自分ドロップ

千葉まりお

変なおじさん

 お前は34歳だった。

 

 全てをやり直すには遅すぎるが、全てを諦めるには早すぎる。

 そんな年齢だ。

 幼少期から積み重ねてきた様々な振る舞いが、具体的な形となって現れ始める。

 そんな年齢だ。そうだろう?

 中年の危機——そんな風に表現するそうだな。

 34歳のお前にぴったりの言葉だったが、お前は自分が中年と言われることを受け入れられず、この言葉を自分のものとして噛みしめられなかった。

 自分が子供ではないことはわかっていたが、大人だとも思えなかった。

 こんなにスネ毛ぼーぼーなくせに子供でいたいなんて、厚かましいにも程があるのに。

 ともあれ、お前の思う思わないに限らず、舟は進んだ。

 ライフ・マスト・ゴーオンだ。

 優れた娯楽作品の終盤よろしく、お前の人生の伏線回収が始まっていた。

 忘れていた設定が、当たり前だと思っていた行為の結果が、何気なく無下にしてきた些細な出来事が、満を持しての再登場。シーズン1からシーズン34までのあれやこれやが大集結だ。お前が何も知らずに放置していたコイキング。存在すら忘れていたそいつが、ギャラドスになってお前に破壊光線を食らわせる。

 20代の頃。夜中に食べたカップ麺や、コーラや、からあげくんや、ポテトチップスや、ビールの、決して褒められたものではない栄養成分が、肉の浮き輪となってお前の腹回りにまとりついた。お前の肝臓をフォアグラにした。コイキングからギャラドス。華麗な転身だ。パラニューク風に言うなら「私はお前の肝臓です。癌になってお前を殺す」、そうだろう? 

 深刻なのは浮き輪のでかさではない。お前もそれはわかっていた。深刻なのはお前の細胞の1つ1つが「カロリーisイズおいしーアーンドおいしーisイズ幸せイコール不幸ではない」と学習しきっていたことだ。


 言うまでもなく、その頃のお前の日々はゴミだった。

 お前はそれを自覚していた。

 だからお前は食べた。「=不幸ではない」を手に入れるためにだ。

 つかの間、お前はたん白加水分解物ぱくかすいぶんかいぶつと、加工でんぷんと、植物油脂と、チキンエキスによって自らの脳を殴りつけ、惨めな人生を忘れる。カップ麺1つ分、486kcal分のファストな忘却だ。部屋の電気を消して汚部屋が目に入らないようにさえすれば、汚部屋の存在はなくなったというような無様な逃避。

 もちろん、お前の汚らしい人生は灯りがあろうがなかろうが、超然とそこに存在し続ける。

 お前もそれをわかっていた。なんの解決にもならない。

 事態は悪化するばかりだ。バッドからアルティメットバッドへ。水もお前の人生も、高い方から低い方へと流れて行くんだ。ウォータースライダー。叫んでいるうちにプールにドボン。

 お前の人生はそういう感じだ。


 お前は「カイジ」も「アカギ」も「銀と金」も読めるのに、コメディのはずの「最強伝説黒沢」だけは読み進めることができなかったな。

 あれはお前だからだ。

 だが黒沢は前に進む。お前はアジフライを握りしめたまま身動きが取れない。油まみれの手では掴めるものも掴めなくなる。黒沢はお前を置いていった。

 お前に友達はいたか? 飯に誘える職場の同僚は? もちろん、いなかったよな。

 お前はそれを恥じていた。34年も生きて、他人と関係を築けなかったことを。

 お前は恥を忘れるため、事態を悪化させるだけだとわかっているのに暴食に走り、そして案の定、胃が満足したあとで自らの行為を恥じた。またこんなに食べちゃったって。

 バカなのか。

 お前はサン=テグジュペリの小説に出てくるカリカクチャライズされた人間の愚かさそのものだ。

 お前は多くの人に教訓を与える存在だ。

 「あの人お前のようになってはいけません」と。

 だがお前が、お前自身から教訓を得ることはない。

 お前は大きい葛籠つづらを選んだ強欲なばあさん。

 お前は焼けた靴を履いて死ぬまで踊る継母。

 お前は沈みゆく泥の船の上で泣き叫ぶ狸。

 今の時代の子供達には不向きとされ、新装版からは抹消される運命だ。

 「あの人お前のようになってはいけません」、まさに。

 

