どうか笑わずに

笹山

どうか笑わずに

 日が少し西に傾いたころ、晩夏の高い空は急に陰りはじめた。

「雨の匂いがする」と妙織が言った。

「降る前に帰ろうか」と聞く私に、彼女は大丈夫だと答えた。私たちは買い物もそこそこに、行きつけの喫茶店に入った。

 間接照明がところどころに置かれ、空調の効いた店内は、客は少なくないが静かだった。小柄な初老のマスターにブレンドを二人分頼むと、私たちは奥の向かい席に座った。

 そこで私はふと思い出して、妙織に言った。

「ごめん、携帯貸してくれ。電話したい」

「忘れたの」と言いながら、妙織はトートバッグからスマートフォンを取り出す。私はそれを受け取って、少しの間席を外した。

 電話を切って戻ると、テーブルにはもうカップが置かれていた。私はスマートフォンを妙織に返してから、青い陶磁器のカップを手元に引き寄せた。そして、私と妙織は同じようにコーヒーを啜り、同じように細いため息を吐いた。それから、私は何気ないふうに、

「謎を解いてみる気はないか。ミステリが好きだろう」出し抜けにそう言った。

「謎ってなんの」当然ながら妙織は聞く。

「……昔付き合っていた人の話なんだが」

「今の彼女の前で昔の彼女の話をするの」

 妙織はわざと眉を寄せるようにして言った。

 妙織は、少し変わっている。恋人とはいえ他人の私にスマートフォンを躊躇なく貸すうえに、電話の相手が誰かも聞かない。過去の恋人の話を持ち出しても、そこに理由がある限り受け入れる。思ったことは素直に口にするが、それによって人間関係や雰囲気を壊すことはしない。笑い飛ばすか、そうでなければ問題の解決や意見の擦り合わせを試みる。

 私は今、彼女の問題解決力に期待してわざと過去の恋愛話を掘り返したのだ。

「いいよ、聞かせて」

 そう微笑む妙織に、私は頷いて口を開いた。

「わかった。どうか笑わずに聞いてくれ」


     ※


 俺が高校三年生の時だから、六年前か。それに、付き合っていたとはいえ二週間くらいだったと思う。

 確か放課後のことだった。クラスメイトの女子に、「帰らずに教室に残っていてくれ」と言われた。言われた通りに待っていると、教室に残っていた人は部活に行くなり帰るなりして減っていった。俺一人になってしばらくすると、一人の女子が教室に入ってきた。

 ああ、待っていろと言っていた女子とは違う人だ。別のクラスの女子だった。黒縁の眼鏡が印象的で、おとなしそうな、いまにも泣きだしそうな顔をした子だった。まあ、仮にA子と呼ぶことにしよう。それから、詳しくは覚えていないが、「付き合ってくれ」と言われた。俺は二つ返事で了承した。A子は本当に嬉しそうに笑っていたよ。泣きそうな顔で笑っていた。

 俺がA子を好いていたか? そうだな、こんなことを話すんだから、俺も正直に言おう。その頃は彼女がいるという事実が羨ましかったんだ。それだけの理由で俺はその子と付き合った。好意が全くなかったとは言えないが。


 それで交際が始まったが、まあ付き合い自体は普通だった。一緒に昼飯を食べたり、一緒に帰ったり。物静かな子だったし、遅くまで遊んだりしたことはなかった。代わりに本屋には毎日のように寄り道した。

 え? いや、本屋は学校から離れていたし、あんまり同じ高校の生徒はいなかったと思う。どっちが本屋に誘ったかまでは憶えてないな。

 ……続けるぞ。休日は会わなかった。お互い携帯電話は持っていたが、電話やメールも待ち合わせの時に連絡するくらいだった。だから、お互い相手のことは深くまでは知らなかったし、知ろうとしてなかったのかもしれない。少なくとも俺はそうだった。


 ここからが本題だ。二週間くらい経ったころだった。俺とA子は放課後の教室に残って、それぞれ本を読んでいた。俺の後ろの席にA子は座っていた。俺はヘッセで、A子は、なんだったかな。ともかく途中で、A子は本を机に置いて教室を出て行った。

 しばらくして男子が一人教室に入ってきた。丁度その男子の席は、A子が本を読んでいた席だった。俺は「悪い」とか言いながら、男子の机の上に置かれたA子の本と携帯電話を、自分の机の上に移した。その時A子が読んでいた本を少し見てみた。男子はしばらく席で作業していたらしかったが、すぐにまた出て行った。出て行きざまに「お熱いね」と言われたのを憶えている。そいつとは特別仲が良いわけではなくて、まあ知り合い程度だったから、俺の気に障ったんだろう。

