レレレのお兄さん
投薬開始から1週間が過ぎた頃、お前は失望を味わっていた。
前園と医者から指示されたスケジュールに沿って、K-5087を毎食後30分以内に1回2錠飲んでいたが、これといって効果は出ていなかった。
相変わらずお前は突然卑猥な言葉を叫んでしまうし、夜は眠れず、やっと眠れたかと思えば新種の巨大ウツボカズラに消化されるカタツムリになった悪夢を繰り返し見た。
夢の中で、カタツムリになったお前はウツボカズラに溶かされ、液状になり、養分となって吸収されたが、それでもお前としての意識があった。
お前はウツボカズラではないが、ウツボカズラが感じることをお前も同じように感じた。
ウツボカズラの
ウツボカズラは野鼠の小さな手足が縁を歩くのを感じ、お前もそれを感じる。ウツボカズラは野鼠の爪をくすぐったく感じ、お前もまたそう感じた。
夢の中ではついさっきまで雨が降っていた。だからウツボカズラの体も野鼠の体も霧吹きでシュッシュとやったように濡れている。
ウツボカズラの表面はとても滑りやすくなっている。縁の部分は特に。
何を思ったのか、野鼠はウツボカズラの中を覗き込んだ。身を乗り出す。そして、足を滑らせて捕虫袋の中に転がり落ちる。野鼠ころりん。
野鼠は慌てて袋の底から這い出そうとするが、体にまとわりつくべたついた消化液に体の自由を奪われている。
野鼠は叫び、何度も外に出ようともがくが、体力を消耗するばかりだった。
消化液が野鼠を溶かし始める。ゆっくり、ゆっくりと、消化しているのかどうか判断がつかないほどにゆっくりと。しかし、どれほどゆっくりであろうと、消化が止まることはない。
お前はこれが夢だとわかっている。こんな風に生き物を溶かすウツボカズラなんて、ホラー映画の中にしか存在しないとわかっている。
だがわかっていてもなんの意味もなかった。
野鼠は悲鳴を上げる。とても小さなヤカンが沸騰を知らせるような甲高い音だ。ピーッ。
お前は野鼠を助けてやりたいと思う。野鼠の悲鳴はあまりに痛々しく、お前はとてもではないが耐えられない。
だが、お前はウツボカズラの一部になってしまった。
お前はウツボカズラの歓喜を感じる。お前は野鼠の溶けた肉を吸収し、多幸感に浸る。こんなごちそうは滅多にない。時間をかけてゆっくりと食べようとウツボカズラは思い、お前もそれを感じる。
お前は嫌だと思う。
お前はそんな風に感じたくない。お前は苦しんでいるし、悲しんでいる。だが、お前の感覚はウツボカズラの歓喜にかき消される。
お前が何をどう感じるのか、それを決めるのはお前ではなく、ウツボカズラだ。野鼠が鳴く。ピーッ。ウツボカズラことお前は、サディスティックな舌なめずりをする。
お前は悲鳴を上げ、そして自分の悲鳴で目を覚した。
状況は全く改善しない。
水に墨を垂らしたように、お前の内側に不安が広がっていた。
お前の不安の原因となっていたのは、プラセボという存在だった。
前園は治験について説明する中でこんなことを言った。
「治験に参加したとしても、薬を飲めるかどうかはわかりません。プラセボ対照試験ですから」と。
こういった治験では本当にその薬に効果があるのかどうかを調べるため、治験者を2つのグループにわけ、片方のグループには本当の薬を投与し、もう片方のグループには何の効果もない薬、つまりは
より正確な結果を出すため、治験者がどちらのグループに属するのかは医者にも治験者本人にも知らされない。
お前は自分が飲んでいるのはプラセボの方なのではないかと疑い始めていた。
だが一方で、自分が感じているこの不安感と不信感こそK-5087の副作用なのではないかとも思っていた。
お前はどちらがいいかを天秤にかけたが、天秤は揺れ続けるだけでどちらがいいかは決められなかった。インクレディブル最悪か、アメージング最低かだ。
事態が好転したのは投薬開始から2週間めの朝だった。
お前はいつになくすっきりと目を覚ました。体が軽いような気がした。悪夢もみなかったし、慢性的に胸に住み着いていた不安感も綺麗さっぱり消えていた。
ずっと目の前を覆っていた霧が突然晴れたような、新品のメガネにかけかえたような、そんな気分だった。
お前はベッドから身を起こし、窓際まで歩いてブラインドを開けた。