 伏線があり、結論がある。

 お前は自分の状況が突然もたらされた不幸などではなく、お前自身が招いたことなのだとわかっていた。

 もちろん、わかっていたとも。わかっていたのに何もしなかったのが問題なのだから。

 

 夜になるとお前はAmazonアマゾンのタイムセールで買った安いベッドに寝転がった。

 下着の中に手を伸ばして一発抜くのが恒例行事だったな。

 エロ本もエロ動画もいらない。お前の頭には行くあてのない精液が詰まっていて、それは魔法少女とエロ触手か、インテリ司書とエロ触手か、女戦士とエロ触手に姿を変え、お前の頭の中でそういった役割を果たすからだ。自家発電がお得意だよな。

 頭の中で、お前は魔法少女で女司書で女戦士だ。

 お前は女になって、感情のない存在に執着され、そしてそれらに取り込まれる。

 お前がそうなりたいからだ。お前は意思のない何かに強烈に欲情されたい。お前は食虫植物の中でとろける虫になりたい。必要とされたまま消化され、手遅れになりたい。

 お前の頭の中に詰まった行くあてのない精液は、時折、ウツボカズラの中で消化されるカタツムリに姿を変える。お前はナニをしごきあげ、消化されながら歓喜に触覚を震わせるカタツムリになって射精する。お前、狂ってる。今更だけど。


 抜いた後、お前は手についたザーメンをガビガビのタオルで拭き取ってから目を閉じた。

 お前はこうでもしないと眠れない。

 自慰は習慣だ。お前のライフスタイルだ。

 小6の夏。蒸れたパンツ。校庭の登り棒。この3つがお前を目覚めさせた。

 これが遅いのか、早いのか。普通なのか、そうじゃないのか、お前にはわからない。こういう話しで盛り上がれる友達なんてずっといなかったもんな。

 いや、ツイッターのフォロワーになら打ち明けられたかもしれない。

 ハッシュタグ初めてのオナニーとか、ハッシュタグ赤い実弾けた(性的な意味で)とかで、薄ら寒い連帯感で繋がれたかもな。

 よくお前に「いいね」をくれたあのアニメアイコンのバカや、お前に長文のリプライをくれた動物アイコンのクズや、あんまりTLにいない割に妙にネットミームに詳しい外人の俳優だかミュージシャンだかをアイコンにしてる間抜けが——絶対に鍵アカ持ってるぜ。お前を笑ってんのさ——お前の相手をしてくれただろうよ。


 最初は深く眠るための自慰だったな。

 例えば、クラスの班決めで1人だけどの班にも入れずにあぶれてしまった時の記憶がふいに蘇ってしまい、頭から離れず、そのまま眠れなくなってしまった夜。

 先生の「全員の班が決まるまで誰も帰れませんからね」という声が、クラスメイトたちの「またあいつかよ」っていう声が、「せんせー、1班が入れてもいいっていってまーす」「ばか! 言ってねぇよ! マジやめろよ!」という声が、「もー、男子。誰か入れてあげなよ。可哀想じゃん」という声が、「もうくじ引きで決めますよ! 嫌いだからって仲間はずれにしてはいけません! それはね、イジメなんですよ!」という声が、お前の頭の中で何度も繰り返し再生されてお前を殺そうとする時、お前はナニを握った。

