『蜘蛛の巣』行

 これは僕が実際に体験した、都市伝説のような話だ。

 三月の頭にやっとのことで就職が決まった僕は、それまでの苦労を自ら労う為に一人旅をすることにした。バイト先の先輩が嬉々として話していた宮崎県の高千穂峡。国内便の飛行機に乗って一人で行くのは初めての事で少し緊張したが、二泊三日の一人旅に僕は浮き浮きした気分だった。予定を立てるのが苦手だったがパッケージ旅行では一人旅の自由が損なわれると思ったので、事前に電車やバスの時刻程度は調べておいた。

 一日目は適当に宮崎市に宿をとり、グルメを楽しんだ。みやざき地頭鶏だの、チキン南蛮だのと酒との相性は抜群だ。とは言え蒸留酒は苦手なので銘品の焼酎などは飲めずじまいだったが。旅の恥はかき捨てと、宮崎の女性をナンパでもできれば良かったが、僕の出来ることと言えば、呑み屋で働くバイトの大学生らしき女の子と話すくらいのものだった。

「へぇ、茨城から……茨城って、東北でしたっけ?」

 ジョークなのかと思ったら意外と本気にそう思っていたらしい。


 宮崎市から高千穂峡へは列車を乗り継いで数時間かかる。自動車でも借りられればもっと自由に動けたのだろうが、自動車での移動では観光ついでに飲酒ができないと思い、公共交通機関を利用することにした。

 朝早くに宮崎市を出て始発かその次くらいの特急列車に乗る。最寄りの駅に着くと、高千穂峡行の観光バスがあった。観光バスと言っても、町内を巡るついでに高千穂峡にも向かう、という感じの各駅停車のようなバスだった。バスのドアは開いていたが、運転手はいなかった。有名な観光地だと思っていたが、特にイベントもない三月の平日に、バスを使って観光しようという物好きはほとんどいないらしい。閑散としたバス停には数人の登山装備をした人に、バスセンター前の弁当屋の店員が朝食を売り込んでいた。

 あまりの人少なさに不安を覚えた僕は、運転手がバスに戻るまで待ち、ようやくやって来た運転手にわざわざ行き先と運賃を確認し、ようやく乗り込んだ。後ろ側の扉、その正面より少し後ろの席に座ると、発車ギリギリの時間に老人が二人ほど入ってきた。運転手に挨拶をし勝手知ったる様子で席に座る様子を見ると、地元の人なのだろう。

 バスはしばらく町内を通過していく。平日の朝、それも出勤時間、登校時間をほんの少し過ぎた時間だ。人はほとんど見られなかった。いつの間にか二人の老人もバスを降り、僕は運転手と二人になった。

 そこに、一人の女子中学生が入ってきた。

 いや、正確に言うと女子中学生かどうかは分からない。紺色の制服に学校指定だろうスクールバッグという服装だけなら女子高生と言っても通用するだろう。入って来た女の子を女子中学生だと思った理由は、あどけなさが残る背格好もあったが、制服の胸ポケットに名札がついているのを見たからだった。

(名札か、それなら中学生かな)

 高校生になって律儀に名札をつけるのは稀だ。例え学校指定の名札があろうと、時と場合を考える。

(それにしても不用心だ)

 曲がり形にも観光バスだ。名札の名前を確認することで悪事を企む人間が現れないとも限らない。

(例えば、名札を確認して声かけをして、あわよくば仲良くなろうなんて考える人がいたりとか、ね)

 女子中学生は通路を挟んで僕の隣に座った。既に名前は確認してある。あまり聞いたことのない苗字だったが、読めないことはない。後は普通に話しかければいい。

「ねえ、椎葉さんっていうんだ、この辺の子?」

 通路越しに話しかけると、女の子は驚いたようにこちらを見た。それから笑顔を見せて答えてくれた。

「おはようございます。そうです、この辺りに住んでいます」

「そうなんだ、それじゃあこの辺りに詳しいのかな。ちょっとお兄さんに教えてくれる?」

「ええ、構いませんよ」

 その答えを聞いて、僕は女の子の隣へと席を移動した。宮崎県について、常識的な事を聞くと、女の子は楽しそうにハキハキと答えてくれる。見知らぬ異性にこれだけ流暢に会話が出来る中学生に珍しさを覚えて、すっかり話に花が咲いた。

「高千穂峡は天孫降臨の地、と言って、あ!天照大神って知ってますか?」

「知ってるよ。ひきこもりの神様だね」

「違いますよぉ、まあひきこもってそれを天鈿女命の踊りで……」

 聞くところによると、女の子が通う学校では、総合的な学習の時間に地元の調べ物をするようで、ちょうどその女の子のグループは高千穂峡について調べているらしい。

「凄いね、色々調べたんだ。僕よりずっと頭いいよ」

「そんな、調べてるうちに楽しくなっただけですよ」

 実際、会話の端々に頭の良さが滲み出ている。学校では才女で通っているのかもしれないな、と僕は思った。

「あ、そろそろバスを降りなきゃ……」

「ありがとうね、椎葉さん。でももう少しお話したかったなぁ……そうだ」

 少しわざとらしいか、と思いつつ僕はスマホを取り出した。

「ねえ、アドレス交換しようよ」

「良いですね、私ももっとお話できたらな、って思ったので」

 女の子は窓際に置いたバッグを開けて中を漁る。瞬間、ふとこちらを振り向いた。

「……なんて、簡単に交換すると思いました?」

「ん?」

「私、どう見ても中学生ですよね?何で、この時間にバスに乗ってるんですか?もう一時間目は始まっている時間ですよ?」

 バッグのファスナーを閉じて、女の子は僕を真正面から見つめた。

「大体この名札だって普通つけませんよね、町内の停車場に止まると言っても、観光バスなんですから」

 女の子が口の端を歪につり上げて口元だけが邪悪な笑みを形作ると、僕の首筋が粟立った。

「例えば、ここで私があなたの苗字を当てるのも面白いんですが」

「何を言っているのかな?僕の苗字なんて分かるはずないじゃないか、椎葉さ」

「近藤圭一さん、ですか。良い名前ですね」

 歪んだ邪悪な笑みが、目元まで広がっていく。僕は先ほどまでの会話を必死に思い返していた。自分から名前を言う事はしなかったし、女の子が何か不審な動きを見せることもなかった。それでも、僕の名前を言い当てられた、という事実に言いようのない恐怖が全身を強張らせる。

「ああ、ちょっと揺れるのでまだ立たないでくださいね」

 言うが早いか、ガクンガクンとバスの車体が揺さぶられる。

「さあ、圭一さん。今ここでアドレス交換をするとあなたにどのような不利益があるか、考えてみましょうか」

 会話の端々に見せていた頭の良さは、全く事実だったのだ。女の子はその頭の良さゆえに会話も流暢だし、頭の良さゆえに状況を自らに利する方法を心得ている。このバスは女の子にとって『蜘蛛の巣』のようなものなのだ。いつの間にか絡めとられて、恐怖で思考が竦んだ立場の弱い男を食い物にする。アドレス交換することによる不利益は、この女の子に食い物にされるということだ。

「さあ、アドレス交換しましょう」

 女の子は、女神のような形相で、制服の上着のポケットからスマホを取り出した。

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嫁の飯が不味いから 雷藤和太郎 @lay_do69

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