差し込む日差しに目が眩んだ。太陽が室内の空気を温め始めた。お前は太陽に抱擁されていると感じた。
お前は窓辺に立ち、5階の窓から外を眺めた。外に興味を持ったのは入院してから初めてだったな。
時刻は朝6時30分を少し過ぎた頃。朝の街はすでに動き始めていた。
病院の駐車場のすぐ外にある道を黄色い帽子の小学生達が歩いていくのをお前は見た。
トヨタやマツダやホンダやミニクーパーが高速道路への合流地点を目指して車道を進む。線路を東西線の電車が走る。コンビニからレジ袋を下げた老人が出てくる。
なんの変哲もないごく普通の日常が窓の外に広がっていた。
お前は胸が締め付けられる。歓喜によってだ。
お前は自分が孤独ではないと感じていた。自分は1人ぼっちではない。窓の外にはあんなにたくさんの人々がいて、生活している。
お前は一刻も早く病院からでて、彼らの中に加わりたいと感じた。
長年の孤独な漂流の末についに陸地を見つけ出した。そんな気分だった。
こんな気分になったのは、生まれて始めてだった。そうだろう? お前のことはなんでもわかるんだ。
ドアが開き、朝食の乗ったカートと共に浅黒い肌の若い看護師が病室に入ってきた。
入院して以来、彼は毎日食事を持ってきてくれていたが、お前は彼と言葉を交わしたことがなかった。
お前が彼について知っているのは彼が外国人で、名前はファムだという点と、名札に折り紙でできた手裏剣を貼り付けていることだけだった。
お前が入院したての頃から、ファムはお前ににこやかに声をかけ続けていた。
「おはようございますー。 さん。今日の朝ごはんは美味しいですよー」
「あらー。 さん。今日はちょっと残しちゃったねー。時間かけてもいーからしっかり食べようねー」
「今日は天気いーからお散歩してみたらどうですか? 気分転換になるかもしれないですよ」
でも、お前は彼の挨拶を無視した。聞こえてないふりをし続けた。狸寝入りをしたり、ぼーっとしているふりをしたりした。
お得意のディスペンパック交流はできなかった。
なぜならファムは1回きり、使い切りの関係にはならないからだ。入院している限り、お前はファムと関わり続けなければならない。お前はそういう相手とどうコミュニケーションをとっていいのかわからないんだ。継続前提の交流を前にすると、パニックになってしまう。
お前は無視してはいけないと頭ではわかっていたし、ファムが徐々にお前を「あー。この人は話しかけても意味ない人ね」と思い始めているのも察していたが、どうにもならなかった。
ファムは好青年だ。お前を気遣っている。だがお前はその気遣いをどうやっても持て余してしまう。
お前は「次こそはファムに挨拶を返そう」といつも思ったが、いざファムがくると彼から目を逸らして、とっくに読み終えた文庫本を開いてしまう。その度にファムが少し傷ついた顔をしているのにお前は気がついていたが、だからといって本を閉じようとは絶対にしなかった。
だが、その日は違う展開になった。
「 さん、今日は早起きですね」
ファムは珍しそうに言った。彼の言葉はどこか余所余所しかった。どうせまた無視されるのだろうという諦めが滲んでいた。
お前は何か話さなければならないと思い、そして、そうした。
「今日は久しぶりに目がスッと覚めたんです。入院してから変な夢ばっかりみていたんで、いつも朝はぐったりしていたんですが、いやー。今日はほんと、いい目ざめですよ」
ファムは驚いた顔でお前をみたが、お前の方がファムよりも驚いていた。
頭の中で繰り返し
「そーですか。それは良かったですー。病院ってちょっと怖いし、個室だと寂しいからねー。嫌な夢も見やすくなっちゃうかもしれないですね!」
ファムはお前のベッドテーブルに朝食の乗ったトレーを置き、満足げな笑顔を見せた。
ファムは、自分が諦めずに話しかけ続けたことでコミュニケーション不全の厄介な患者から声を引き出してやったぞ、と思っていたんだろうとお前は考えた。実際何を考えていたかなんて、わかりゃしないが。
「今日は天気もいいし、風が気持ちいいから、ご飯食べ終わったらお庭を散歩してくるといいですよ。あ、散歩に行く時は受け付けの看護師さんに一言散歩に行きますって言ってくださいね」