 それからA子が戻ってきた。A子は俺の机上に自分の本が置かれていたのを見て、血相を変えた。それから「見たの」と聞いたので、俺は「ああ」と答えた。そうだ、思い出した、A子の読んでいたのは志賀直哉だった。本を読まないらしいA子に俺が薦めたんだ。そして、俺の返事を聞いたA子は、突然自分の物を乱暴に鞄の中に入れると、走って出て行った。それきり戻らないから、俺は七時くらいまで残ったあと、家に帰った。


 その日の夜になってA子からメールが届いた。よく憶えていないが、「耐えられません、別れましょう」といった感じだったと思う。俺はなにか間違ったことをしたのかと思ったが、理由を聞くのは憚られた。無自覚にA子にとって耐えられないことをしていたのなら、それを取り直すのは難しいと思ったからだった。それで俺はまた、二つ返事で了承した。

 そうして俺とA子は二週間で別れた。それからすぐ受験で忙しくなってほとんどA子のことは忘れていた。高校を卒業してからA子がどうしているのかも俺には分からない。


 我ながら無神経だと思う。A子が教室を出て行ったあの日、俺は追いかけもせず待っているだけだったんだから。もしかすると、俺の無神経さがA子には耐えられなかったのかもしれないとも思う。だが、俺にはどうにも納得できないことがいくつかあるんだ。


     ※


 話し終わった私はコーヒーを啜り、再び細い息を吐いた。妙織は途中いくつか質問をした以外は終始私の眼を見て聞いていた。二週間で恋人と別れるという滑稽な話を、彼女は笑いはしなかった。きっと私がはじめに釘を刺さなくとも、彼女は笑わなかったろう。これが、本当に笑い話かどうか、私にも彼女にもまだ分からないからだ。私は論点をはっきりさせるため、再び口を開いた。

「謎は、なぜA子は別れを切り出したのか、ということだ。せめて納得できるだけの理由が欲しいし、あの時の俺は諦めたが、もしも俺に悪い部分があるなら知っておきたい」

「なるほどね」と、妙織はうんうん頷きながら言った。

 それから、「仮説1」と人差し指を立てた。早速謎解きにかかるらしい。手がかりは私の思い出話だけだが、すべて出そろっている。

 私は先を促すように妙織に掌を向ける。

「『あなたは見てはいけないものを見てしまった』。だからA子は急いで荷物を取りまとめて逃げるように教室を去った」

 それは私も考えた。だが、その時私が見たものは本当に見てはいけないものだったろうか。志賀直哉の著作に、A子は特別な思い入れがあったとかだろうか。いや、A子はあまり本は読まない子だったはずだ。それなら、

「本の中になにか個人的なメモが挟まっていたとか」と、私は提案する。

「どうだろう。見られて困るようなメモを普段読む本に挟んでおくかどうか」と、妙織は反駁する。

 それもそうだ。加えて、それだとA子がメールで「耐えられない」と書いた理由がはっきりしない。


 それから妙織は少し考えるような間を取ってから、今度は指を二本立てて、

「仮説2、『あなたの日常的な癖が酷く不快だった』。A子がメールで「耐えられない」と言っていたのはその癖に対してのことだった」

 私は頷かなかった。さっき話した通り、私は確かに無神経ではあった。だがそれが原因だとすると、今度は「見たの」と言った理由が分からない。仮説1と仮説2が両立する場合を除いてではあるが、そんな場合は思い浮かばない。


 妙織もそれには期待していなかったらしく、すぐに三本目の指を立てた。

「仮説3、『A子は強制的にあなたと付き合わされていた』。A子は悪意ある第三者に命令されて、仕方なくあなたと付き合っていた。期限は二週間。「見たの」や「耐えられない」は別れる口実だったかもしれない」

 思ってもみない考えで、私は少しの間狼狽えた。だが、私はその仮説に少しの閃きを感じた。多少無理矢理ではあるが、考え方自体は糸口になりそうな予感がした。

 ところで、

「……俺はイジメの駒に使われるような人間だったろうか」それは少しショックだ。

「あなたの高校時代はわからないから何とも言えないかな。誰でもよかったのかもしれない」妙織は私を気遣う風をせずに言う。それがすでに彼女の気遣いだった。

 こう言ってはA子に失礼だが、それはあり得そうな気もする。気が弱く、おとなしい少女、頼まれたら断れない人柄、それがA子の第一印象だった。だからこそ「別れましょう」というメールがA子から届いたのはショックを受けたというよりも意外だったのだ。


 しかし、あの時「見たの」と言ったA子の狼狽え方は演技だとは考えられない。なにか理由があるように当時の私は感じたのだ。私が黙って頭を働かせていると、妙織は呟くように言った。

「ところで、あなたがさっき話していたのは全部間違いないことでいいよね? 別れた日のことも。いくつか小道具が出てきたけど、本当にその場にあったものなんだよね?」

 小道具とは本のことだろうか。その意味ははかりかねたが、私の記憶は間違っていないはずだ。あれだけ印象に残る失恋は私の生涯ではないのだから。

 ああ、と私が答えると、妙織はこう言った。

「じゃあ、A子の「見たの」という発言は本当に本のことを指していたのかな」

 妙織の言葉がどういう意味か、すぐには分からなかった。

 だが、次に彼女が言ったことに、私は頷くしかなかった。


「つまり、「」という意味だったんじゃないのかな」

 なるほど。

 あの時、私の机上にあったのはA子の本と携帯電話だった。それを、私が携帯電話の中身を見たと勘違いするのも無理はない。妙織のような人間はともかく、携帯電話を他人に見せるのを嫌がる人は多い。

 では、「耐えらない」とは? 

