第13話 未遂

 おっかぁの鬱病は、なかなか良くならなかった。僕はおっかぁの笑顔が見たくて、必死で芸を覚えた。お手、おかわり、お座り、おねだり(二本足で立ちあがって上下に前足をこすり合わせる)、これらをやると、おっかぁは少しだけ笑っておやつをくれた。

 朝、昼、晩、寝る前と、休む間もなく薬を飲んでいるせいか、ぼーっと魂が抜けているような時も増えたし、集中力が落ちたようで、昼の仕事もミスばかりしているようだった。

 ただ、僕のご飯とお散歩だけは忘れずにいてくれた。お散歩をすると、おっかぁも気分転換ができるようで、僕らはベンチを見つけては座って休み、おっかぁは僕の体をブラッシングしてくれたりした。


 ケンタが、重い腰を上げて就職を決めた。アパートの近所にある、除雪器具を扱う会社らしい。おっかぁは喜んだ。毎日、ケンタの作業服のアイロンをかけた。

「ゴマ次郎、ケンタがね、今日仕事で怒られちゃったんだって。新入社員なんだから、仕方ないのにね」

 ケンタが働き出して2週間くらいした頃、おっかぁは仕事の量を減らしたい、とケンタに申し出た。ケンタの稼ぎも入ってくれば、昼夜働かなくても何とかなるし、実際ぜんそくのほうも鬱のほうも症状が思わしくなかった。すると、ケンタはこう言い捨てた。

「俺は、ななこの働きバチになるつもりはないからな」

 ケンタは、自分の遊ぶ金欲しさに、就職したようだった。その夜、おっかぁは声を殺して泣いていた。僕は、おっかぁの涙を舐めてみたけど、おっかぁは肩を震わせて泣き続けた。

 

 それから半月ほど経った頃だ。おっかぁは、体がどうしてもだるかったようで、昼の仕事を休んだ。僕は心配で、ベッドで横になっているおっかぁの枕元で様子を見ていた。

 お昼過ぎになって、おっかぁの携帯にメールが届いた。ケンタからだった。おっかぁはゆっくりした動作で携帯を開いた。僕も画面を覗き込んだ。


『俺が働きに出たら、そうやって仕事休んだりするんやな。やっぱり俺は働かないほうがよさそうやな。じゃないと、ななこが堕落するわ。怠け者になるわ』


 おっかぁの手から、携帯電話が滑り落ちた。そして、目からはみるみる涙が溢れてきた。

「ゴマ次郎、おっかぁは、怠け者だったのかな。おっかぁは、おっかぁは…」

 おっかぁは、布団に潜り込んで、声をあげて泣き出した。僕は慌てて、布団の上に飛び乗ると、「おっかぁ!出てきて!出てきて!」と前足で引っ掻いた。

 急に、おっかぁの鳴き声が止んだ。そして、ゆっくりとした動作で起き上がると、机の前の椅子に腰を降ろした。まるで幽霊のようだった。

 おっかぁは、病院から処方されていた薬を全部机の上に出すと、ぷちぷちと音をたてながら取り出し始めた。僕が見ていた限りでは、おっかぁが毎日飲んでいる薬の量は、僕が夏場に毎月飲まされるフィラリアの薬の何十倍も多かった。

 薬を出し終えると、おっかぁは飲みかけのペットボトルのお茶で、数回にわたってすべての薬を飲み始めた。そんなに多い量の薬を飲んだらどうなるか、僕にはわからなかった。

 続けておっかぁは、冷蔵庫で冷やしておいたワインのボトルを持ってきた。いつもはコップに入れて少しずつ飲むのに、今日は瓶から直接ごくごくと飲みだした。


 10分ほど経つと、おっかぁの体がぐらぐら揺れ始めた。そして、床に座って僕を抱きしめると、こう言った。

「ごめんねゴマ次郎。おっかぁ、疲れちゃったから、ちょっと眠るね…」

 おっかぁは、眠ると言ったのにベッドには入らず、僕を抱えた体制で動かなくなった。僕はただ事ではないことを察知して、必死でおっかぁの顔を舐めた。動かない。袖を口にくわえて、左右にぶんぶんと振り回してみた。無駄だった。背中に乗って、前足でかきむしったが、おっかぁはピクリともしなかった。

 

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