第2話 桃とタケル
「なあ、相沢桃ってレズなのか?」
渡り廊下で呼び止められて、突然そう聞かれた。
顔は知っている男子だった。確か隣のクラスのはず。その男子は緊張した面持ちで私の答えを待っている。彼がどんな返事を待っているのか、本当は何を知りたいのか、私にはよく伝わってきた。
「レズじゃないわ」
彼の緊張がさらに強まった。
「じゃあさ、彼氏……、いるのか」
「いないわ」
「じゃ、じゃあさ、頼みたいことがあるんだけど」
私は何も気づいていないふりをして首をかしげてみせた。
「相沢にさ、伝えてほしいんだ。付き合ってほしいって」
ツキンと胸の奥に痛みが走った。
翌日、私は生まれて初めての眼鏡をかけた。視力はそこまで悪くなかったけれど、私にはこれから眼鏡が必要になるから。
「わあ、小雪が眼鏡だあ。どうしたの? すっごく似合ってるねー!」
いつもの路地でいつもの時間に、桃は私に向かって駆け寄ってきた。抱きついてキスをせがんで顔を上げる。私は桃の肩に手を置いてそっと押し返した。
「小雪?」
「だめよ、桃。眼鏡がぶつかるからキスはできないわ」
「なに言ってるの、眼鏡なんか外せばいいじゃない」
桃は唇をとがらせて文句を言った。ぷるんとしたその唇に触れたくて、私は口を開きかけた。けれど眼鏡をきちんとかけなおして横を向いてみせた。
「もう、キスはおしまいにしましょ。私たち、子どもじゃないんだから」
「小雪、なに言ってるの?」
私は桃を視界に入れないように意味もなく空を見上げた。梅雨入りしたばかりの空はどんよりと曇っていて生ぬるい風が吹いている。
桃が私の腕にすがりつく。やわらかな手のひらが私の腕をぎゅっと握る。その手は私のものなのに、私だけのものであって欲しいとずっと思っていたのに。
「女同士でキスするのって恥ずかしいでしょ。桃もそろそろ人目を気にした方がいいわ」
「なに言ってるかわかんないよ、小雪。桃はぜんぜん恥ずかしくなんかないよ」
桃が私の腕をぐいぐいと引っ張る。桃の目を見ないようにするのは悲しかった。今すぐ抱きしめたかった。けれど私は唇を噛んで耐えた。
「大人になりなさい、桃」
腕を振りほどいた私を、桃は睨んだ。
「いじわる言う小雪なんか嫌い」
「そう。それじゃあ、渡辺君が喜ぶと思うわ」
「渡辺? 誰それ」
小雪はむくれたまま、それでも私のそばにいる。私はあずかっていた手紙をカバンから取り出して、桃と私の間になんの飾りもない実用的な封筒を突き出した。
「渡辺君からよ。返事を聞かせて欲しいって伝言も頼まれた。どうする、桃? 渡辺君、いい人よ」
桃は私の目の前で手紙を開けて、ざっと目を通した。
「桃のこと好きだって書いてあるよ」
「ええ、そうね」
「小雪はいいの? 桃が渡辺ってやつのこと好きになってもいいの?」
私は桃の目から逃げようと、足元を見つめた。
「いいんじゃない? 彼氏がいる人ってみんな幸せそうだもの」
桃の目がきつくなった。ああ、怒ってる。心底から怒った桃なんて初めて見た。
「わかった。付き合うって伝えて」
今まで聞いたこともないような低い声で言い捨てると、桃は私を置いて歩いて行った。その背中に思わず伸ばしそうになった手を、ぎゅっと握りしめる。
私はいつまでも遠ざかっていく桃の背中を見ていた。
その日から桃と渡辺君は付き合いだした。放課後には私たちの教室に桃を迎えに渡辺君がやってきた。桃は弾けるような笑顔で渡辺君に駆け寄り、腕を取った。
「タケル、お待たせ。帰ろ」
教室中が水を打ったように静かになって、何人かのクラスメイトがちらりと私に視線を投げかけた。私は何も気づかなかったふりをして帰り支度を続けた。
桃は渡辺君の腕にぶらさがるようにして抱きつく。渡辺君は顔を真っ赤にしていた。嬉しそうな顔は今にも溶けてしまいそうだった。
その幸せを、私は自分から手放したのだ。もう二度と私のものにはならないのだ。目を背けて二人を見ないようにして、私は教室を出た。
美術室からは校門がよく見える。眼鏡をかけた今はもっとはっきりと見通せてしまう。私は桃と渡辺君が校門を出て姿が見えなくなるまで見つめていた。
意地汚い。私は本当に意地汚い。自分で桃を突き放しておいて、渡辺君を恨んでいる。渡辺君が桃のことを好きになんかならなければ私はずっと桃といられたのにと恨んでいる。
そんな気持ち、八つ当たりでさえない、恐喝のような言いがかりだとわかっている。こうなることはわかっていた。生まれて初めて人を憎むことになるだろうことは、わかっていたのだ。でももう耐えきれなかった。叶わない恋心を抱えたまま桃にキスすることに。
二人が消えたあとの校舎は急に冷えたように感じて、私は自分の肩を抱いた。
「須藤さん」
後ろから呼ばれて振り返る。誰もいないと思っていたのに、美術室の戸口に桜井君が立っていた。
「今日は部はお休みじゃなかった?」
桜井君に聞かれて、私は作り笑いを浮かべてみせた。
「間違って来ちゃったの。桜井君は?」
「俺は須藤さんを探してたんだ」
「私を?」
桜井君はじっと私を見つめつづけた。何かを思いつめたような瞳は痛いほど私の目を焼いた。私は目をそらすことができなくて、私たちはしばらく見つめあった。それは見つめあう、というよりも睨みあうと言った方がいいような鋭さを持った数瞬だった。
「キスさせてくれないか」
「キス?」
同じ美術部にいるけれど私は桜井君のことを顔と名前くらいしか知らない。だけど眼鏡をかけて黒髪が長めの優等生タイプの桜井君が、キスなんて言葉を親しくもない女子に向かって口にするのが、なんだか意外な気がした。しかもなんで私と?