 一発抜けば眠りやすくなる。射精と共にお前を殺そうとする笑い声は消える。

 笑えるよな。夜中にナニを握るのがお前の命綱だった。

 やがて、自慰をしないと眠ることもできないようになったな。

 嫌なことが多すぎた。忘れたいことが多すぎた。

 小学校、中学校、高校、大学、会社。

 学校、バイト先、ショッピングモール、コンビニ、映画館、電車、本屋、ドトール、大戸屋おおとや、なか、ワイズマート。

 お前は嫌な思いばかりした。どうしても周りから半テンポずれてしまう。目立ちたくないのに悪目立ちしてしまう。当たり前のことが、当たり前にできない。ずれる度に向けられる周囲からの白い目に、お前は削られてゆく。

 忘却が必要だ。逃避が必要だ。

 目をそらして、逃げなければならない。そうでもしないと生きていけないんだ、お前みたいな種類の人間はな。

 ファストな忘却。クレイジーな逃避。カップ麺を食べ、ナニを握って、お前はどんどんダメになる。

 ウォータースライダーだ。両手をあげて叫ぶんだよ。

 「わーい」

 「わーい。俺はこのまま狂って死ぬ。俺はこのまま再起不能になる。わーい」

 幸せだよな。お前の望みなんだから。

 お前はウツボカズラの中で溶けて死にたいんだから。


 自慰をしないと、お前はいつまでも布団の中で起きていて、スマートフォンを弄り、気がつけば午前3時だ。

 お前はいつも葛藤したよな。

 今から寝て、7時に起きれるだろうか? このまま眠らないでいた方がいいんじゃないか?

 お前は結局寝て、大抵は7時に目を覚ますことができたが、稀にヒルナンデスと共に目を覚ました。

 お前はとびきりのしわがれ声で会社に電話し、体調が悪すぎて連絡ができなかったのだと言い訳し、休みを取り付ける。

 電話を切ったあともお前は落ち着かない。

 お前は怖かったんだ。「お前あの人がいなくても問題ないね」と会社の人々に思われてしまうのが。だって、それは真実だからな。お前の仕事など、いくらでも代わりはいるんだ。

 

 あの人。あの子。

 お前はいつでも、どこでも、そういう存在だ。

 お前のことを名前で呼ぶ人間は親以外にいたのか?

 もちろん、いないな。わかっていて言ったんだ。

 お前が最後にあだ名で呼ばれたのは小学校の4年生。まぁ、「キモゾンビ」をあだ名で呼ぶとしたらの話しだが。

 中学に入ってからお前は、同級生からも教師からも一貫して「さん」付けで呼ばれたな。高校でも、大学でも、もちろん、社会人になってからもだ。

 苗字で呼ばれない場合はどうだっけ。

 そうだ。

 「あのあんまり喋らない人」「あのちょっとデリケートな人」「あのいつも1人な人」、そんな感じだ。

 お前はいつも、初対面の時が一番好感度が高い。お互いに相手をよく知らない状態であれば、お前は愛想笑いを浮かべながらそれなりの会話ができる。

 天気、仕事のたわいない愚痴、最近流行りの変わった料理に対するちょっと気の利いた一言。お前はそういうのが得意だな。

 ディスペンパックみたいだ。

 わからないか? それはおかしいな。お前が知らないわけがない。

 ディスペンパックだ。ディスペンパック。

コンビニでフランクフルトやホットドッグを買うと付いてくる、小さなプラスチック製の容器だ。中にマスタードとケチャップが入っていて、こう、パキッと2つに折るといい具合にマスタードとケチャップを手を汚さずにフランクフルトなりホットドッグなりにつけられるっていうやつ。元々は高層ビルの建設作業員のための切り傷用の塗り薬をいれるための容器だったってアレだ。そう、あれだ。思い出したな。

 お前の好感度は1回限りだ。またパラニューク風に例えてやってもいいが、脱線するからやめておこう。お前とこうしていられる時間もそう長くはないのだし。

 

