魔法の言葉

鈴江さち

魔法の言葉


「笑ってる顔、はじめて見た」

 井上くんは、天使みたいな人だ。

 それはまるで、背の高い向日葵みたいに。

 麻生くんや湯本くんと笑う井上くん好き。

 須藤さんを見てる井上くん嫌い。

 須藤さんを見てる井上くんを見てる私、嫌い。


 私とお話してくれませんか?

 心でなら、言えるのになあ。


 みんな、日焼けしてる。

 夏休みが明けて、始業式の次の日。

 どうしてだろう。なんでなんだろう。学校なんて嫌いなのに、私の心が、会いたがってる。

 麻生くんがよく言う言葉、「おい、クラスのモブたち」。

 私はきっと、そのモブの中でも、顔すら描いてもらえないモブだって分かってる。

 キラキラしてるな。そう思う。

 ひがみでも何でもなく、クラスメイトは、キラキラしてる。

 夏休みのこと。

 夏休みに楽しかったこと。

 夏休みの恋のこと。

 夏休みの、人には言えない、おとこの子とおんなの子のこと。


「てめーら! 夏休みの作文は今日までだ。夏にしこたま楽しかった思い出を心の五線譜に浮かべて、てめーらだけのメロディを奏でてみせろ! 俺か? 俺はもう死んでもいいくらい色々あったぞ。聞きたいか? 途中から18禁のネタとか入っちゃうけど別にいいよね? では行くぞ、あれはそう、真夏のサマービームが降り注ぐ暑い波打ち際、推定Eカップの爆乳とプリンプリンのケツがたまんねえピーチガールが…。おい、太一! 引っ張るな! テルも足を拘束するんじゃない! とにかくモブたちよ、作文今日までだからなあっ!」

 うるさいな。あの人なんで毎日あんなに元気なんだろう。

 麻生くんは私の理解を超えている。奇人って呼ばれてる。実際、奇人だなって思う。

 井上くんは何で麻生くんと一緒にいるんだろう。

 井上太一。

 古臭い、可愛い名前。

 勉強もスポーツも人付き合いも。

 私にはもっていない全てを持っている人。

 麻生くんと出会わなかった井上くんは、どんな人だったろう?

 麻生くんと出会っていない、きっと、本当の井上くん。

 そして。

 須藤さんと、出会っていなければ。

 そんな考えは甘くて、自己嫌悪で眩暈がする。


「森島さん。作文、できてる?」

 え、誰?

 ぽけーっとしていた私は、焦点が合わない。

「森島さん、だよね?」

 困った顔は、井上くん。

 ウソ、なんで、私、話しかけられてる!

「さ、作文。できてねえっす!」

 井上くんは複雑そうな顔になって、それから、ふわっと、夢のように笑った。

「ふっ、あははっ。できてねえっすか。できてねえなら、しょうがないよね」

 そう言って、井上くんが前の席に腰かける。

 あ、うぅ。心っ、勝手にときめくな!

「井上くんは、夏休みどうしてたの?」

「俺? 俺は剣道部の合宿と、将たちと泊まりでバイトかな。あんまりぱっとしないな」

「ううん。良いと思うよ。そういうの、羨ましい」

「森島さんはどうしてた?」

 聞かれて、困る。私なんて、犬の散歩しかしてない。

「………。ペットの、散歩…」

「え、何でそんな顔? いいじゃん、家族と一緒だったんだろ。俺そう言えば、この夏家族との思い出ないなあ」

 当たり前のように、ペットが家族。そんなセリフが言える井上くんは、本当に良い人なんだって思える。

「書く事ないなって、困ってるんだろ? 何でもいいんだよ。点数が付く訳でもないし。散歩なら散歩で、うーん、どんな花が咲いてたとか、こんなもの見た、とかさ」

 私はあの散歩のとき、何をしていたんだろう。何を考えていただろう。

 太陽が眩しかったこと。早く日陰に入りたかったこと。小学生を見て、あんな風だったなって思ったこと。

 なにも、なにもない。

 こんな風に私の高校一年生の夏休みは浪費されていったんだ。

「うーん。思いつかない。ほんとに、小学生が羨ましいとか、麦茶冷えてるかなとか、ほんと、他にないのかって思うよね」

 そう言うと、井上くんは笑って目を細める。

「なんとなくわかる。そん時その瞬間って、もっと面白いこと起これ、って思うんだよな。でもさ、その時間、ほんとにムダか? 説教じゃないよ。でもさ、俺たち生きてて、色々考えてて、それでその時その行動をとったんだろ? だったらそれはムダじゃない。ガンバッてる方が、ダラダラしてるよりやってる気になるけど、森島さんにはその時ダラダラが必要だったんだよ。ペットの散歩して、あっちいな、休みたいなって思ってる森島さんがいたから、今の森島さんがあるんじゃないの?」

「今の私に、私、必要性を感じない」

「………」

 井上くんの表情が引きつる。私こんな事が言いたかったんじゃない! 話しかけてくれた井上くんに、こんな事が言いたいんじゃない!

