ボヘミアンフィスト

弐番

第1話 夢の人

吹きすさぶ風が桜の花びらを空中に散らす。

まるでそれ単体が生き物であるかのように、優雅に舞う。

恐ろしく幻想的といえよう。

それに比べて、僕はどうか。

拳を握り、思った。

こんな風流の中で、殴ったり殴られたり。

そんなことをしている。

いや、そんなことだから、する。

そこに理由など、ない。

腹が減れば飯を食う。

眠くなれば寝る。

溜れば女を抱く。

それと同じ、何も変わらない。

したくてたまらないから、するのだ。

それはいつからだったか。

小学校の時、師匠のところに入門してからだったか。

それとも生まれてからだったか。

しかし、そんなことはどうでもよかった。

本気をぶつけるだけだ。

それが、僕の、僕らの、空手道鬼哭館の生き方だ。

狂っている、とさえいわれる事がある。

いいじゃないか。

狂っている事は、覚悟が出来ているという事なのだから。


 「鬼め。お前は、私の心神拳で葬ると予告しよう」

僕の前には一人のおっさんが立っている。

おっさんの身長が180cm、体重は80kgくらい。

僕の身長が175cm、体重は89kg。

そのおっさんが僕に言ったのだ。

おっさんの周囲には20代くらいの男が数人横たわっていた。

おっさんがやったのではない。

僕がやったのだ。

おっさんの心神拳の門下生4人ほどを軽く撫でたのだ。

そうしたらどうだ。

いとも簡単に倒れてしまったのだ。

「なかなかやるではないか、しかし!」

おっさんが構えた。

その構えをどこで見たのかを思い出せなかった。

なんか、悔しかった。

「奥義を見た瞬間、お前は死ぬのだ!」

腕を組んで頭をひねる。

どこで見た構えだったか。


おっさんの名前は……忘れてしまった。

どうせ憶えていても得しない名前だ。

さて。

これがまた、妙なおっさんである。

自称、「やんごとなきお方の護衛隊長」だというのだ。

皇族の護衛を勤めてきた一族で、うんたらかんたら。

手からだす気功で人の二人くらいは簡単に持ちあがると言うのだ。

気候で活火山の噴火を沈めたというのだ。

他にもたくさんある。

たくさんありすぎて、年表にして欲しいくらいである。

ただ、まあ、いうなれば嘘だろう。

嘘じゃなければ、妄想だろう。

どっちでもいい。

現実じゃないのだから。

いい加減気付いてほしいものである。

その心神拳では僕に勝てないという事実に。

現に数人の門下生が簡単に僕によってKOされているという事実を。


事の発端は簡単だった。

僕は地元にある空手の道場に通っている。

稽古後に友人が板前をしている居酒屋、「あんり」で飲むのという癖がある。

個人経営のために店は小さいのだが、おかみさんが出す料理がとてもうまかった。

何度か雑誌も取材に訪れるくらい、味に定評がある。

特に出汁のしみた揚げ豆腐は絶品なのだ。

毎日、いや、毎食でもいいくらいの味なのである。

ただ、それだけを楽しみに通っているのではない。

バイトの「愛美」という娘がかわいいのだ。

少し地味目だが、そこが逆に僕のツボにinした形になる。


そんな「あんり」にあのおっさん御一行様が居たのだ。

なんだか、大名と家臣みたいな空気を出しながら呑んでいる。

中央であのおっさんがデーンと座っている。

偉そうなおっさんだが、僕には関係ない。

愛美ちゃんに揚げ出汁豆腐と生ビールを注文した。

「はーい」と笑う愛美ちゃんに思わず胸がキュンとした。

本当にキュンとしたので思わず病気かと思ったほどだ。

実を言うと大胸筋の筋肉痛なのだが。

まあ、いい。

手持無沙汰になったので、煙草に火をつけた。

アメリカンスピリットのメンソールだ。

紫煙をくゆらせながら、さっきまでの稽古を振りかえる。

