性格は治療可能
それが廃人ルート一直線のお前の前に現れた
見た目はまるでパステルブルーの粒ラムネ。
頭文字のKは
「どうでしょうね。 さん。 さんの症状に効果があるかもしれない新薬があるんですよ。ちょうど今、この病院で
「どうだ明るくなったろう?」でお馴染みの例のあいつによく似ているあの医者は、週末の社会人フットサルにでも誘うような軽いノリで、お前を治験に誘った。
「治験っていってもそう危ないものじゃないんですよ。だからそう、ね。身構えなくても大丈夫ですから。治験には大きく分けて3つの段階があるんですよ。第I相試験は健康な方を対象にした試験です。だから さんには関係ないですね。次の第II相試験では第I相で安全が確認できた用量の薬を、条件に該当する患者さんに投与して第I相試験よりもさらに詳しく薬の効果と副作用を調べます。第III相試験は仕上げの段階ですね。認可一歩手前。第II相試験までで安全が確認できた薬をより多くの治験者に投与して、効果と副作用を調べようっていう段階です。 さんに参加してもらいたいなって思ってるのはこの第III相治験なんです。危険な副作用がほぼないだろうってことは確認できてますし、第II相治験でもかなりいい結果を出せているんです。 さん、今のお薬は思っていた程は効果がないようだし、通常はここで今までよりもちょっとアプローチの違う薬、簡単にいうと強い薬を試してみようって流れになるんですけど、強いお薬だからもちろん副作用も強いし、結構ね、大変だと思うんですよ。だから私としては強めのお薬に移行する前に、治験にチャレンジしてみるっていうのも選択肢の1つとしてね、ありだと思うんですよ。どうです?」
お前の中にあった治験に対する不安は、医者ののんびりした態度に揉みほぐされ、次第に消えていった。
何か危険があるのなら、こんなにのんびりと世間話をするようには話さないはずだ、きっと本当に危険なんてないんだ。だってお医者様が言ってるんだから──お前はそう思い、自分で考えることをやめた。
お前はタイタニック号だって出港前は
だからお前は医者の「どうします? ちょっとチャレンジしてみましょうか? 治験」という言葉に「じゃあ、それで」と答えた。
こうして、「ご一緒にチキンナゲットはいかがですか?」「じゃあ、それで」みたいなノリで、お前の運命は確定した。バーカ。
あの日の午後。医者は看護師と、特に特徴らしい特徴のないスーツの男を連れて、お前の病室にやってきた。
スーツの男は「どうも初めまして。私、角山製薬の
医者は「じゃぁ、詳しい説明と何かね、わからないこととかあれば質問とかそういうのはどんどん前園さんに聞いてくれればいいから」と言って病室から出て行き、病室にはお前、前園、看護師だけが残された。
看護師はただ立っているだけで特に何もしていなかったが、きっと彼女は治験の説明が適切に成されているかをチェックするため、あるいは後々なにか面倒なことになった時に「前園さんからの説明は十分でした。 さんは説明を理解した上で署名したんですよ」と証言するためにいたんだろうな。
前園はお前に冊子を開くように言い、お前は従った。
冊子の冒頭には薬がどういう経緯で開発され、どのような効果が期待されていて、予想される副作用がどんなものなのかが書いてあった。
セロトニンがどうとか、シナプスがどうとか、トランスポーターがどうとか、
お前にはなんのこっちゃわからない。ダンジョン&ドラゴンズのゲームマスター用ルールブックを初めて目にした時と同じくらい、お前の頭の中は「?」でいっぱいになった。わかるような、わからないような。知ってる単語が出てきたような、出てきてないような。そんな塩梅だ。
前園は「ちょっとこの冊子の説明だとわかりにくいんで、私の方でできるだけ簡単に噛み砕いて、口頭で補足しますね」と断りを入れ、冊子には全く書かれていない説明を始めた。
恐らくは、わざと冊子には書いてないんだ。文章として残してしまうと、法的な根拠を求められてしまうからな。だからああいう連中は曖昧で根拠のない部分は口頭で説明する。後々「そんなことは言った覚えないですね。こちらから説明したのは冊子に書いてある通りのことですよ」ってバックレるためにな。
全く。よく考えたもんだよ。
前園はこんなことを言った。
さん。人の性格というものは、常に社会の強い関心を集めるものです。
血液型で性格を分類したり、心理テストで性格を診断したり、小学校の通知表にも先生が生徒の性格を記載する箇所があったりします。
結局さほど定着はしませんでしたが、心の
容姿。経済力。学歴。身長。体重。
人が他人を判断するのには様々な基準や要素がありますが、性格はそれらの中でもかなり重視されている要素といっていいでしょう。
しかし、性格とは一体なんなのか? 魂? 心? 感情の一部? それとも感情の塊?
