第14話 不安な一夜

 夕方、仕事を終えて帰ってきたケンタが、床に倒れているおっかぁを見つけた。

「ななこ!ななこ!どうしたんや!ななこ!」

 ケンタはおっかぁを抱き起して揺さぶっていたけど、おっかぁは動かなかった。腕がだらんと床に伸びていた。僕も鼻を鳴らしておっかぁを呼んだ。

 10分後、ケンタが呼んだ救急車がやってきた。ケンタはおろおろしていて、救急隊員のおにいさんたちにも、状況をうまく説明できていないようだった。やがて、おっかぁは運ばれていった。僕はおっかぁに、吠えて呼びかけた。「おっかぁ!僕、待ってるからね!絶対帰ってきてね!」と。

 部屋に残ったケンタは、携帯電話でどこかに電話し始めた。

「あ、もしもし、俺や。うん、うん、ななこがな、自殺未遂しよってん。今、救急車で運ばれていったわ。うん、うん、いや、ちょっと喧嘩しただけなんやけど。まさかやで。迎え?行かへんわそんなん。タクシー代もったいないやろ。救急車の人も、致死量じゃないからって言うてたし。そやな、うん。あ、それと、今月も1万円ぐらい貸してくれへんか?給料出たら返すし。うん、すまんなオカン。じゃあ」

 電話を切ったケンタは、いつものようにパソコンに向かった。そして、いつものようにゲームを始めた。僕は、おっかぁがどこに行ってしまったのかもわからず、いつ帰ってくるのかもわからず、不安で寂しくて、おっかぁの匂いがする枕の上にうずくまっていたんだ。


 朝方、5時くらいだろうか。玄関で物音がした。僕はすぐに起き上がった。

「ゴマ次郎」

 おっかぁだ!おっかぁが帰ってきた!

 おっかぁは、一緒に玄関先までついてきたタクシーの運転手さんにお金を払うと、足元でぴょんぴょん飛びつく僕を抱っこしてくれた。

「靴がなかったから、病院のスリッパで帰ってきちゃった。心配かけてごめんね」

 僕はひんひん鳴いた。おっかぁがもう帰ってこなかったらどうしようかと、心細くて仕方なかったんだ。おっかぁの顔を舐めて、「もうどこへも行かないで」とお願いしたんだ。

 おっかぁは部屋の中に入ってくると、ベッドでいびきをかいて寝ているケンタを見た。そして、今まで聞いたことがないような冷たい声で、「ケンタ、起きて」と言ってケンタを起こした。

 おっかぁは椅子に座って、ケンタはベッドに腰かけた。「もう別れよう。これ以上は無理だわ」と、おっかぁは言った。ケンタは「えっ」と、寝ぼけ眼をぱちぱちさせた。

「別れるなんて、そんな、俺、仕事始めたばっかりやん。これから頑張ろうって思ってたのに、そんなん言うなや。俺が言いすぎた。ごめん。悪かった」

 ケンタがすがるように言うのを、おっかぁは黙って聞いていた。僕は、おっかぁとケンタを交互に見た。するとおっかぁは、ため息をついてたばこに火をつけた。

「おっかぁ、ぜんそくの発作が出ちゃうよ」と、僕はおっかぁの膝に両手を乗せて訴えたけど、おっかぁは深く煙を吸い込んだ。そして、案の定咳き込んだ。

「どいて。疲れたから、寝る」

 おっかぁはそう言って、ケンタの腕を掴んで立ち上がらせると、ベッドに横になった。ケンタもベッドに入ろうとしてきたのを、僕が場所を陣取って邪魔してやった。

 いつもならお弁当を作っている時間になっても、おっかぁは起きてこなかった。ケンタは「なぁ、ごめんって」と仕事に行く準備をしながらおっかぁに言っていたけど、やがてしぶしぶ出勤して行った。

 僕はおっかぁの肩に顎を乗せた。するとおっかぁは、静かに話し始めた。

「病院でね、おなかの中を空っぽにする処置をしてもらったから、早く目が覚めて帰ってこれたんだ。目が覚めたとき、もしかしたらケンタがそばにいるかも、って思ったけど、やっぱりいなかった」

 おっかぁの眼尻から、一筋、涙が流れた。僕はそれをいつものように舐めたんだ。

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