 お前は他人と交流ができない。

 お前のコミュニケーション能力は完全に死んでる。パーフェクトデッドリー。

 お前は他人と関係を積み重ねることが出来ないんだ。

 次、また次、またその次と同じ相手と接触を重ねるたび、お前が作り上げた1回分の好人物は消えてゆく。安いメッキは剥がれていく。

 相手がお前の本性を見抜くのに、そう時間はかからない。

 気がつくんだ。お前が空っぽのディスペンパックだってことに。

 自分自身を冷静に分析できている、という点はお前の美点だったかもしれない。

 サリエリのようだな。確かな審美眼しんびがんを持っている。

 お前は、自分がどうしょうもない気持ち悪いはぐれ者だということを誰よりも深く理解しているんだ。

 小学校は卒業したが、お前は永遠にあの時間にいるんだ。

 黒板の前に1人立たされ、クラスメイト達から嘲笑されていた時間は、永遠に続くんだ。

 だから、お前は他人に自分を出せない。

 相手がまだお前をディスペンパックだと気がついていない時に、「土日は何してるんですか?」と聞かれても、お前はそこから会話を広げられない。

 素直に言えばよかったんだ。

 「最近は家で1日中Netflixネットフリックスを観てるよ。見始めるとずるずる海外ドラマ観ちゃうんだよね」とか。

 あるいは「やることないから1日スマートフォン弄ってるよ。デュエルリンクスが面白くてさー」とか。

 素直に言えばよかっただろう。

 でも、お前はそうしない。

 お前は自分の話しができないんだ。

 だってお前の人生は、お前の生活は、お前は、ゴミだから。知られたら嫌われてしまう。

 だから早口でこう答えるよな。

「うーん。特にこれと言ってないなぁ。そっちは土日何してるんですか?」って。

 お前は相手にばかり話させるな。それでいて自分は出さないんだ。

 相手の土日に興味なんてない。相手の人生にも興味なんてない。お前はただ、自分のことを聞かれたくないから話題をそらしているんだ。

 1週間もすれば相手は気づく。気づくに決まってんだろ。お前はお前以外の人間はただのバカだとでも思ってるのか。バーカ。

「この人は私と最低限の範囲ですら、仲良くなるつもりはないんだな」って。

 だからみんな、お前から離れていく。だからみんな、お前に挨拶以外で話しかけるのをやめる。

 みんな、大人なんだ。それぞれの生活がある。それぞれの人生がある。お前に構うくらいなら、そのエネルギーはもっと別のことに使う。

 例えば、お前以外の全員が知っていた会社のLINEラインでの気軽なおしゃべりとかにな。


 お前は直面した。

 お前はプロ野球選手にはなれない。なりたいとも思ってないが。

 お前はアイドルにはなれない。なりたいとも思ってないが。

 お前は映画スターにはなれない。なりたいとも思ってないが。

 お前は考古学者にはなれない。もちろん、お前はなりたくないのだが。

 お前は宇宙飛行士にはなれない。以下省略でいいだろう。

 お前はお前が年齢を重ねてゆきさえすれば当たり前のようにそうなれるに違いないと思っていたありとあらゆるものになれない。普通の人にすら、お前はなれなかった。

 夕暮れ時の朝顔のようにお前の可能性は萎び、地面に落ちる。

 1つ、2つではない。無数にだ。落下が終わることはない。

 

 お前はそれに歓喜した。お前は嬉しかったんだ。お前の可能性が潰れていくのが。

 心から、心から、お前は自分が腐敗していくのを喜んでいたんだ。

 お前はいつだって、完全に手遅れになりたかった。お前は上昇する可能性を全て排除したかった。お前は希望なんて絶対にいらなかった。

 だって可能性や希望があれば、お前が腐っているのがお前自身のせいになるから。

 全力で走れば遅刻しないで済む時間に目を覚ますくらいなら、お前はヒルナンデスの時間に目を覚したいんだ。

 そうなれば走らないで済むし、ついでにいえば、全力で走っても間に合わなかった時に自分の足の遅さや、目覚めの悪さに向き合わないで済むからだ。

 