師範代の前蹴りを的確に捌けなかった事が、少しばかり心残りだった。

捌こうとすると、虚を突かれ顔面に貰ってしまう。

変則的なコンビネーションを数パターン使ってきて、僕の対応から外れたのだ。

それは最早、流石というしかなかった。

師範代は僕よりも5年早く入門し、大会で多くの成績を残してきた人だ。

僕の様な力馬鹿だと、到底及ばないのかもしれない。

しかし、悔しい―

何パターンも頭の中で再シミュレートする。

どうすれば勝てたか―

何回、何十回と考えていた時だった。

 「おい、君」

僕を呼ぶ声がした。

あのおっさんの門下生だった。

「なんすか」

「煙草を吸うな」

「はあ?」

いきなりコイツは何を言い出すのかと思った。

ここは居酒屋ではないのか。

酒を楽しむためにあるのではないか。

酒とたばこは切っても切れない縁ではないのか。

「お師様は煙草がお嫌いだ」

門下生がおっさんを指さした。

おっさんが仏頂面で腕を組み、僕を睨んでいた。

「分かったよ」

僕は灰皿に煙草を押しつけた。

門下生は鼻を鳴らし、席に返って行った。

何ともとてつもない不快感を醸し出す一味だ。

簡単に言うと、くそうぜえのだ。

とりあえずここが「あんり」でなければ、ソッコーでぶん殴っていたと思う。


 運ばれてきた揚げ出汁豆腐をつつきながら、生ビールを流し込んだ。

愛美ちゃんを見つつ、脳内シミュレートを繰り返そうとしたがうまくいかない。

あのおっさん一味がやかましいのである。

しかも内容が非常に下らない。

「我々が天から授かった使命」

「他のものは、我々に守られているという自覚が足りん」

「宮内庁は何故、感謝の意を我々に示さないのか」

我々、我々。

本当にくそやかましい。

妄想は頭の中だけにして欲しいものだ。

こういう阿呆がいると他の武術も「そうなのかな?」と思われて非常に迷惑なのである。

不快感を顔面に出すと、愛美ちゃんが近づいて来て謝った。

「ごめんね」

いつもの笑顔にちょっと困り顔のエッセンスが含まれていて、とてもキュートだった。

本当にキュートである。

少しばかりあのおっさんに感謝したくなるくらい、キュートなのだ。

「いいよ、大丈夫。愛美ちゃんが悪いんじゃない」

右の拳を握って愛美ちゃんに、微笑んだ。

軽く笑って愛美ちゃんは厨房に戻って行った。


「おい、お前」

先程の門下生が僕の前に表れた。

僕よりも年上はいくばくか上だろうが、それでも初対面の人に向かって「お前」はないだろう。

「なんだよ」

僕も立ち上がって答える。

少し、門下生がたじろいだように見えた。

筋肉量に驚いたのだろう。

自分でも言うのも恥ずかしいが、筋肉には自信がある。

アホみたいに鍛えているからな。

ちゃんと栄養のバランスも考えながら食事している。

プロテインだって最高級のをアメリカから輸入している。

科学的なトレーニングも、昔ながらの鍛錬も欠かす事がない。

そんな生活を続けれいれば誰でも体は大きくなるのだ。

 「先生がお呼びだ」

門下生が言った。

僕になんの用事があるのだろう。

おっさん一味の席に参上した。


おっさんは腕を組んで上座に座していた。

眼をつむり、微動だにしない。

顎で席を指す。

座れ、という意味だ。

心底むかつくおっさんである。

自分がこの世の王様にでもなったつもりか。

無論、そんな指示には従わない。

ポケットに手を突っ込み、立ったまま答える。

見えはしないが、中指はしっかり立てておく。

「なんすか」

僕が問う。

「お前、武術をやっているだろう」

おっさんが僕に問うた。

「どうしてそう思うんですか?」

逆に僕が問うた。

「先程、拳を握っている時に拳ダコが見えた」

「そうすか」

「やっているのだろう、武術を」

