第12話 鬱
ある日、おっかぁは「病院に行ってくる」と言って支度を始めた。ケンタが「どこの病院?」と聞いても、おっかぁは返事をせずに出て行った。
3時間ほどして帰ってきたおっかぁは、「ゴマ次郎、待たせてごめんね。お散歩行こう」と、いそいそと僕にハーネスを装着すると、いつもの美香保公園まで一緒に歩いた。
僕はお散歩中、いつもおっかぁより一歩先に進むけれど、頻繁に振り返っておっかぁがちゃんとついてきているか確認するのが癖だった。この日も振り返り振り返り歩いた。おっかぁは、生気の無い顔で、とぼとぼと僕について歩いていた。
ベンチを見つけると、僕はおっかぁが何か話してくれるかもしれないと思って、ぴょんっと飛び乗った。そして、おっかぁに座るよう目で合図した。
「おっかぁね、鬱病なんだって」と、おっかぁは座るなり言った。「過度のストレスが原因だって言われたよ」
僕はおっかぁの手をぺろぺろ舐めた。おっかぁは僕の頭を撫でながら続けた。
「ゴマ次郎、おっかぁは精神病院に行くのなんか初めてで、すごく怖かった。でも、今日診てくれた先生が、よく勇気を出して来てくれましたね、って言ってくれてね。おっかぁがため込んでいた愚痴を、全部聞いてくれたんだ。しばらくは通院してお薬を飲まなきゃならないけど、その先生がね、可愛いワンちゃんの為にも一緒に治していきましょう、って言ってくれたの」
おっかぁは、そっと僕に抱き着いてきた。
「おっかぁは、負けないよ。ゴマ次郎、そばにいてね」
僕もおっかぁに寄り添った。どんなことがあっても、僕は絶対おっかぁから離れない、そう改めて誓った。
おっかぁは、ケンタには気づかれないように薬を飲んでいた。「何飲んでるんや?」と聞かれても、「胃薬」と答えていた。
ある夜、ケンタがベッドで熟睡していると、おっかぁはそれを確認してから起き上がった。そして、ローボードの上に置いてある、ケンタの携帯電話を手に取った。
おっかぁは、携帯電話を開けたり閉めたり、しばらく躊躇していた様子だったけど、意を決したように頭を左右に振ると、ケンタの携帯電話を調べ始めた。
おっかぁは、着信履歴やメールを確認しているようだった。やがて、おっかぁの手が震え出した。
これはあとからおっかぁから聞いた話だけど、ケンタは男の人の名前で登録したアドレス宛に、頻繁に電話やメールをしていたようだった。でも、メールの文章に「あたしケンちゃんのことだーいすき」とか「この前行ったホテルすごく綺麗で楽しかったね」と、どう考えても相手は女の人のようだった。
おっかぁは、ケンタを責めなかった。ケンタはまだ20代になったばかりで遊びたい盛りだし、女遊びも飽きたら自分のところに戻ってくると思ったようだ。
おっかぁは、夜眠れなくなる日が増えてきて、眠れる薬を飲むようになった。
小雨が降っていたある夜、おっかぁは昼の仕事が長引いて、夜のアルバイトに遅刻しそうだった。ありあわせの物で夕食を作り、自分の身支度をしていた。そして、ケンタに言った。
「ケンタ、悪いんだけど、ゴマ次郎の散歩に行ってくれる?おしっことうんちをしたらすぐ戻っていいから」
「外、雨降ってるやん」
「小雨だから、合羽着せてやって。帰ったら拭いてあげるから」
「嫌やわ。ゲームの友達と待ち合わせしてるからもうすぐログインせなあかんし」
「一日中ゲームしてるんだから、ちょっとぐらい家のこと手伝ってよ」
すると、ケンタが大きな声で怒鳴った。
「ゴマジロは、ななこの犬やろうが!なんで俺が散歩する義務があんねん!」
それを聞いたおっかぁは、髪を巻いていたドライヤーを机にたたきつけた。鏡から顔を離し、大きな声でケンタに言った。
「じゃあ、アンタが暮らしてるこの部屋は誰のもの?あんたが遊んでるインターネットは誰の名義?仕事もしないで、お金がなくなれば実家の親から送金してもらうとか、親も親ならアンタもアンタだよね」
「やりたい仕事がないけん、仕方ないやろうが!」
「ゴマ次郎のことは、もう2度と触らないで!散歩にも行かなくていい」
おっかぁは僕を抱っこすると、クレートを持って部屋を飛び出し車に乗った。そして、夜のアルバイト先に僕同伴で出勤した。マスターはあきれ顔だったけど、僕はクレートに入れられ、カウンターの下でおっかぁの仕事が終わるまでじっと待つことになった。
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