この疑問にすらっと答えられる人はそう多くはないと思います。哲学者や宗教家なら違うでしょうけど。まぁ、彼らの考えは彼らの考えですから今回は触れずにいましょう。
我々、角山製薬は『性格とは、人間の生存戦略だ』と考えています。
人間とは群れをなす生き物です。集団で社会を構築し、集団でその社会の掟に沿って生きています。住んでいる国、地域、勤めている会社、住んでいるマンションやアパート、学校、クラス、家族。大小の差はありますが、これらは全て群れです。
人間は群れでいなければ生きてはいけません。常になんらかの群れの一員なのです。時折、どこかの山奥や洞窟や孤島で1人で生きている人もいますが、まぁ、あれは特例でしょう。サバンナのシマウマと同様に、群れからはじき出されるということは、人間にとっても死を意味します。
人生の中では時折、群れを移動する必要が出てきます。例えば転校するとか、転職するとか、結婚して夫や妻の家族と同居するとかね。昔の群れから離れ、新しい群れの一員になるのです。
こういう時、スムーズに新しい群れに溶け込める人と、そうでない人がいます。スムーズに新しい群れに溶け込める人というのは、他者へ共感同調する能力が高く、常に群れに足並みを合わせられる人のことです。そういう人のことを、一般にこう言うのです。
『性格が良い人』だと。
我々はこう言います。『生存能力の高い人』だと。
ではその生存能力の高さ、性格はどうやって決まるのか? 生まれながらの遺伝? 育った環境?
答えはどちらともです。
わかりやすく言うとつまりこうです。
見ず知らずの人と出会った時、どんな人でもストレスを感じますよね。
相手はどんな人なのか、こちらに敵意はあるのか、ないのか。
そのストレスにより、脳はまず我々が不快感と認識しているあの感覚を発生させます。相手に対して警戒心を抱くように。
次に、脳は危機へどう対処するのかを選択します。
「やぁ、どうも」とこちらから話しかけて、攻撃的な意思がないことを示すか。
相手から目をそらして無視し、その場をあとにしてやり過ごすか。
あるいは「テメー、さっきから何ジロジロ見てんだ」と因縁をつけて威嚇するか。
危機に対してどう対処するか、その選択傾向もまた生存戦略。つまりは性格です。
挨拶する人は社交的な性格、やり過ごす人は消極的な性格、威嚇する人は攻撃的な性格。
だいぶ簡単にはしょっていますが、つまりはこういうことです。
さて、危機への対処を脳は学習します。
「やぁ、どうも」と話しかけて相手と打ち解けられた人、つまりは危機を回避できた人は、それが何回か続くと同様の危機に対して同じ対応をするようになります。
元々あったはずの他の行動の選択肢は徐々に消えてゆく。社交的な性格は揺るがないものになります。
脅しつけて相手を追い払った人は、やはり同様の危機に対して同じ対応を繰り返すようになります。攻撃的な性格は揺るがなくなります。
では相手を無視した人はどうなるか?
同じです。同様の危機に対して同じ対応を繰り返します。相手を無視し続けるのです。消極的な性格は揺るがなくなります。
ではその性格でいつまで、次々と訪れる危機に対処できるでしょう?
電車や映画館の中であれば何の問題もないでしょう。周囲は見知らぬ人ばかりですが、だからと言ってそれがストレスにはならないですから。
しかし新しい学校や、職場ではどうです? 周囲は全員見知らぬ人です。ストレスだらけですね。
脳みそはこの危機に対して、やはり無視という選択肢をとってしまいます。
さて、職場の同僚達を無視し続けることがよい対処法と言えるでしょうか?