「そうっすね、やってますよ」

自分が段々とイライラして来たのが分かった。

このような意味の無い問答を続けてどうなるというのか。

僕は早く豆腐の続きを楽しみたいと言うのに。

「はっきり言おう」

おっさんが眼を開いた。

「お前には武術をやる資格がない」

とんでもない事をいうおっさんである。

いきなり、仙人みたいな事を言い出した。

「まず、お前には礼義がなっていない。年上相手にその態度は何だ」

「……」

「次に武術をやる者が茶髪などおかしいではないか。加えてピアスまでして!」

隣で門下生がうんうん、と頷いていた。

「そしてお前、煙草を吸うだろう!言語道断だ!」

「そうっすか……」

僕のイライラは最高潮に達していた。

左の頬が少しばかりひきつっているのが分かる。

心臓の鼓動音が耳に聞こえてくる。

背筋をぞくりと、興奮が駆け抜ける。

叩こう、叩こう―

衝動が僕にささやいている。

こんなの居たって、公共の福祉に反するよ―

そうだな、そうだな。

僕は思う。

殺してしまおう。死んでも誰も気にしないさ。

いや、だめだ。

まだだ、まだだ。

男子私憤することなかれ、である。

小さく震えていると、おっさんが得意気にたたみかけてくる。

「分かったらさっさとここから失せろ!」

おっさんが席から立ち上がった。

大声を張り上げるので周りの客も何事かと見ている。

その眼つきは好奇のでしかない。

決して勇者をたたえる様な、感心の眼差しではない。

酔いつぶれ路上で眠っているサラリーマンを見るような目つきだ。

憐憫だ。

しかし、それにおっさんが気づく事はない。

むしろ勘違いしている。

自らが英雄、豪傑であると勘違いしている。

「お前のようなのが居ると、他の武術家もそうだと思われてしまうのだよ!」

拍手が起きた。

門下生が一生懸命に拍手しているのである。

皆一様に感動を顔に表している。

馬鹿の弟子は、馬鹿だ。

一方の僕は、怒りのぶつけどころを探していた。

大義さえ見つかれば、このくそばかどもを、それこそ生まれてきた事を後悔するまで殴る事が出来るのだ。

「この恥さらしが!」

門下生が僕の頭にビールをかけた。

次々とそのビール掛けに他の門下生が参加していく。

それを満足げにおっさんが眺めていた。

勝ち誇った表情をしている。


 「もう、いいでしょう!」

愛美ちゃんが門下生の一人に言った。

賢明な愛美ちゃんの表情も実に可愛らしい。

愛くるしい。

キュートすぎて、死にそうである。

そしてなによりも、僕の為に行動してくれているのが嬉しかった。

「やめなさいよ!」

愛美ちゃんが門下生の一人の袖を掴む。

「うるさい!」

門下生の一人が愛美ちゃんを突き飛ばした。

小さく悲鳴を上げて愛美ちゃんが尻もちを……


「ぎゃっ!」

愛美ちゃんを突き飛ばした門下生が口を押さえてかがんだ。

抑えた手から溢れるように潜血が滴る。

歯を折られたようだ。

誰にか。

僕以外にだれが居る。

愛美ちゃんを、天使を、女神を突き飛ばした罰だ。

いやあ、罰にしては軽い。

ちょっとしたお尻ペンペン程度だ。

「お前!」

おっさんが僕に吼える。

僕は煙草を取り出し、火をつけた。

ビールの所為でしけっている。

変な味がした。

「うぐぐぐぐ……」

相変わらずのたうつアホの髪をひっつかみ、顔をあげた。

そのデコで、煙草の火を消した。

「あつい、あつい!」

アホがばたばたと暴れる。

そのアホ面を思い切りテーブルに叩きつけた。

「表でやろうや、店に迷惑がかかる」



路上でおっさん連中と対峙する。

「あんり」の客が僕らを取り囲む。

勿論、その中には愛美ちゃんの顔もあった。

表情に心配の色が取れる。

心配している表情の愛美ちゃんも(以下略)

