生活習慣の改善

 幸いかどうかはわからないが、お前は解雇されてはいなかった。

 とは言っても別にお前が評価されていたわけじゃない。会社はギリギリまでリクナビでお前の仕事を引き継ぐ即戦力の中途社員を募集し続けていた。お前が解雇されずに済んだのは、単に条件にあう後任探しが上手くいかなかったからだ。

 多少なりともイラレだのフォトショだのキャドだのの特別な技術があってよかったじゃないか。おかげで首の皮1枚で社会と繋がったんだから。それにしても正社員でそれなりに貯蓄がないと、お前みたいにカジュアルなオフィス発狂もできないんだから、日本っていうのは発狂に優しくないよなぁ?

 

 ともあれ、だ。お前は退院した次の週から仕事に戻った。

 株式会社フジモリ文具のインハウスデザイナーとして、100均で販売する「可愛らしいけどどっかで見たことある柄のマスキングテープ」と、手帳やカレンダーに貼る「可愛らしいけどやっぱりどっかで見たことある柄のシール」をデザインする仕事にだ。

 お前が復職した日は緊急朝礼が開かれ、一度しかお見舞いにこなかった部長が「えー。体調不良で休職していた  さんですが、先日めでたく退院なさいまして、本日からまた一緒に働いてもらえることとなりました。これからまた忙しくなると思いますが、協力して乗り越えていきましょう!」などと言い、一度としてお見舞いにこなかった同僚たちが音だけは立派な拍手をしたんだよな。

 部長はお前に「では  さんからも復帰の挨拶を一言」と言った。

 その場にいるお前以外の全員が、お前が「ご迷惑をおかけしました。またよろしくお願いします」とぼそぼそ呟いて朝礼は解散になるだろうと思っていた。

 だが、大方の予想を裏切り、お前は背筋をピンと伸ばし、フロア中にはっきりと聞こえる声で挨拶したんだ。

「おはようございます!」って、DonDokoDonドンドコドンのグッさんみたいにな。声でけぇよ。


 あの時の連中の顔を思い出すと今でも笑える。お前もそうだろう? 「猿の惑星」でシーザーが遂に人間の言葉を喋った瞬間の、マルフォイ役のあいつみたいな顔してたよな。わー、お猿さんが喋ったよーってな。


 お前はマルフォイ共にかましてやったな。

「ご存知の方も多いでしょうが、皆様に大変なご迷惑をかける形で休職しておりました。その説は大変申し訳ございませんでした。入院している間、仕事への向き合い方や、人との関わり方など多くのことを考えておりました。私は34歳。人生80年として、あと数年で人生の半分を過ぎてしまうわけですが、人生の軌道修正をするのに遅すぎる年齢ではありません。何歳からでも人間は生まれ変われるのだと、私は心身を病んで初めて気がつきました。これからは後悔のないよう、日々停滞せず、問題点を改善し続け、前進を続けたいと思います。何卒、今後ともよろしくお願いいたします!」

 モーニングかモーニングツーで大して人気も出ずに打ち切りになる古臭いサラリーマン漫画のクソうざい主人公が吐きそうな挨拶だったが、社長は随分感動してたよな。朝礼の後、わざわざお前のディスクにきて、肩をバシッと叩いて「おい、がんばれよぉ! わっはっは」なんて言ってたもんな。あれくらいの年代の人は弱いんだよ。ヘナチョコ野郎の再出発ってワードにな。

 それから、社内行事の幹事を担当している後輩もお前のディスクにやってきた。

 そんであの耳障りな間延びした声で「復帰歓迎会をやろうと思ってんですけどぉー」と言ったな。そんで、「ですけどぉー」から先は何も言わなかった。

 イワトビペンギンみたいな頭の後輩は、お前からの「いや、いいよ。そういうの苦手だから」という返事を待っていたんだよな。

 そいつはやりたくなかったんだよ。お前の復帰歓迎会なんてな。

 そいつはお前より5年も後に入社した、ろくに仕事もできない生意気な小僧だったが──新卒の中に毎年1人はいる、人の話をメモをとらずに聞くタイプのバカだよ──どういうわけかお前を見下していた。そういうのがな、いつも態度に出てたんだ。お前は気がつかないふりをしていたけど。

 お前はイワトビペンギンの言外に示している「面倒くせぇからやりたくねぇよ、あんたなんかのためにさ」に気がつかないふりをして、「そうなんだ。じゃぁ幹事よろしくね」と言った。