 妙織は何も言わない。あとは私が考えることだと言わんばかりに。

 私はカップに口をつけたまま考えた。A子は何に耐えられなかったのか。私に非があったか。携帯電話を盗み見たと勘違いされていたのならば、お互いの意思確認や誤解を解く機会があっても良かったはずだ。いやそもそも、見られて困る携帯電話の中身とはなんだったのか?


 もしも耐えられなかったのが、私の何かではなく、A子自身の何かだとしたら。悪意ある第三者に強制されていたのだとすれば、A子の携帯電話に第三者からのメールが残っていてもおかしくない。それどころか現状の確認などのやり取りも行われていた可能性もある。

 だが、私がそれを見たとA子が勘違いしたとき、A子は私を恨んだり怒ったりするだろうか? いや、たった二週間の付き合いではあったが、A子はそういうタイプの人間でなかったと考える方が自然な気がする。

 私は小さく息を吐いた。

「A子は、俺に罪悪感を覚えたのかもしれない」

 私は呟くように言い、コーヒーを飲み干した。

 A子はAのではないか。それだけ、優しく、弱い少女だったのではないか。

 思わずため息をついた。考え疲れもあるが、A子になのか、自分になのか分からない呆れや後悔の入り混じったため息だった。

 これで謎は解かれた、はずだった。


 だが、妙織はまだ自分のカップに残ったコーヒーを見つめている。

 そして突然、

「本が好きな子だったんだね」と言った。

「いや、さっきも言ったが、A子は本をあまり読まない子だった。だから俺が志賀直哉を薦めたんだ」

 私は不思議に思った。妙織はさっきの話をちゃんと聞いていたはずだ。だからA子が携帯電話を見られたと勘違いしたことまで推理してみせたのだ。私はA子が特別読書好きだったと話した覚えはない。

 私は妙織の言葉になにか含意があるように感じた。だが、それがなにかは分からない。妙織は、私がそれに気づくことを待っているように目を伏せていたが、私にはなにも思いつかない。


 しばらくの沈黙ののち、妙織は、すこしだけ、本当にすこしだけ語気を強めて言った。

「じゃあどうして、毎日のように本屋に寄って帰ったんだろうね。同級生がいない本屋に」

「それは、悪意ある第三者を避けるためだろう」と、私は言いかけて考えた。

 第三者を避けるためならわざわざ本屋に寄り道せずに帰ればよかったはずだ。いや、そもそも本屋に誘ったのはどちらからだったろうか。

 急に首をもたげてきたとある直感に、私は驚きよりも、泣き出したいような気持ちにさせられた。同時に、私はそれを知らなければならないと感じた。ある一つの可能性。A子にとって残酷で、私にとって悔やまれる一つの可能性。

 A子が強制的に付き合わされたのは何故まったく別のクラスの、お互い知りもしない私だったのか。いや、私がA子を知らずとも、A子までがそうだったとは言えないのではないか。そしてなぜ、読書をしないA子が私の薦める本は読んだのか。

 妙織は、伏し目がちにコーヒーを飲み干すと、「帰ろうか」と言った。

 私は黙って頷いた。


 喫茶店を出ると、冷たい雨が夏の名残をぬぐうように降っていた。妙織の折り畳み傘を分けあって、私たちは帰途を歩いた。

「ところで、さっき誰と電話してたの」

 妙織が聞いた。私は正直に答える。

「実家の妹だよ。高校の卒業アルバムを送ってもらいたくて」

「そう。別に気にしてないよ。元カノの話をしたお返し」と、やはり妙織はあっけらかんとしている。そして私の顔を覗き込んで聞く。

「でもどうして?」

「A子の名前が、思い出せない」

「うん、なるほど、それは大事だ」

「そう、大事だ」

 もしも今日、この謎が解かれなければ、いつか私はこれを笑い話にしたかもしれない。だが、それは許されない。それではA子の気持ちを踏みにじることになる。謎は解かれ、ほんの二週間の交際は決して滑稽な話ではないことが分かり、そして、六年越しに、A子の思いは想察されたのだから。


 数日後、実家から届いた卒業アルバムを開いた私は、A子の名前を、胸の中で何度も復唱した。アルバムの中のA子は、記憶のまま、今にも泣きだしそうな顔で微笑んでいた。

 私は、今のA子が、どうか笑っていますようにと願った。

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どうか笑わずに 笹山 @mihono

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