 おっさんは周囲を見てやっぱり誇らしげというか、満足げな顔をしていた。

「この重罪人は、我々心神拳が葬ると約束しよう!」

おっさんが両手を広げて見せた。

漫画と映画の見過ぎで頭がおかしくなったとしか思えない。

「行け、私の弟子よ!」

4人の門下生が僕の事を囲んだ。

なんか、変な構えを取っている。

両手を頭上に高く上げて、奇声を発しているのだ。

「キェェェェェェェイ!」

「ウエェェェェェェェイ!」

一見、変に見えても武術的に理にかなった構えというのは存在する。

手をぶら下げている様に見える「無双の構え」も、拳の加速度を追求した結果生まれた構えだ。

だから、この妙な構えにも何か意味が……

 そう思っていたら門下生が突っ込んできた。

やはりあの奇声を発しながら両手を振りおろしてくる。

僕は下がりながら左膝の関節部分にローキックをかました。

下がりながらの為に充分な威力は期待できない。

とりあえず、一瞬だけでも相手を止める為の姑息的ローキック。

の、筈だった。

「えええええええ」

と叫びながら崩れ落ちてやがるのである。

呻き声を上げながら、その場に転がっているのだ。

他の門下生が困惑している。

「どうした」

「大丈夫か」

あたふたあたふた、大混乱である。

ははぁ。

そういうことか。

僕は見えてきた。

こいつら、体の鍛錬が足りていないのである。

当初、全員が細身だからスピード系かと思っていた。

違うのだ。

ただ、筋肉がついていないだけなのだ。

そうなるとこいつらは、丸裸で闘っているという事になる。

筋肉は鎧だ。

自分を守る甲冑なのだ。

それがないという事は、余程の攻撃力があるかスピードがあるか捌きの技術があると言う事になる。

ただ、こいつらはそれのどれでも無い。

「神秘の技術」に騙されて入門した哀れな青年たちだ。

皇族の護衛隊長とかいう肩書に騙されちゃった羊たちだ。

ある種の被害者だともいえる。

それなら一層、拳を叩きこむべきだと思えてきた。

自分たちの習ってきたものがなーんの役に立たないと分かれば、現実に戻れるだろう。

心神拳とかいうのに愛想を尽かすだろう。


遂に、こいつらの化けの皮が剥がれてしまった。

悪を成敗するつもりで僕に喧嘩をふっかけているのだが、今となっては逆に僕によって征伐されている。

見物人の眼差しだって「あの兄ちゃんやるじゃん」と僕に向けられているのだ。

流石に少しばかり可哀そうだ。

しかし、ここでやめるわけにはいかないのだ。

二度と「武術をやろう」という気持ちをくその1mm程も抱かせてはいけない。

根絶やしにしてやることこそ、僕の使命なのだ。

そう思いながらおっさんを見ると、少しおどおどしていた。

「何をしているか、稽古を思い出せ!」

などと激を飛ばしている。

せいぜい、吼えていろ。

3分後にはオッサンが同じく地面とキスするのだから。

短い武術人生をせいぜい楽しむがいい。

そう思うと、一気に燃えてきた。

「続きを始めようぜ!」


僕が門下生3人に近づく。

「くそ!」

真ん中から突っ込んで来るアホがいた。

ボクシングのピーカーブースタイルで顔面を守る。

流石、アホだ。

裸拳の前ではピーカーブーなど意味がない。

あれはグローブがあるからこその技術だ。

グローブの大きさを防ぐためだ。

グローブよりも小さい裸拳を防ぐ技術ではない。

隙間が大きすぎるのだ。

その隙間に目がけて正拳をねじ込む。

間をすり抜け、僕の拳が相手の顔面を捉えた。

めぢっ、と鼻が潰れる音がする。

アホがすぐに構えを解き、鼻を必死に抑えていた。

眼から大量の涙がこぼれる。

良い気味だ。

 刹那、右から貫手が飛んできた。

それが僕の腹に目がけて飛んでくる。

僕は受けも避けもしなかった。

貫手が僕の腹に当たると同時に、手がひしゃげていた。

中指と薬指が明後日の方向を向いている。

鍛えていない指が格闘家の腹を叩くのは、鉄板を叩くのと同じである。

「あいいいいいいいいいいいいいいいいいい」