 イワトビペンギンはまさかお前がそう言うとは思ってなかったんだろうな。あからさまに「え?」って顔をした。

「えー。そうなんっすけどー、この時期はちょっと飲み屋とかー、なんか混んじゃっててー、なかなかいい場所が抑えられないっていうかー」

 イワトビペンギンはお前からの「そうなんだ。じゃぁやらないでいいよ」を引き出そうとしてたよな。お前をなめてたんだ。

 だからお前は「幹事の腕の見せ所だね、期待してるから」と言って会話を終わらせた。

 イワトビペンギンはため息をつき、舌打ちをした。小さな声で「察しろよな」とも言った。

 思わず漏れた独り言ではなかったよな。お前に聞かせるために呟いたんだ。

 入院前のお前だったら、その呟きにも気がつかないふりをしただろうからな。どうせ何も言ってこない相手にしか強気に出られないバカがよくやるチンピラ仕草だ。

 だからお前は「聞こえてないと思ってやってるのか、聞こえてると思ってやってるのか知らないけど、人にとっていい態度じゃないだろ」と言った。

 お前にしては……いや、お前じゃなかったとしてもかなり厳しい口調でだ。

 普段怒らない相手が怒ると怖いっていうが、お前はまさにそんな感じだったな。フロアの空気がピリッとしたのを覚えてる。お前も覚えているだろう?

 イワトビペンギンはまさかお前からそんなことを言われると思っていなかったのだろう。ひどくばつが悪そうな顔で謝罪して去っていった。

 イワトビペンギンに限らず、同僚たちは激変したお前をどう扱っていいのかわからない様子だった。休職の仕方が休職の仕方だったし、そもそも休職以前からお前は取り扱いに困る存在だったから。

 給湯室で、トイレで、喫煙所で、お前は時の人だった。「あの人、どうしちゃったの?」ってな。


 お前の復職歓迎会は好奇心といささかの居心地の悪さが混じった空気の中、イワトビペンギンがぐるなびで見つけた竹橋たけばし駅前の居酒屋「鳥料理のんちゃん 竹橋店」で行われた。

 お前は開始の挨拶をし、「またよろしくお願いしますねー」と言いながら1人1人に酒をついで回った。お前も酒を勧められはしたが、薬の関係で控えているのだと断った。

 同僚たちの酒を飲むペースははやかった。

 どうも付き合い方がわからないお前と、酒の力を借りて交流しようと思ったのだろうな。

「  さん、これ言っていいのかわかんないけど、めっちゃ明るくなりましたよね」

 カシスウーロンと、カルーアミルクと、柚子蜂蜜サワーで顔を赤くした仲良し女性社員3人組の末っ子ポジションがそう切り出すと、残りの2人が「そうですよー。どうしちゃったんですかー」「前はもっとすごいインテリの匂いかもしだしてたじゃないっすかー」と相槌を打った。

 暗いとかコミュ障と言わずに『インテリの匂いをかもしだす』と言い換えるのは、彼女らなりの処世術なんだろうな。

 お前はこんなことを言った。

「MRIでわかったんだけど、俺、ずっと軽度の脳機能障害だったんだよ。すっごい軽度の。いつからそうだったのかはわからないんだけど、血管の一部分が膨らんじゃってて、それが脳みその性格に影響する部分を圧迫しちゃってたんだよね。今、薬でその血管を収縮させているんだよ。それでいままで圧迫されていた脳が動き出したってわけ。本当、霧が晴れた気分だよ。今までのは一体なんだったんだって感じ」

 お前はそういうタイプの脳の病気なんかじゃなかったのに、聞きかじりの知識でそれっぽい話をでっち上げた。大嘘吐きだよな。

 お前は恥ずかしかったんだ。自分がああいうことになったのが、自分のせいだって認めるのが。あの発狂は34年かけてお前自身で築き上げたものなんだって公言するのがな。

 だからお前は、34年間かけて築いていた変なおじさんである自分自身を切り捨てたんだ。

 あれは俺の病気の部分。本当の俺じゃない。今のこの明るくて楽しくて同僚たちと適切な楽しい会話ができる自分こそが、本当の俺。

 そういうことにしたんだよな。お前は。

 だからお前はイワトビペンギンの「そーだったんすかぁー。どーりで。今だから言いますけど、俺、今までの  さん、マジでちょっと気持ち悪くて苦手だったんすよぉー。今の  さんは超いいっすね、超かっけーっす」って言葉すら笑って受け流したんだ。