 お前は34歳だった。


 お前の望んだ崩壊が、お前の欲望が、実現しようとしていた。

 お前はすでに限界を超えていた。お前は自分の崩壊を望んでいた。


 お前は独り言が増えていた。

 時々、卑猥な言葉や攻撃的な言葉が口から飛び出した。

 マンコ、チンコ、ボッキ、レイプ、ケツ穴、死ね、殺してやる、クソ。

 どうしてそんな言葉を言ってしまうのかお前にはわからなかった。

 だってそんなことを考えてないのに、そんな言葉が出てしまうから。

 最初はそう深刻だとは思わなかった。

 だって意識していればそんなことを言わずにすんだから。

 時々、電車から降りた時、会社から駅まで、あるいは駅から会社までの道を歩いている途中、息と一緒に言葉が漏れた。

 マンコ、チンコ、ボッキ、レイプ、ケツ穴、死ね、殺してやる、クソ。

 これらのどれかがランダムで。

 お前は慌ててくしゃみのような音を出して、「今のはただの妙なくしゃみなんです。変な風に聞こえた? 聞き間違いです」というような態度を決め込んだ。

 最初の頃はうまくいったが、次第に誤魔化せなくなってきた。

 やがて、お前は8時16分落合おちあい東西線とうざいせん各駅停車三鷹みたか行きの4両めの「いつもいる変な人」になる。

 卵アイコンがツイートする「今日もキチガイいたわぁ」のキチガイになる。

 どこかの会社のランチタイムや飲みの席で「なんかビョーキ? っぽい人が隣に座っちゃって。いきなり『チンポ』とか、あ、ごめんね。女性もいる席で。とにかく、そういうこと喋るんだよ。すごい怖かったから1回ホームに降りて、別の車両に移動しようとしたんだけど、東西線ってラッシュぎゅうぎゅうじゃん? 立ち上がることもできなくてさー。本当、参ったよ」なんて風に話される存在になる。


 お前は34歳。

 34年かけて、お前は『変なおじさん』になったんだよ、ダッフンダ。


 そして遂に。

 お前はやっちまった。

  

 13時12分。

 ランチに食べた汁から揚げ定食がお前の頭をぼーっとさせていた。

 お前は眠くて仕方なかったが、仕事はそこそこあった。

 お前は先方からのメールに添付されていたPDFピーディーエフデータが、横位置A4サイズになってコニカミノルタのカラーコピー機から出てくるのを待っていた。

 お前の後ろにはまだお前のことを先輩として扱ってくれる新入社員と、中途採用で入ってきたシステムエンジニアがいた。

 営業の半数はランチタイムが終わってもまだディスクに戻ってはいない。

 部長の「俺の好きないも焼酎じょうちゅう」の話しを会社側の大戸屋で聞いているのだとお前は思っていた。

 オフィスは静かだった。

 カラーコピーの音と、オフィスの端に設置されている自動販売機の振動音が聞こえるほどに。

 だからお前の独り言はみんなに聞こえた。


「マンコ」


 お前はみんなに聞こえる声でそう言った。

 恐ろしい沈黙。

 どうやっても取り消せない。

 お前は今更何をしても無駄だというのに口を抑えた。そして硬直した。視線を動かすこともできなかった。どんな顔をして誰を見ればいいのかお前にはわからなかった。ただ、視線は感じていた。みんながお前を見ていた。

 誰も何も言わず、凍りついていた。

 エレベーターが開いて、営業たちがフロアに降りてきた。お祭りじみた大騒ぎ。ふざけ合いながら、群れとなって歩く。

 お前はまた言う。

 「マンコ」

 営業たちの何人かが「え?」という顔をしてお前を見る。「え? 今なんて?」そんな顔。お前は口を閉ざそうとするが、無理だった。

 お前は繰り返す。


「マンコマンコマンコマンコマンコマンコマンコマンコマンコマンコマンコマンコ」


 庶務課の主任が歩いてきて、お前の肩を叩いた。

「大丈夫ですか? 気分が悪いんですか? そうですよね。朝からずっと顔色が悪かったですもんね。更衣室、今空いてますから、ちょっと休みましょう」

 お前より6歳も若いのにしっかりしてる。

 腕を引かれ、更衣室へと連れて行かれる間、お前は泣きじゃくりながらもまだ卑猥な言葉を連呼していた。それに勃起もしていた。

 お前はとうとう破滅した。お前が望んだ通りに。

 

