、辛いことも増えるかもしれませんが、全ての治験参加者さんが継続して薬を飲み続けることでこの不安症状から脱しています。あくまでも一時的なものです。不安も多いでしょうが、薬は必ず飲み続けてくださいね。今服用をやめてしまうと、バウンドがきてしまいますから」

「今、薬を飲むのをやめてはいけないってことは、仮に今、この治験から抜けたいっていっても抜けられないってことですか!?」

「いやいや、そうではないですよ。ただ、最初に説明した通りこの薬は脳に働きかける薬なので、やめるにしても段階は踏まないといけないってことなんです。時速数百キロで飛ばしていた車を止めようと急にブレーキを踏んだら、熟練ドライバーでもなければ事故を起こしてしまうでしょう? ですからやめるにしても急に薬を飲むのをやめるわけにはいかないんですよ。それに私としては  さんの症状は副作用がでているにしても順調に回復していますから、ここで治験をやめてしまうのはかなり勿体無いと思いますね。もちろん、  さんの判断ですが。まぁ、急にこの場で結論を出さなくても、もう少し考えてみたらどうかな? って思いますね」

 俺は薬が切れた時のことを思い出し続け、お前もそれを思い出し続けた。

 だからお前は医者の言葉に「そうですね。ここまできたし、治験はもう少し続けてみようと思います。でも、どうしても無理だと思ったらまた相談させてください」と答えた。

 

 病院を出てタクシー乗り場に向かおうと歩き出したお前は、途中でピタリと足を止めた。

 病院の門の側にあいつが立っていた。モジャモジャ頭。明らかにファッションではない破れ方をした小汚いジーンズ。ド派手な虹色のタイダイ柄の長袖。

 強烈すぎて見間違えようがない。あいつはまっすぐにお前を見ていた。 

 俺はさっさとタクシー乗り場に行ってタクシーに乗り込むか、あるいは病院の中に戻って警備員に不審者がいると伝えるかするべきだと思ったが、お前はそこに踏みとどまった。俺の思ったことをお前も思ったはずだけど、お前が俺の思ったように行動しなかったのは、お前の「あいつと話をしたい」という思いが俺の思いを相殺したからなんだろうな。邪魔臭いことだ。

 あいつはお前が病院に戻りも、タクシーに駆け寄りもしないのを見て、話しをする意思があると考えたらしく、「こちらには攻撃の意思はありません! 私は民間のボランティア団体のメンバーです! 銃撃をやめてください! 民間人を救助しにきたのです!」と主張するように両手を万歳の格好に持ち上げて、お前に近づいてきたな。悪目立ちもいいところだ。

 あいつはお前の前までやってくると、お前を足から頭までをマジマジと見つめてこう言った。

「それ、あんたがしたいと思ってしてる格好じゃないだろう」

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