もちろん、言えません。
でも脳みそはすっかり学習しきってしまっている。「無視すれば問題はなくなる」。
本当はそうじゃない。無視すればする程、ストレスは増加していく。危機を解決できてない。
それでもどうしても、行動の修正が効かないんです。脳みそがそれを許さない。
「性格を直せ。もっとこんな性格になれ」なんて言う人もいますが、それはすでに完成された脳みその回路を作り変えろと言っているんですよ。
おわかりですよね? 精神論でどうにかできるような状況ではないんです。
何年も前に負った火傷の痛みが消えない人の話を聞いたことはありませんか? 傷は完全に治っていて、痛いはずなんてないのに痛むんです。
これは火傷を負ってから治るまでの数ヶ月の間に、絶えず脳のA地点からB地点へと『火傷が痛い』という信号が送られ続けた結果、そのAとBの間に太い道ができてしまい、そこを『痛い』という信号が往復するようになってしまったからなんです。脳のバグです。苦痛の回路です。絶対に間違っているのにどうすることもできない。
本人が望まない性格というのは、閉ざされた苦痛の回路なんです。
どうにかしなければならない。ずっと苦痛を感じて生きるなんて辛すぎる。
でもどうすればいいのか? そこなんです。
禁煙外来に通院しているのは、長年の喫煙生活でニコチン中毒になってしまっている方々です。
ご存知でしょうが、タバコを吸うと脳の中に快感物質が生まれてしまうんですね。聴いたことがあると思いますが、それをドーパミンといいます。
過剰といえるほどの快感が、タバコを吸うだけで脳を満たす。
禁煙が難しいのは脳がタバコから得られる快感にすっかり慣れてしまい、作り変えられてしまっているからなんです。
ですから、禁煙外来では脳に働きかける薬を処方しています。タバコを吸っても脳が快感物質をブロックして、タバコを吸っても気持ちいいと感じにくくするんですね。
感じ方を変え、習慣を変える。より良い行動ができるように脳の回路を調整する。
これをもっと広い範囲に応用したのが、今回 さんに治験をお願いするこの新薬、K-5087です。
一言でいうと、K-5087は性格を変える薬なんです。
前園は「どうだ、すごいでしょう!」と言いたげな顔をしていたな。
そして、また続けた。
K-5087を開発するため、我々は3,000人の20代から40代までの健康な男性を集めて、彼らに3D-
見知らぬ人と2人きりになった場合の行動。自分以外の全員がとても仲のいいグループと一定時間同室で過ごす場合の行動。明らかに自分に対して悪感情を持っている集団と一定時間同室で過ごす場合の行動など、主に対人関係においてストレスを感じるだろう環境を作り、彼らがどう行動し、その時脳がどう動いているのかを観察したんです。
最初のテストが終了した後、我々はストレス耐久が特に優れている人、つまり危機対処能力が高かった上位500人を選び、第2のテストを行いました。最初のテストよりストレスの高いテストです。
例えば医師から家族や自分の病気を告知された時の反応ですとか、家族が事故に巻き込まれたことを知った時の反応、買い物中に万引きの疑いをかけられた時の反応などです。ドッキリ番組みたいでしたが、実験参加時にきちんと『病院外でもストレステストは行われる』と説明していましたからね。法的には問題ありません。
テストと平行してテスト参加者の家族や恋人、友人や同僚と面談も行いました。
この面談の中で、実はさほど好ましく思われてはいなかったという可能性が高くなった人物は実験から除外。10年以上の付き合いの友人がいない人物も除外して、最終的に我々は実験参加者を230人にまで絞りました。
この230人は自己嫌悪に陥ることはなく、周囲からも好ましいと思われている、選び抜かれた本物の『好人物』です。
そこから更にストレス耐久テストと心理テストなどを重ね、我々は彼ら『好人物』が危機に対処する時の脳の動きを徹底的に分析したんです。
そうすると、脳のどこからどこに何が移動し、それがどんな効果を表すのか、一定のパターンがあることがわかってきたんです。
彼らの脳で起きているそのパターンを再現できるようになれば、誰しもが彼らのような『望ましい好人物』になれる。そうでしょう?