 お前が本当のお前だということにしたがった新生のお前は、無数の好人物の行動と思考をトレースした薬の産物でしかないっていうのに。

 この言い方は意地悪か? 認めよう。ちょっと意地悪したんだ。

 そうだよな。メガネは視力のいい人達の視力のトレースって言えるし、補聴器は耳のいい人達の聴力のトレースって言えるし、心臓のペースメーカーだって心臓のいい人達の心臓のトレースって言えるからな。お前の性格は通常の生活を送るのに大きな支障があり、補正しなければならなかった。そういうことなんだよな。

 ははは。そうしといてやるよ。


 まぁ、とにかく、復帰祝いの飲み会は大成功だった。

 お前は同僚達と打ち解け、二次会にも参加し、実に気持ちよく帰宅した。

 お前はベッドに寝転がり、枕に顔を埋め、両足をバタバタと動かした。ずっと片思いしていた相手と両思いになれた少女がやりそうなリアクションだったが、本質的には近いんだろう。お前はずっとまともな人間になりたいと思い続けていて、それが叶ったんだから。

 

 それからは毎日が楽しく過ぎていったな。

 仕事の合間に同僚と軽口を叩き、ランチタイムは同僚たちと一緒に大戸屋かドトールかなか卯に行った。時々はコンビニでサンドイッチや舞茸おこわおにぎりを買ってきて会社で食べたが、お前は1人にはならなかった。

 会社にはすでにグループができていたが、お前はどのグループにもうまいこと入り込んだ。

 お前が「1人で食べたくないから混ぜてくださいよー」なり「この席空いてます?」なり、あるいは特に何も言わずにスルッと当たり前のように同僚たちのランチスペースに混ざると、最初はみんな面食らった顔をして、「え、なんでこの人、ここにいるの?」という微妙な空気を醸し出したが、1週間、2週間とそれを続けているうちに微妙な空気は薄れ、次第にお前が集団の中にいるのは当たり前になった。

 お前の世界から「同僚」という生き物は消えた。そのかわりに藍羽あいばさん、井川いがわさん、江崎えざきさん、大野おおのさん、古手川こてがわ主任、前山まえやまさん、篠田しのださん、渋野しぶや係長、須藤すどうさん、田村たむら部長、新沼にいぬま次長という人々が現れた。お前はようやく、相手を1人の人間として認識し、積み重ねるタイプのコミュニケーションが取れるようになった。

 お前はそれまで視力0.01の世界でメガネもかけずに生活していた。何もかもがぼんやりしていて、そこに誰がいるのかすらわからない。同僚だとしか。

 そして、お前はお前のメガネを手にいれた。すべてがクリアだ。恐るものはなにもない。

 お前は群れの一員になったんだ。少なくとも、薬が効いている間は。

 

 一度、帰宅途中に薬の効果が切れた時があったな。

 あの日は厄日だった。

 営業の誰かが──どうせのんのだ──取引先を装ったマルウェアメールを不用意に開けてしまったせいで、会社の共有サーバーがロックされてしまった。システム管理課がなんとかサーバーロックを外してシステムを復旧させたのは夕方4時を少し回った頃。お前は1日の仕事をその時間から始めなければならなかった。

 抱えている仕事の中で特に優先順位の高いものを処理したり、印刷所や資材屋からのメールに返事をしたりしているうちに、気がつけば10時を過ぎていた。

 忙しさの中でお前は夕食をとるのを忘れていた。食後の薬もだ。

 お前はイートインコーナーのある会社側のローソンでサンドイッチでも食べて薬を飲もうと思い、まだ社内に残っていたシステム課の和月わつき主任に挨拶してから会社を出た。

 しかし、あいにくローソンのイートインコーナーはワックスがけの最中で使用できなかった。

 お前は考えた。

 家までは30分程度。冷蔵庫には絹豆腐と昨日帰りがけに買ったニシンの浅漬けがある。薬が切れる気配は全くない。お前は家に帰ってから夕食を取ろうと決めて、駅へ向かった。

 ホームのベンチで電車を待っている間に、突然それは起きた。

 一瞬で血液が沸騰し、脳が湯立ち、毛穴という毛穴が汗を吹き出した。

 お前は胸を押さえ、肩を大きく上下しながら呼吸した。口から肺に酸素が入っていかないと感じた。

 羞恥の襲来だ。

 恥ずかしい。恥ずかしい。ものすごく恥ずかしい。ここから消えてしまいたい。

 お前はそう思ったが、自分が何を恥ずかしいと思っているのかがわからなかった。ただ感情と涙と鼻水だけが原因もなく溢れ出していた。恥ずかしい。恥ずかしい。消えてしまいたい。とにかく恥ずかしい。息ができない。