考えるよりも先に口が動いた。
「じゃあ是非そうしますね」
確かにお前の声だが、お前のものではないようにお前は感じた。
ファムは「是非、是非ね!」と言って、上機嫌のまま病室から出て行った。
お前はベッドに腰を下ろし、自分の胸を押さえた。
「……今のはまともだったぞ」
お前は呟いた。
「まともだった」
お前は骨の内側からじわりじわりと体が温かくなるのを感じた。
肉体と精神の再起動。お前はそれを感じていた。
お前はファムの持ってきた朝食を食べた。米粒1つも残さなかった。こんなに美味しいものがこの世にあったのかとお前は思った。
自分の惨めさを誤魔化す以外の目的で、お前は食事をした。
食後に襲ってくるいつもの罪悪感はなかった。お前の体は満たされた。食事によってだけではない。自信によってだ。お前の内側は今まで一度として感じたことのなかった自信で満ちていた。
お前はパジャマの上に薄手のジャケットを羽織り、スリッパを靴に履き替えて病室を後にした。
今日は人生最高の素晴らしい日で、こんな日に何もせずに病室に閉じこもっているなんてありえないとお前は思った。何もかもが輝いていると感じた。普段閉ざされている脳の回路が一斉に開いていると感じた。
なんという選択肢の多さ。なんという可動域。
お前は自分はどこにでもいけるし、なんにでもなれるし、なんだってできると思った。今までのお前の人生がファミコン時代のスーパーマリオなら、その時のお前の人生はグランドセフトシリーズの最新作だ。
お前はファムに言われた通りに受付の看護師に散歩にでかけることを告げ、庭に出た。
病院の裏側にあるその庭は広くはなかったが、その分手入れは行き届いていた。
裏口に立つお前から見て右手側には見事な葡萄棚があり、その下には大人がごろりと寝転がれそうなベンチが2つ並んでいた。
左手側には自動販売機とゴミ箱があり、そこから病院の裏門まで花壇が続いていた。スライドキャスター式でガッチリした鋼鉄製の門は閉ざされていて、白い看板が門の前に立っているのが見えたが、なんと書いてあるのかまではお前には見えなかった。
お前は花壇を眺めながら門に向かって歩いた。
花の名前などわからなくても、花が見事に咲いていることに変わりはない。お前は花の1つ1つに感動しながら進み、やがて裏門の前までたどり着いた。
看板にはこう書いてあった。
『緊急時以外は終日締め切りです。出入りには表側玄関をご利用ください』。
門の高さはお前の胸より少しだけ低かった。お前は両腕を軽く組んで門の上に乗せ、体重を預けた。
門のすぐ向こう側には幅の広い歩道が広がっていて、続いて一方通行の車道があり、その向こう側にもまた幅の広い歩道があって、やや古臭いタイプの民家が道に沿って並んでいた。
お前は誰かが通りがかるのをしばらく待っていたが、あいにく誰もやってこなかった。お前はいささかがっかりした。お前は誰でもいいから誰かと話がしたかった。
お前が「ロビーに行ってみよう、きっと話好きな老人の1人や2人はいるだろう」と思い振り返ると、先ほどお前が出てきた裏口から誰かが入ってくるのが見えた。
これがお前と、あのボランティア精神で満ち溢れたバカとの運命の出会いだった。
この時はお互いに、この出会いが後々生死をわけるものになるとは思っていなかっただろうが。
背が随分と高いとお前はあいつを見て思った。
ボブ・マーリーが着てそうなタイダイ染めの長袖とジーンズを着ていて、遠目から見ても髪の毛がボサボサなのがわかった。猫背で、肩は内側に巻き込んでいた。
お前はあいつを1ヶ月くらい帰宅していないプログラマーみたいだと思ったが、後々実際にそうだったと判明したな。正解おめでとう。ドンドンパフパフ。
あいつは左側だけ袖を二の腕まで捲り上げていて、右手で左手の手首あたりを抑えていた。
お前はあいつはきっと外来の患者で、注射か何かをしてきたんだろうと思った。
あいつはお前を見ていた。
お前は軽く手をあげて挨拶をしたが、あいつはお前を無視して歩き出し、葡萄棚の下のベンチに腰掛けた。葡萄棚の下は夜のように暗い。あいつは昼に残された夜の欠片に馴染んだ。
お前は少しばかり気味が悪いと感じたが、だからといってあいつの元に向かうのをやめようとは思わなかった。