素っ頓狂な声を上げて、男は折れている方の手を押さえた。

念の為に靴の裏で顔面を蹴っておく。

靴の裏に確かな感触を得た。

足底蹴り。

ビブラムソールのかったいブーツのおまけつきである。

これは間違いなく、鼻も折れている。

赤い線を描きながら男は後ろにぶっ倒れて行った。

ざまあみろ。

僕の記念スタンプを顔面に持って帰りやがれってんだ。

 最後の奴は果敢にも投げに持ち込もうとしていた。

僕の襟をつかみ、一生懸命に背負い投げをしようとする。

ただ、腰が引けている。

空手家に対しては、投げ。

その発想は悪くない。

だが、効果的ではない。

教えてくれた奴が馬鹿なのか、びびって引けているのか。

どちらにせよ、投げには不十分な形だ。

というか逆に不利だ。

思い切り後頭部をこちらに向けている。

なので、首に手を回し締め上げた。

裸締め。

強烈にして痛みの激しい技だ。

もがきながら、懸命に手を外そうとする。

無理だな。

一度完全に入ってしまえば、抜けることは不可能に近い。

余程の柔術家でない限りは不可能だ。

もがきが徐々に弱くなり、そいつは落ちた。

糸の切れた人形のようにだらしなくぶらさがっている。

僕は手を離し、そいつは地面に倒れた。

良く見ればズボンの周りが濡れている。

落ちた瞬間に小便を漏らしたらしい。

大人になってまでおもらしをする日が来ると思っただろうか。

こうして僕はおっさんに向き直った。

「どうする、おっさん?」

万面の笑みを浮かべおっさんに問うた。

さて、この段階で僕がおっさんを許す可能性は二つほどあった。

1.鼻水を垂らしながら泣いて謝り土下座する。

2.鼻水と小便を正しながら泣いて土下座しつつ僕の靴を舐める。

この二拓である。

考える時間は十分に与えた。

逃げる時間もあったはずだ。

しかしどうだ。

残念ながら、おっさんはどちらも取らなかった。

加えて、あろうことか僕を指さしたのである。

そしてこう言ったのである。

「鬼め。お前は、私の心神拳で葬ると予告しよう」


宣戦布告だ。

全くもって今まで何を見てきたのか。

弟子が無残に、

残酷に、

蟻のように、

簡単に葬られた現状を眼にしたというのに。

これは、学習能力がない馬鹿か。

ないしは、自分の力は他とは違うと思いこんでいる阿呆か。

それとも、自分の力は他とは違うと思いこんでいる学習能力の無い馬鹿阿呆か。

どれにせよ、こちらに宣戦布告をしてきた以上は対処せざるを得ない。

毎晩、夢に見る程の屈辱と恐怖を与えてやる。

この世に生まれてきた事を後悔させてやる。

 僕は構えた。

手を軽く前に出し、全身の力を抜く。

防御に適した構えだ。

相手の攻撃を全て流す構えだ。

「なかなかやるではないか、しかし!お前は奥義を見た瞬間、お前は死ぬのだ!」

おっさんが構えた。

なんの構えだっけ……

おっさんが前に出てきた。

ジャブ、ジャブ、ストレート、フック。

その全てを手で軽く払う。

軽く払うだけで体に当たらない。

あの構え、なんだっけ。

ジャブ。

―払う。

フック。

―払う。

アッパー。

―避ける。

段々とおっさんの息が切れる。

「ぼ、防戦一方だな!」

おっさんが吼えた。

見きっているのだから避けるのは簡単――

その時、おっさんの構えの正体を思い出した。

80年代にやっていたアニメで主人公が取った構えである。

ということは現実的でないという事である。

思わず太腿を叩いた。

腹の底からすっきりした気分だ。

「おっさん、北斗の拳の見すぎだわ」

全ての合点が行った。

ガッテン、ガッテンとボタンを押したくなるくらいだ。

このおっさん、どうやら北斗の拳のまねごとをしているらしい。

あとはどこかで少しばかり武道の本でも読んだのだろう。

だから頓珍漢な事を言い、誇大妄想に取りつかれているのだ。

全く、それで武術を名乗れるのだから困ったものだ。

一層の事、免許制にしてしまえよ。