 電車がやってきたが、お前はベンチから立ち上がれない。

 胸を押さえながら背中を丸めた。両膝の間に頭が挟まる。汗が前髪の先から雨のようにコンクリートに落ちて、ドット柄を作った。

 お前はパニックに陥っていた。心臓は異常な速さと強さで膨張と収縮を繰り返し、体内で暴れていた。またパラニュークでいくか? 「私はお前の心臓です。破裂してお前を殺す」。

 駅員がお前の肩を叩き、大丈夫ですか? と尋ねた時、お前は悲鳴をあげる代わりに卑猥な言葉を叫んだ。

 その時の駅員の顔。電車からおりてきた人々のお前を見る目。嘲笑。

 お前は助けを求めようとしたが、やはりそれは卑猥な言葉に変換されてしまった。

 夜中の駅のホームで、お前は男性器と女性器の名前を交互に絶叫した。

 「気持ち悪ぃ」「酔っ払い」「頭おかしい」「なにあれ」「こわっ」

 クスクス笑いの波が立つ。

 お前はまたしても変なおじさんになった。戻ったというべきか? 思い出したというべきか? お前は他の鳥が落とした美しい羽で自分を飾り立てたカラスだったと?

 お前は立ち上がり、トイレに向かって走り出した。走っているのに、落下しているような感覚だった。踏み出した足が地面に触れずに穴に落ちるような感じ。そうだよ。お前は地獄を走っていたんだ。


 お前はトイレに駆け込み、便座に座り、そしてカバンを漁った。

 フリスクがあった。それから何日か前に古手川主任からもらって、そのまま存在を忘れていた台湾土産の小さなパイナップルケーキもあった。

 お前はフリスクを口に流し込み、パイナップルケーキを貪った。

 そして薬をつばだけで飲み込んだ。

 お前は便座の上で膝を抱え、卑猥な言葉を言いつづけた。止めたかったが無理だった。時々、誰かがトイレに入ってきて、ドアを蹴ったり叩いたりした。笑い声も聞こえた。お前は泣き続けた。

 こんなにも苦しいのに、誰もがお前を笑う。

 それで、どれくらい経っただろうな? 20分くらいか? 

 薬が効き始めた。薬が切れた時と同じように突然、お前の精神は安定した。つい数分前までの狂騒は一体なんだったのかと笑いが漏れるほどだ。


 お前は終電になんとか滑り込み、帰宅した。

 まだ空腹だったので冷蔵庫を開けて豆腐を取り出した。

 買った覚えのないモッツアレラチーズを見つけてお前は硬直したが、よくよく思い返してみるとそれを自分で買った記憶が頭の中に確かにあった。

 「疲れているんだな」とお前はため息を吐いた。


 お前は週に1度、病院に行って検査を受けていた。

 MRI、血圧、心拍数の測定、尿と血液の提出を終えた後は、医者との楽しいおしゃべりだ。

 お前は駅で薬が切れてから起きたことについて話した。

 あのパニック状態は薬を飲む前に起きていた発作よりもずっとひどかった、あのまま死んでしまうのではないかと思ったと。

 何がなんだかわからないまま、強烈な恥ずかしさがこみ上げてきてしまったのだとも伝えた。

 医者はうんうんと頷いてお前の話を聴き終えると、穏やかに言った。

「今、ちょうど薬がメキメキと効いている時期なんですよ。  さんの頭に新しい行動回路が生まれている真っ最中なんですね。今までだったらやるべきだけどできなかったこと、やるべきだけどやりたいとは思わなかったことを、薬が脳の動きを調整してやれるように、できるようにしてくれているんです。強烈な羞恥心というのはですね、えーと。薬を飲んでから、飲む前だったらやらないことをやるようになってきたでしょう? 話したことのない人と話したり、みんなと仲良くなるために会話に入ったり」

 お前が頷くと、医者は「どうして普段はそれができないか、わかりますか?」と聞いた。

 お前は少し考えてから「話しかけて無視されたら恥ずかしいし、迷惑そうにされたら辛いなぁって」と答えた。

「そうですね。拒絶されるのは辛いですよね。だから二の足を踏んでしまう。でも薬が効いている間はどうですか? 感じなかったんじゃないですかね? 失敗した時辛いなぁとか、恥ずかしいなぁとか」