お前はあいつといわゆる世間話というものをしてみたかった。
いつものお前であればまずそんなことは考えないが、この時のお前は普段なら考えもしないことを考えていた。
間違いなく、薬は効果を発揮していた。
お前は軽やかな足取りで葡萄棚に向かい、会話の切り出しをどうするか考えていた。
「どうも、今日はいい天気ですね」ありきたり。
「タバコ持ってませんか?」ここは病院だし、そもそもお前はタバコを吸わない。
「この病院、待ち時間長いでしょう」悪くはない。
だが、あいつに近くに連れてお前はの足取りは重たくなり、口元に浮かんでいた笑みは消え始めた。
あいつの左腕から、血が赤い筋となって流れ落ちていた。
あいつは俯いていて、お前の位置から見えていたのは浜辺に打ち上げられた海藻のように縺れて清潔感のないもじゃついた後頭部だけだった。
あいつは何かを言ったが、お前にはよく聞こえなかった。
お前の耳はあいつの声の他に妙な音を捉える。とても小さい。だがその音にお前は聞き覚えがあった。だがなんの音なのかは思い出せなかった。
その音が聞こえるとあいつはかすかに体を震わせ、苦しげな声をあげた。
お前は不安になり、看護師なり医者なりが庭にやってきてくれないかと裏口に目をやったが、扉は閉ざされたままだった。
いつものお前であればあいつから離れて、何も見ていなかったふりをしてこの場を立ち去ったはずだ。
だが、お前はいつものお前ではなかった。薬はお前にいつもとは違う行動を取らせる。
お前は更にあいつに近づいた。あと5歩も進めばつむじに手を置けるくらいの距離まで。
音はよりはっきりと聞こえた。あいつの左腕から。
いや。違ったんだよな。
音は何かを握りこんでいるあいつの右手と、左腕の間から聞こえたんだ。
パチンッ。
あいつは震え、呻く。左腕に添えられた右手に隠れた部分から、血の筋が流れてきた。
パチンッ。パチンッ。パチンッ。
お前はあいつの左腕にたくさんの「レ」型の傷がついてるのに気がついた。
新しくできたばかりで勢いよく血を流している「レ」、血は止まっているがまだ新しい「レ」、かさぶたになっている「レ」、ふさがって白く肉が盛り上がっている「レ」。
あいつの左腕は手の甲から肘まで無数の「レ」で覆われていた。
パチンッ。
あいつの右手が握っているものの先端がちらりと見えた。
それでやっと、お前は音の正体を察する。
爪切りだ。
あいつは爪切りで自分の腕を挟み、パチンッ、パチンッと肉を切っていた。
お前は言葉を無くし、その場で硬直した。
あいつが顔をあげ、お前を見た。
頬が痩けていて、顔の下半分がヒゲで覆われていた。目の下の肉はたるみ、瞳は穴のように虚ろだった。その虚ろさをお前はよく知っていたな。会社で発狂した日のお前の目だ。
あいつは卑屈な笑みを浮かべ、捲り上げていたシャツの袖を伸ばして、傷だらけの左腕を隠した。
「病気なんだ」
あいつは一目瞭然の事実を言った。
服の袖には血が滲んでいたが、元々派手なタイダイ柄だったので、血の跡もエキセントリックな模様の一部分に見えた。もしかしたらそう見せるためにタイダイ柄を着ていたのかもしれない。
お前はあいつにこう言おうと思った。
「看護師さんに見てもらいましょう。爪切りを一旦おきましょうよ。動けますか? 動けないならちょっと行って誰か呼んできますから、じっとしててください」
薬が効いていればきっと上手くできただろうが、残念ながら時間切れだった。
薬が切れた。
脳みその動きが一気に落ち、世界から煌めきが剥がれ落ちた。
お前はジャングルに裸で立っているような心細さに襲われた。急速に勇気が萎み、庭に入ってきた時はあった万能感は消えた。
お前は何も言うことができず、足早にあいつの前から立ち去った。
お前はあいつが追いかけてくるんじゃないかとヒヤヒヤしていたが、そうはならなかった。
少なくともその時は。
お前が病院の裏口扉を開けようとすると、扉が内側から開いて看護師が顔を出した。前園がお前に治験の説明をした時に同席していた看護師だった。