「何を言う!私こそが本家本元だ!」

おっさんが胸を張って言う。

「皇宮警察の礎を築いたのも、我々心神拳だ!」

「そうならどうしてここにいる?」

「宮内庁に追い出されたのだ。我々の技が危険すぎると言ってな!」

尊敬するコメディアン、いかりや長助の名言が頭の中を走った。

『だめだ、コリャ』

いや全くその通りである。

その通りとしか言いようがない。

精神科医だってこのおっさんを治せないだろう。

全てはこのおっさんの中で完結してしまっている。

どうせこの後、僕が論破しようとしたって「闇に葬られた」とか言ってごまかすはずだ。

「我々の存在は禁忌なのだ!宮内庁も闇に隠そうとした!」

思ったそばからのこれである。

くどいようだが、妄想は自分の中でして欲しいものだ。

他人に迷惑をかけてはいけない。

「お前は奥義で殺すと約束しよう」

「あ、そう」

「お前も奥義を尽くすのだ!」

「無理だ」

「臆したか!」

おっさんの構えが少し変化した。

右手を開き、地面に水平に構えている。

マシンロボのパクリだな。

恥ずかしい奴め。

「行くぞ!」

そんな台詞を恥ずかしげもなく、口に出す。

 おっさんが走ってきた。

吼えている。

口を大きく開け、一目散に。

胴体ががら空きだ。

その胴に、思い切り前蹴りを叩きこむ。

普通の前蹴りではない。

重心を前に移動させ、体重を乗せた一撃だ。

通常時でもカウンター並みの威力がある。

それを、カウンターでかます。

中足が鳩尾に吸い込まれる感触がした。

ズブリ、と足先が腹部に入っていく。

この感触の後に見るのは決まって、相手が後方に飛んでいく光景だ。

おっさんも例外じゃなかった。

後ろに転げていた。

一回。

二回。

三回転して停止した。

腹を押さえて足をばたつかせている。

湖面の魚のように口をパクつかせ、酸素をむさぼろうとしている。

無理もない。

僕の蹴りがおっさんの横隔膜を思い切り叩いたのだから。

今頃、横隔膜は激しく痙攣し呼吸が出来ないでいるはずだ。

息を吸おうとすれば、間違いなく痙攣が更に深くなる。

深くなればもっと呼吸困難を起こすはずだ。

対処法としては痙攣が治まるまで呼吸を止めることだ。

ただ、最初にこれを味わうと軽いパニックを起こしてしまう。

すると余計に息を吸おうとする。

余計に痙攣する。

その無限ループと苦しみを味わう羽目になる。

当然、頭には「死」の文字がちらつく。

でもこれで死ぬ事はない。

せいぜい、気絶する程度だ。

おっさんは必死に息を吸い込もうとしていた。

これでは意識を失うまで無謀を繰り返すだけである。

それでも一生懸命に息を吸い込もうとする。

「あーあ」

僕が呟いた時には遅かった。

おっさんは気絶していた。

足の先で蹴ってもまるで反応しない。

そのまま立ち去ってもよかったのだが、それでは意味がない。

きちんと自分たちの愚かさを反省させなければならない。

おっさんが蘇生するまでタバコを吸いながら待つことにした。

一本。

二本。

三本。

随分と長いこと気絶している。

悠長なやつである。

ぶっ倒れていた弟子の方はもう蘇生しているというのに。

もちろん、僕に挑んでくる奴など皆無だった。

同じか更に上の痛みを味わうのは誰だって避けたいはずだ。

これで後続の護衛隊長が名乗ろうというのだ。

僕ならジェダイマスターだって名乗れそうである。

 煙草も四本目に差し掛かったあたりで見物人がざわつき始めた。

中には「死んだんじゃない?」などと言い出す奴も出てきた。

殺してませんよ。

証明するために、店先に設置してあったバケツの水を思い切りぶちまけた。

良く冷えた水がおっさんの顔面を直撃する。

「あばぁ!」

と妙な掛け声と共におっさんが起き上がった。

見物人から「あー」という落胆のような声が上がる。

「おはよう」

くわえ煙草のまま、おっさんに話しかけた。

「お前……」

あたりを見回し、おっさんの顔が紅潮していった。