我々は脳がストレスを感じた時、脳の中に放出される神経伝達物質が彼ら『望ましい好人物』と全く同じように動く薬を開発しようと研究を重ね、そしてついに、それが形になったのです。
K-5087はいわば、あなたの脳をあなたにとって、そして周囲にとって好ましい動きをするようにアップデートしてくれるんですよ。
前園は看護師をちらりと一瞥してからこう言ったな。
「私は医者ではありませんから さんの病状がどういったものか詳細は知りません。ですが、もしも さんが自分自身に対して羞恥心を感じていて、『どうしてこんなことをしてしまうんだろう。こんなことはしたくないのに』と思っていて、それが強いストレスの原因になっているのでしたら、ストレスを感じないようにする薬を飲むのはなく、そもそもストレスに感じるようなことをしないようにする薬、K-5087のような薬を飲むべきだと思いますよ」
医者のやつ、お前の症状の詳細や片手で数えられる程度にしか受けてなかったカウンセリングで得た情報を前園にそのまま話してたんだろうな。医者の守秘義務ってのはどうなってんだかな。
兎にも角にも、お前はその後も前園の話を聞いた。
性格を変える夢の薬なんて嘘くさい話だが、人間は大きな嘘ほど信じるものだ。
お前は前園の話を信じた。
前園は特に重要なのだろう箇所を読み上げたり、冊子には書かれていないことを補足説明したりしながら、また「では次のページを」とお前に言った。お前は従った。
お前は途中、何度か前園に質問し、前園は全ての質問に笑顔で答えた。質疑応答のピンポンラリーだ。
「期間はどれくらいなんでしょうか?」
「全てスケジュール通りに進めば12ヶ月程ですが、途中で深刻な副作用の可能性が出てきたりすればもっと早い段階で中止になる場合もあります。 さん以外の治験に参加してくださっている皆さんに副作用がでた場合も、中止の可能性はあります」
「治験期間はずっと入院することになりますか?」
「そこは主治医の先生の判断になります。投薬を初めて症状が回復し、退院しても問題ないと主治医が判断した場合は、もちろん退院していただいて大丈夫ですよ。あとは週に何回か通院していただいて、薬の効果を確認させていただくことになるかと」
「治験に参加している間の入院費や通院に保険はききますか? あと大体どれくらい費用がかかるんでしょうか?」
「治験に参加していただいている間の入院費用と通院にかかる費用、これには交通費なども含みますが、これは全て我々が負担いたしますので、 さんにはご迷惑はかからないと。冊子の最後の方に病院までにかかる交通費を記載する欄がありますので、バス代や電車代をご記載くださいね。1回につき5,000円までは大丈夫なので、なんならタクシー使っちゃっても構いませんよ」
「副作用は『強い不安感』『他人に対する強い不信感』『自殺衝動』『断続的な嘔吐』『発熱』って書いてありますけど、これってどれくらいの確率ででるものなんですか?」
「確率……というとちょっと難しいですね。すいません。こういうのは本当に治験に参加される方の体質によるので、はっきりと何パーセントですとは言えないんですが……。そうですね、第II相試験に参加されたのは60人だったんですが、その内、発熱や嘔吐の症状が出たのは27人、不安感や他人に対する不信感を感じたのは14人、自殺衝動がでたのは1人ですので、まぁ、発熱と嘔吐の症状が出る可能性は高いですね。不安感や不信感を感じた方も多くいましたが、投薬を続けた結果、最終的にはこれらの症状はなくなりました。最後に自殺衝動ですが、こちらは参加されていた方が治験中に体調を崩してしまい、ご自宅で痛み止めの薬を飲んでしまったのが原因です。治験参加中は病院で処方される薬以外は一切飲まないでいただきたいと最初のページにも書いてあったと思いますが、これは本当に厳守でお願いします。いつも服用している市販薬でも組み合わせによって危険な状態になる場合もありますから。第2種医薬品、第3種医薬品、つまり健康ドリンクも飲まないように。あとレッドブルやモンスターエナジーなんかの多量のカフェインを含む飲料、アルコール類、肩こり用の湿布も避けてください」
「その自殺衝動に襲われた方はどうなったんですか?」
「治験からは外れていただいて、通常の通院治療に戻られましたよ」
お前は冊子の最後のページに挟まっていた誓約書にサインした。
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