消せない罪の流れる先は

飛騨群青

紀伊〇屋書店のトイレにて


 あれはもう10年以上前の出来事だ。


 僕の学生時代、特に高校時代を一言で表すなら、底辺の優等生だった。体が弱い僕には勉強しかできず、他の生徒は一切勉強をしていなかったので、相対的に成績は良かったのだ。

 今考えると、もう少しレベルの高い学校にへ行くべきだったかもしれない。高校教師を初めとして、僕の周囲の人々は「お前ならもっとできる」とか、そんな感じのアドバイスしてくれた。だが僕はド田舎の人間で、僕の実家の近隣に大学はなく、一人暮らしをしながら大学へ通えるほど金持ちだったわけでもない。むしろ僕の家は貧しかった。高校にすら行けないんじゃないかと思ったこともある。実際、近所にそういう子は何人もいた。僕の生まれ育った地域じゃ、国連が怒るような児童労働もこっそりと行われていたし、金を持っていたのは公務員の家の子ぐらいだ。僕は親を怨むほど恩知らずではなかったが、金持ちの家に、できれば東京で生まれたかったという気持ちは今でも少しある。

 大学へ進学するのかしないのか、うやむやな態度のまま時が過ぎ、高校生活も終わりが近づいた。大学進学は不可能だが、こんなところで就職したくない。こんなところで一生を終えたくない。僕の心はそんな叫びに満ちて、何度も潰れていた。それでも何をするのか選ばなきゃいけなかった。自殺というのは魅力的だったが、日本の伝統芸能を演ずる心構えが僕には足りない。それに敷かれたレールを歩いているようで、僕の自尊心が許さない。結局、僕は学生ローンを借りて、家から電車で1時間ぐらいのところにある専門学校へ通うことにした。


 1年後、僕は平凡な専門学校生になっていた。成績は相変わらずよかったが、勉強が嫌になっていた。僕は苦痛を減らす手段を求めたが、相変わらず選択肢は少ない。理由はもちろん金がないからだ。ストレス解消の手段は本屋の立ち読みか、CDの試聴しかなかった。だから、その日も通っている専門学校の近くにある一番大きな本屋で立ち読みをしていた。

 あの日、どんな本を読んでいたのかは忘れた。多分、歴史か政治の本だったろうと思う。僕は自分がちっぽけな存在であるという事実が認められないのか、認めているからこそなのか、理由は不明だが壮大な話が好きだった。歴史や政治は脚色され、神話のようになりがちだ。それが当時の僕にはたまらなく魅力的だったのだ。アレクサンドロス、カエサル、ナポレオン、始皇帝、サラディン、ジンギスカン、ティムール、カール大帝、曹操、信長、カストロ、その他色々、彼らの実話や作り話、軍事的成功も政治的失敗も僕は愛していた。ずいぶん長いが、ここまでは前書きだ。もしかしたら、前書きの方が長いかもしれないが、ここまでの話は忘れてしまってかまわない。


 耐えがたい腹痛は突然やって来た。僕の中に悪魔がいて、僕の内臓を破壊しているとしか思えなかった。薬物中毒でもないのに、幻覚と幻聴、そして妄想が僕の脳を支配していた。いっそのこと店内でトリガーを引き、糞尿砲をぶっぱなしてしまいたい。しかし社会的な死は、生物的な死より恐ろしいものだ。僕は直腸に無駄な刺激を与えないように、ゆっくりと摺り足でトイレへと移動を開始した。どう考えても不審な動きだったから、店員さんに万引き犯と勘違いされなかったのが不思議でならない。

 僕は世界で一番幸福だった。そこの書店は売り場面積が広大なくせに、男性用便所は1箇所しかなかった。そのせいでいつも列ができていたが、その日に限って空いていたのだ。僕は生れて初めて神に祈った。存在もしない神様、あなたの御心に感謝します。あなたの慈悲に感謝します。あなたの名において、この和式水洗便器の中へとクソをぶっかけてやります。黙示録のラッパが大井競馬場のように鳴り響く。

 僕は光より早くズボンとパンツ、そして尻を降ろした。それと同時に次元の扉が開く。僕の内部から大量破壊兵器が射出される。ほんの一瞬で戦争は終わった。腹部の痛みはなくなり、僕の脳内ではルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの「喜びの歌」が流れていた。


 みんな抱き合おう!

 この排便を全世界に!

 兄弟よ、この便器の中に

 愛する父がおられるのだ

 

 僕は尻を拭いた後で、自分の出したものをその目で見た。馬鹿なことをするなと言われても、愚かさは馬鹿者の特権だ。僕は驚愕した。これはなんだ?この物体は?脳内のBGMがすぐさま「運命」に代わる。

 それはあまりにも巨大であった。あまりにも見事であった。バッファローの角に似た、雄々しく、猛々しい、偉大なる一本糞。千本のソメイヨシノだって、この一本に敵わない。まさに世界で一つだけの糞。

 僕は自分がひり出した人生の最高傑作に酔いしれた。しかし、この酔いは一瞬で冷めていた。これは悪魔の産物だ。いや、悪魔そのものだ。悪魔よ、去れ。お前のいるべき所へと、地獄へと。いや肥溜めへと。僕は水洗便所のレバーを捻った。轟音を立てて、水が流れる。僕は目蓋を閉じ、胸の前で十字を切った。悪魔といえども安らかに眠るがいい。心の中でそう呟いた。

 目を開いても「彼」はそこにいた。僕は何故だかターミネーター2を思い出した。なぜだろう。T-800にも生きていて欲しかったからか?。それとも、この不浄な王がT-1000のようにしつこいからか。

 

 製造物責任。自分の作り出したものに責任を持つのは義務だ。もしくは親は子を守る義務がある。だが僕はそれを果たさなかった。そう、僕は横たわっていた「彼」もしくは「彼女」をそのままにして、その場から逃げたのだ。あの時の僕はステロイド王、ベン・ジョンソンより早く走っていた。

 僕のしたことは戦場で仲間を見捨て、自分だけで逃げたことに等しいものだ。軍隊なら即時の銃殺刑だっただろう。生きる権利が奪われて仕方ないぐらい、僕の心は醜く、弱かった。僕は人類史上最大の卑怯者だ。そのことを隠そうとは思わない。許してほしいとも思わない。謝罪する権利も、贖罪する権利も僕にはない。永遠に過去に捕らわれ、苦しむこと。それだけが裏切者の権利だ。それは地獄の業火で焼かれるよりも苦しく、ノロウイルスで1週間ぐらい便所に住み着くよりつらいことだ。


 でもね、もう僕にはそれしかできないんだ。そうやって生きていくしかないんだ。

 いつか死ぬまで。

 

 

 


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