見物人。

自分を崇拝する弟子。

そして憎きこの僕が目の前にいるのだ。

見つめる先にはもちろん、醜態をさらしている自分が居る。

恥ずかしいという他にない。

 おっさんが立ちあがった。

「卑怯者! 奥義を尽くせと言ったではないか!」

「無理だ」

僕は言った。

「奥義を習得すらしていない未熟者め! お前などには負け――」

言い終わるか終わらないかの内におっさんの右大腿部にローを叩きこんだ。

パァン―

小気味のいい破裂音が響く。

言葉を呑み込みながら、おっさんが崩れ落ちた。

歯を噛みながら、懸命に片方の足で立ち上がろうとする。

「心神拳は、片足でも戦える!」

両手を頭上高く上げ、怪鳥音を発した。

けんけん状態で両手を振り回しながら僕に近づく。

僕はさがった。

「臆病者め!正々堂々と戦え!」

ローキックもまともにカットできない相手とまともに戦う。

そういう発想は僕にはない。

それこそ、弱い者いじめになってしまう。

先程は4人でいっぺんにやってきたので加減を間違えたのだ。

しかし、手負いのおっさんと正々堂々とどう戦えばいいのだ。

考えても思いつかなかった。

なので転がっていた空き缶を、そっとそちらの方に蹴った。

その空き缶をおっさんは踏んだ。

転んだ。

尻もちをついて悶絶している。

ギャグか。

「お師様!」

門下生がおっさんに近づいた。

両脇に手を差し込み、おっさんを立たせる。

この期に及んでこれを「お師様」と呼べるなんて君たちすごいよ。

本当。

この写真を撮って送ればピューリッツァ賞獲れるよ。


「お前の武術は外道だ!」

おっさんが僕に吠えた。

「そうだ!」

「ひきょう者!」

門下生が同じく吼える。

まだそんなこと言うか。

完全に頭に来た。

ぶん殴ってやろうと近づこうとした時だった。

誰かが僕の肩を掴んだ。

戦慄は走った。

僕に背後から近づくことのできる人物。

知っている限り、二人しかいない。

「やめておけ」

声が若い。

三月滋、師範代だ。

「師範代……」

「琴乃、この人はもう駄目だ」

師範代がおっさんに近づいた。

おっさんが明らかに師範代から眼をそらした。

怯えの表情すら浮かべている。

「明智さん、言いましたよね」

門下生にも動揺が走っている。

「もうインチキ拳法はやめる、って。真面目に暮らすって」

「いや、その」

おっさんが、ごもる。

さっきまであれ程に減らず口を叩いていたのに。

師範代を前にした途端、口数が激減した。

「さっきも、私の弟弟子にビールをかけてくれたそうですね」

「あのう、そのう」

「ええ、明智さん」

「喧嘩を売ってきたのは、そっちで……」

「琴乃が?まさか」

師範代が笑顔で僕を見る。

眼が笑っていない。

相当、キレている時で無いとお目にかかれない眼だ。

僕は静かに首を横に振った。

「嘘をつきましたね?」

「いや、あの……武術家としての資格が……」

「あなたに資格を語る事が出来るんですか?」

「わ、私は心神拳の伝承者で」

「まだそんな事言ってるんですか?」

「あのう、そのう」

「言ったでしょう、嘘は良くないと」

「あのう」

「聞いてるんですか?」

「そのう」

最早おっさんの返答は「あのう」か「そのう」になっていた。

「そんな武術は存在しないと言ったでしょう」

「武術家を名乗っている割には一人に対して数人掛りでしたよね?」

師範代が畳み掛ける様に喋る。

おっさんは俯いて肩を静かに震わせた。

場が沈黙した。

おっさんの早い呼気だけが場にこだまする。

「明智さん、この間言っていたそうですね」

師範代が静かに、囁くように喋り始めた。

「いつだったかな。『鬼哭館など敵ではないわ!』ってのたまったらしいじゃないですか」

おっさんが顔を上げた。

顔面が驚くほど、白い。

「そういう事言うんですね、明智さん」

師範代がおっさんの顔を鷲掴みにした。

「散々、ぼろ布の様に負けておいて」

師範代の手に力がこもる。