その疑問は桜井君の言葉で私の胸の中で凍り付いた。
「相沢桃と、間接キスさせてくれないか」
驚いた私は何も言葉を返せなかった。同じだ。桜井君も、私と同じなのだ。ずっと隠してきた気持ちを、今日なくしてしまった。
桜井君が行動を起こすのがあと少し早かったら、きっと桃は桜井君と付き合っただろう。私にとっては誰でも良かったのだ。桃を私から連れ去ってくれるなら、桜井君でも良かったのだ。
そう思うとなんだか申し訳ない気持ちがして、それと同時に彼の中にもう一人の自分を見ているような悲しい気持ちになって、私はうなずいた。
桜井君は黙って私に近づくと、そっと肩に手を置いた。その手が小さく震えていることに私は気づかないふりをした。いつもそうだ。私は何もかも知らぬふりをして、そうして後悔ばかりを抱えて生きている。桜井君は後悔しないために、今、ここに来たのだ。きっと、私が隠してきた桃への気持ちも、渡辺君に感じている筋違いの憎しみも、何もかも彼は知っている。だって彼は私とそっくりだから。彼は同じ気持ちを感じているから。
私は目をつぶって顔を上向かせた。少し背の高い桜井君の顔が近づいてくるのを感じた。じっと待っていると桃とキスするときの感覚が唇によみがえる。この感覚を、桜井君は知りたいのだ。私は肩にかかった桜井君の手のひらの温度に親しみを感じた。教えてあげてもいい。一緒に桃のことを忘れてくれるなら。
こつん、と軽い衝撃を眼鏡に感じた。目を開けると眼鏡のむこうに桜井君の瞳があった。眼鏡がぶつかったのだ。私たちの唇の間には二つの眼鏡が作った十五センチの隙間が、越えられない川のようにきっぱりと存在した。それは自分達と桃の間にある越えられない隙間だった。
桜井君は驚きすぎて動けないようで私の肩をつかんだままじっとしていた。なんだかすごくおかしくなった私の口からクスっと笑いが漏れた。桜井君の頬が緩んで彼も笑った。私たちはいつまでも、眼鏡越しに見た自分の影を笑い続けた。
翌日から毎日、桃と渡辺君は仲睦まじく一緒に登校してきて、一緒にお昼を食べて、一緒に帰っていった。私は今まで自分がいたその場所を見るのがつらくて視線を逸らす。
なのに、自分が知らないところに桃がいることが信じられなくて、桃の居場所をつきとめたくて、つい顔を向けてしまう。そして桃の隣にいない私を、一人きりで立ち尽くす私を発見して歯噛みするのだ。
「須藤さん」
美術室の窓から未練たらしく桃を見つめていた私に、桜井君が近づいてきた。
「良かったら一緒に帰らないか」
「え?」
振り返った私と目が合うと桜井君は気まずそうに頭をかいた。
「いや、なんとなく言ってみただけ。いいんだ、気にしないで」
踵を返そうとする桜井君に呼び掛けた。
「いいよ、一緒に帰ろう」
私の言葉に桜井君は顔を上げて微笑を浮かべ、ほっと息を吐いた。
二人で、桃と渡辺君が通った跡をつけるように慎重に歩く。私と桃の家はすぐ近くなのだから同じ道を通るのは当たり前なのに、なぜか悪いことをしているような気がする。桜井君も同じ気持ちなのか、私たちは一言も話さず道を進んだ。
「離してよ、バカ!」
いつもの路地から桃の叫び声がした。私は考える間もなく駆け出していた。路地を曲がった瞬間、桃が渡辺君の頬をひっぱたいたのが見えた。桃は後ろも見ずに走って行ってしまい、残された渡辺君は頬を押さえてうつむいてしまった。
今さら姿を隠すわけにもいかなくて、私は渡辺君に歩み寄った。
「大丈夫?」
渡辺君は私に気付くと寂しそうに笑ってみせた。
「相沢はさ、俺とはキスしたくないんだって」
私は何も言うことができなくて、ただ立ち尽くした。渡辺君は肩を落としたまま桃が走り去ったのとは反対の方へとぼとぼと去っていった。その後姿を桜井君がじっと見ていた。きっと驚きよりも喜びの方が大きいだろう。彼にもチャンスが巡って来たのだから。私には一生めぐって来ない桃を得ることができるチャンスが。
私は桜井君に声もかけずその場を立ち去った。
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