 その通りだったな。お前はまた頷いた。

「この治験では皆さん、同じような体験をされています。『自分で自分を操作するゲームやってるみたいな感じ』っておっしゃってる方もいますね。わかります? ドラクエの主人公って自分で操作するでしょう? 戦えーとか逃げろーとか。あと人の家に入って壺を割ったり、タンス勝手に開けたりとか。でもそれを自分で『恥ずかしい』とか『悪いことしてる』とか、思わないでしょう? 薬の効き始めの頃はゲームの自分と、操作してる自分が分離してる感覚になる方も多いんです。行動は自分で決めるけど、その結果どう感じるのかが自分の感情として実感しにくくなると言いますか。ゲームの中のプレイヤーキャラクターがどんな恥をかこうが、自分は平気でしょう? 薬が切れた時、そのプレイヤーキャラクターの時に本来は感じていただろう恥ずかしさがバウンドしてしまったんですよ。だから理由もなくすごく苦しくなってしまった。こういったバウンドは徐々に落ち着いてきて、いずれね、投薬量を減らしても大丈夫なようになっていきますから。まぁ、今は脳にとって大事な時期ですから今後、夕食はできる限り8時くらいまでにとるようにしてくださいね」

 医者はそう言い、お前は納得した。

 少し熱っぽく感じる時が多かったので、治験薬に影響が出ない軽めの解熱剤を出してもらい、お前は病院から出て、タクシー乗り場にむかった。

誰も並んでいなかったので、お前は待機していたタクシーにタイミングよく乗り込んだ。

自宅側の公園の名前を告げようとした時、突然、後部座席のお前側の窓が叩かれた。

 びっくりして外を見ると、あいつがあのモジャついた髪を振り回しながら、鬼のような形相で窓をバンバン叩いていた。


 「あんた! あんた、降りろ! 大事な話しがあるんだ! まだ治験に参加しているんだろ!」

 あいつはドアを開けようと外からノブを引っ張った。

 運転手が「何やってんだ!」と叫んだ。

 運転手はお前にまで「知り合い? 知り合いならちょっと降りてくれる? 困るんだよ、こういうの!」と喧嘩腰に怒鳴った。

 今にもドアを開けそうだったので、お前は慌てて「全然知らない人です! 早く出してください!」と叫んだ。

「薬なんか飲むな! 乗っ取られるぞ! 開けろ! 何にもしないから! 話しがしたいだけなんだ! あんたをずっと探してたんだよ! きっと病院にくるだろうって! なぁ、ちょっとそこのCoCo壱ココイチに行こう! CoCo壱! CoCo壱! 何にもしないから! 話しだけ!」

「早く出して! こいつ、頭がおかしいんだ!」

「どこまで始まってる? 身に覚えのない物が増えてないか? 買った覚えのない物を買っているんじゃないか? なあ!」

 タクシーは動き出した。

 あいつはしばらくの間、タクシーを追いかけてきたが、やがてその姿は見えなくなった。

 タクシーの運転手は「うわー。結構長いこと追いかけてきたね。怖い怖い。ダメでしょ、あんなの外に出しちゃ」って強張った声で愚痴り続けていた。


 お前は帰宅し、冷蔵庫を開けた。

 昨日買ったオランジーナがあるはずだとお前は思っていたが、冷蔵庫にはオランジーナの代わりに麦茶が入っていた。

 お前は「え?」と思わず声を上げた。

 お前は麦茶のペットボトルを手に取る。いつ買ったんだ? オランジーナは?

 お前がパニックになりそうだったから、俺は昨日の夜にオランジーナを捨てて、自販機で麦茶を買ってきたことを思い出してやった。

 お前は「そうだ。昨日オランジーナは捨てたんだ。それで麦茶を買ったんだった」と納得した。「けど、なんで捨てたんだっけ?」とお前が思ったので、俺は「糖分を取り過ぎだからだ」と思った。だからお前は「そうだ。糖分を取り過ぎだからだ」と思った。

 お前は疲れているんだよ、だから記憶がぼんやりしてしまうんだ、と俺が思うと、お前は「俺は疲れているんだ。だから記憶がぼんやりしてしまうんだ」と思った。


 お前は麦茶を飲みながらツイッターでちょっと話題になってたNetflixのドキュメンタリーを観て、それから眠ろうとした。歯も磨かず、シャワーも浴びなかった。

 お前な、加齢臭っていうのはああいう細かい堕落から加速するんだぞ。

 だから俺がやっておいてやったんだ。寝ぼけたお前を動かしてな。

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