 それで。

 お前は救急車に乗せられ、病院に連れて行かれた。

 診察、診断、診察、診断、診察、注射と投薬。

 お前の精神状態はカテゴリー分けされ、ラベルを貼られる。

 まとめサイトか何かで「あなたもこの病気かも? チェックしてみよう! 当てはまるものが10個以上あるなら心療内科へ! 早めの行動が適切な治療の第一歩!」なんて扱われているその病気にお前はなった。

「今はリラックスすることだけを考えてください。焦らなくても日常生活は元どおりに送れるようになりますし、誰にでも起きうることですから」

 そんな風に言われたな。

 お前は医者に何かを聞かれるたびに、こんな風に聞き返した。

「すいません、いつ退院できますか?」

「会社に連絡しないと」

「入院は強制じゃないですよね? 通院でもいいでしょう?」

「会社に行かないと。会社、行かないと、困るんです」


 お前は結局、1週間入院することになった。

 点滴に繋がれたお前に会いにきたのは、入社以来ろくに話しをしたこともない部長だけだったな。

「ゆっくりしなよ。幸い、使ってない有給がだいぶたまってるでしょ。しっかり直してから出社してね」

 優しい言葉をかけられたが、お前は会社が早くも中途採用の即戦力をリクナビで募集開始したのをスマートフォンで知っていた。

 家族は来なかったし、友達も来なかった。父は脳卒中で、母は乳がんで、とっくにこの世にはいなかったし、友達はそもそもいない。 

  

 病院に運ばれる前まで、お前はこれを「終わり」だと思っていた。

 会社で発狂して、病院に連れて来られ、そして「あんたビョーキだよ」と言われて、それでエンディングだと。そこから先はもうないのだと。

 だが、病院の天井を見つめながらお前は思い知った。

 これに終わりはない。これからも死ぬまでずっと続く。誰も幕を下ろしてはくれない。

 そう。ウォータースライダーはまだまだ終わらない。まだまだずっと落ち続ける。底が見えない。


 お前は大声で泣いた。

 うわー。

 うわー。

 うわー。

 助けてー。誰かー。助けてー。嫌だー。助けてー。死にたい。死にたい。誰かー。死にたいー。うわー。

 医者と看護師がやってきて、「大丈夫ですか? お話できますか?」と優しく尋ねた。

 お前は「あああああ」としか答えられない。

 「ああああああ俺は、おれは、あああああああどうしようああああああももだいじょうぶああああだいじょうぶ、ねるねる、もうねる、ねるから」

 お前はそう言い、布団を被って眠った。

 うん十年振りにシコらなかった。

 ウツボカズラに食われる夢を見たが、そこに癒しはなかった。

 お前はウツボカズラの中で液状化するが、それでもなお意識があり、苦しみは続くという夢だった。お前は逃げ場を失った。

 

 お前はすっかり老け込み、食事もろくに食べず、ただ1日中「死にたい」と願って病院での時間を過ごした。泣いてばかりいた。

 医者が出した気持ちが塞ぐ時に飲むと落ち着けるという薬を飲むと、脳みそが動かなくなるように感じた。

 お前は薬を飲んでいるふりをしてゴミ箱に捨てたが、薬を飲まないとお前はまた「うわー。うわー。苦しいよぉー。死にたいよぉー 」と叫び出すので、すぐに薬を飲んでいないのはバレてしまった。

 お前はカウンセリングにも非協力的で、苦しんでいるくせに自分をどうしたいのかわかっていない状態だった。

 回復したいのか、したくないのか。生きたいのか、死にたいのか。

 ズルズルと入院期間は延びていた。1週間から2週間。2週間から3週間。


 4週間めに入ろうという日、医者はお前に新しい薬を使うと決めた。

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