看護師は「お散歩ですか? 今日は体調がいいみたいですね」とお前に挨拶したが、お前は右を向いたり、左を向いたりしながら指を擦り合わせるだけで言葉を返せなかった。奥歯が割れるんじゃないかってくらい強く口を閉じたのは、女性の前で卑猥な言葉を吐きたくなかったからだったが、その「今だけは変なことを言ってはいけない」というストレスがお前に再びそれを言わせた。
それも何度も、大声でだ。
お前は口を閉じようとしたがそれができず、両手で無理やり自分の口を抑え、「ぶぶぶ」と妙な声をあげながらボロボロと泣いたな。
お前は「助けて」「ごめんなさい」「こんなこと言いたくない」と叫びたかったが、言葉が舌に乗る頃にはそれは卑猥な言葉に置き換わっていた。
お前はその場にうずくまり、地面に向かって汚れた言葉を吐き続けた。
看護師はお前の背中を撫でて「無理に言葉を止めようとしなくても大丈夫ですからね、ゆっくり呼吸して」と言った。
お前は言われた通りに深呼吸を繰り返しながら「さっきまでは平気だったんだ。今日は、すごく気分が良くて、ご飯も食べられたし、調子が良かったのに、どうして急に」と言った。
看護師は「治験のお薬が効き始めたんですよ。良かったじゃないですか。 さんの体質に薬があっていたんです。大丈夫ですよ、 さん。あの薬は最初の内は短時間しか効果が継続しませんが、飲み続けるうちにどんどん効いている時間が長くなるんです。これから徐々に楽になりますから、焦らないでいきましょうね」と言った。
お前が「本当に?」ときき返そうとした時、すぐ側であいつの声がしたな。
「あの治験に参加してるのか」
お前はしゃがみこんだまま顔を上げた。
あいつはお前と看護師から数歩離れたところに立っていて、お前を凝視していた。
看護婦が立ち上がり、お前とあいつの間に立った。看護師がズボンのポケットに手を突っ込んで何かをしたのにお前は気がついていたが、この時は何をしたのかわからなかった。
「
「あんた、あんた、ダメだよ。あんなのに参加しちゃ。あんた、今すぐ薬を飲むのをやめるんだ。取り返しがつかなくなるぞ」
「松馬さん、あなたまた手を切ったんですね! 血が滲んでいるじゃないですか! 爪切りを捨てなさい! せっかく退院できたのにまた入院になりますよ!」
「血じゃない! こういう柄なんだ! それに爪切りは必要なんだ! 痛いと自分がはっきりするから。あんた、あんたも今の内に爪切りを使うんだ。薬はやめろ!」
病院のドアが開いて体格のいい男の看護師が姿を現したな。
そのデカい看護師は「はい。落ちついてね。松馬さん。一緒に先生のところに行きましょう。また腕を切っちゃったんだね。消毒しないとね」と図体に不似合いな優しい声で言うと、あいつの肩と腕を掴んで病院の中へ引っ張って行った。あいつはドアが閉まるまでずっとお前に治験から手を引けと叫び続けていたな。
「あの人はね、第II相試験に参加してた人なんですよ。治験中に他の薬を飲んで、参加資格のなくなった人。元々、自傷傾向が強かったんだけど、治験から外されてからちょっと悪化してしまってね」と看護師は憐れみ深い口調で言った。
「くれぐれも治験の注意事項は守ってくださいね。これから目に見えて効果が出るようになりますから、慎重にね。薬はきちんと飲んでください。順調にいけば今月末には退院できますし、仕事にも戻れますよ。今迄の治験で効果が出た人は、みんなそうでしたから」と彼女は続けた。
お前は半信半疑だったが、看護師は正しかった。
月末。お前は退院した。
ファムはお前が退院する日、「スイカ、良かったね! 本当に元気になって良かったね!」と言って泣き、お前は彼と抱擁を交わした。お前はファムの友達だった。ファムだけじゃない。お前は病院で知り合った長期入院の患者や、医者や看護師と友達になっていた。
お前は好かれていた。あだ名まである。
スイカ。友達になった患者の1人が「Suicaのペンギンに似てるよね」と言ったのがきっかけでついたあだ名だ。
お前は完全に、お前がこうなりたいと願ったお前になっていた。
薬の力を借りてだが。
だが、何か問題があるか?
みんなこう思ってたよ。前のお前よりも全然良いって。
お前自身だってそう思っていたんだろ?
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