周りはそれを見つめるしかできなかった。

無論、僕もだ。

ここまでキレた師範代を見るのは『嘆きの七夕』以来である。

 おっさんの両の手が師範代の腕を掴んだ。

しかし、膂力に差がありすぎてひきはがす事が出来ない。

師範代の五指がおっさんの顔面に食い込み続ける。

「小便漏らして泣きながら、僕に言ってたじゃないですか」

更に力を込める。

力を込めていながらも声のトーンはいたって平常時と同じだ。

否、平常時よりも静かかもしれない。

静かなだけ迫力が出ている。

「もう、いんちき拳法は辞めるって」

師範代の腕に血管が浮き出てきた。

単純な技だ。

技と呼べるかどうかも分からないが、プロレスではこれをアイアンクロウという。

「ああああああ!!!!!」

おっさんの悲痛な叫び声が響いた。

悲鳴が僕らの鼓膜を震わせる間、僕らには何もできなかった。

「ふん」

鼻で息を抜き、師範代がおっさんを解放した。

脇を抱えていた弟子と一緒に路上に倒れ込む。

そのおっさんを見下ろし、師範代が薄く笑みを浮かべていた。

長い事、この人の弟弟子をしているが未だにこの顔にはぞっとしない。

普段が優しい師範代だからこそだろう。

「この町を出なさい」

師範代が言う。

「道場をたたんで、どこかで静かにくらしなさい」

指を三つ立てた。

「三日あげます。四日目以降、この町にまだいたら鬼哭館への挑戦だと受け取ります」

しゃがんでおっさんの顔面に、顔面を近づけた。

「勿論、受けて立ちますよ」

その後、耳元で何かつぶやいていたようだが僕にはそれが何かは分からなかった。


桜吹雪の中を、師範代と二人で歩いた。

師範代の右側を歩く。

スピードや距離は、師範代と微妙にずらしている。

いつ、襲われても平気なようにだ。

結局、おっさんはその後小さく震えながら路上に寝転んでしまったのだ。

まるで小さな子供が、親に叱られる事を恐れているようだった。

根本的な恐怖と、深い罪悪感からそうさせているのかもしれない。

しかし―

どんな言葉がそうさせるのだろうか。

考えても、考えても理解が出来なさそうであった。

煙草を取り出し、くわえた。

「一本くれないか?」

師範代が僕に言う。

「アメスピですよ?」

「構わんよ」

僕は一本、師範代に差しだした。

火をつけ、二人で桜色の海を渡る。

「琴乃さあ」

師範代が言う。

「押忍」

「最近、厄介事に巻き込まれすぎじゃない?」

「そうでしょうか」

「そうだよ」

「思い当たることが―」

言い終わる前に左から飛んできたものがあった。

拳。

横正拳突き―

かわす、そらす時間はない。

腕の部分でブロックする。

腰の入っていない突きだ、さほどのダメージはない。

それでも、腕が少ししびれる。

「師範代?!」

思わず僕は叫んだ。

師範代が構える。

僕も構える。

構えざるを得ない。

師範代がしかける無限の選択を少しでもミスれば、殺される。

構えを取るかどうかは最初の選択肢だ。

僕は「取る」を選んだ。

「琴乃、事実を俺に話しなさい」

師範代が喋りかける。

「事実、とは」

僕は答えた。

喋ってはいるが、意識はしっかりと相手をロックオンしている。

おしゃべりに夢中になっていた故に、叩かれた―

などのことがないようにだ。

「お前、マルチ商法の支部を一つ潰したろう」

バレていた。

しかし、どうしてそれを師範代が?

「師範代、なぜそれを?」

「まあ、な」

「……」

「余り無茶はするもんじゃないぜ」

そういうと師範代は、構えを解いた。

気も戦闘モードから遠い。

戦う気力はなくなったようだった。

風が吹いた。

花びらが僕らの頬を叩いていた。

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ボヘミアンフィスト 弐番 @tsubai_niban

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