「でも、森島さんにだって…」

「ゴメンね。ほんと、ゴメン。愚痴が言いたいんじゃないの。構ってくれて、ありがと。井上くんが優しくしてくれたからちょっと勘違いしちゃった。私だって、ほんとは変わりたい。井上くんが笑えるような事を、私だって言いたい。それから、それから…」

「うん。どうした?」

「井上くんに、『森島さんにだって』なんて、言われたくない…」

 最悪だ。最低だっ、私っ!

 困らせたいんじゃない。笑って欲しい。そんな笑顔を、私が引き出したい。それなのに口が、逆の事をしている。

「森島さん?」

 柔らかい、降り注ぐような声が、顔を伏せた私に落ちかかる。

「俺、無神経だね。でもそんなつもりじゃない。俺、ずっと思ってた。森島さんは、もっと普通に笑えるのにって。隅っこの方で、俯いて愛想笑いする子じゃないのにって。森島さんにだってって言葉、そういう意味で言ったんだ。傷つけるつもりじゃなかった」

「じゃあ、笑わせて?」

 今思えば、どんなに勇気を振り絞っても言えない言葉。

 でもその時、その瞬間、ムダじゃない、何かがもたらした言葉。

「アッチョンブリケっ!」

 え? 時が止まる。なんだ、それ。なんなんだ、そのセリフ? 井上くんは顔を赤らめて微妙な苦笑いになっている。恥ずかしさで消え入りそうな井上くんを見ていたら、もう止まらなかった。

「アハハハっ! ちょっと待って、何それ? アハハハハっ!」

「ははっ、アハハハっ! 自分でびっくりした、俺、センスねえな」

 井上くんが無理をして、井上くんが必死に絞り出した「アッチョンブリケ」。

 なんかもう、涙が出るくらいに嬉しい。

「ふふっ。ゴメンね。ありがと」

 笑い疲れて、お互いの顔を見つめながら、つまらない何かを共有している私たち。

 井上くんは涙を拭いて、自分の髪をくしゃっと撫でる。

「笑ってる顔、はじめて見た」

 井上くんは、天使みたいな人だ。

 それはまるで、背の高い向日葵みたいに。


 休み時間。

 トイレの個室に入っていると、声が聞こえた。あれ、クラスの子だ。

「奇人くん、困ってたね」

「あいつが困るなんてあんまりないから面白かったけどね」

「だよね。でもさ、森島さんも変わってるよね」

 え、私? 私の話してる?

「クラスで作文出してないのあの子だけらしいよ。相手があの森島さんだから、奇人くんもいつもみたいに強く言えないらしくってさ」

「あー、森島ね。宿題やってないから、なら分かるけど、作文なんて写しようのない物やってこないとか、サボり方がなんかズレてるよね」

「それでさ、奇人くん、井上くんに頼んだらしいんだけど、あの子なんか勘違いして、キャラ違うくらい笑ってたよね」

「ね、ちょっと可哀想とか思っちゃった。大体、誰がどう見ても井上は凛子に惚れてるのにね」

「惚れてるとか、言い方ね」

「あ、古かった?」

「別にいいけど」

 声が遠くなる。

 私はトイレに腰かけたまま、頭がボーっとしていた。

 勘違い。そっか、勘違い、してたなあ。

 なんか浮かれて、なんかはしゃいじゃって、だけどそれは、周りから見たらキャラがちがくて、可哀想で。

 そっか、頼まれてたんだ…。

「ひっ、ひっぐ、うぐ、ふ、ふえぇ」

 学校で泣くとか、カッコ悪すぎる。高校生なのに、なにやってんだ私。

 でもここはトイレの個室で、誰にも見られないから、泣いていいやって思って、狭い個室で声を殺していた。


 目、ぼやんとする。

 クラスの色が違って見える。さっきまでさくら色だったのに、今は夜のように真っ暗だ。

 はれぼったい目が、未練がましく、井上くんを追いかけている。

 麻生くんと、湯本くん。碓氷さんに、えーっと、柴田さんか、それと、須藤さん。

 不登校だった柴田さんはもうあんなにみんなと話しているのに、私は泣きはらした顔で好きな人をぼんやり見つめるだけ。

「将、あんたふざけんなよ! 太一も言ってやってよ」

 須藤さんの声が聞こえる。

 この声が、いつの頃からか、嫌いだった。

 誰かに愛されてると知っている、その声。

 夏が明けて、髪を切った須藤さん。

 男子の目の色が変わったことくらい、察しが悪い私にだって分かる。きっと、井上くんだって、何かしら思ってる。違うな、何かしらじゃない。きっと、想像したくないことを、思ってる。だけじゃない。きっともきっと、現実逃避なんだろうな。ああ、なんか頭こんがらがってきた。

 早く帰りたい。

 須藤さんの笑顔を見ていると、苦しい。

 須藤さんは綺麗で、快活で、魅力的だ。

 世間には、綺麗な人なんて、たくさんいる。

 私が、そうじゃなかっただけで。


 授業が終わった。ホームルームも終わった。

 やっと帰れる。帰ったら、もう一回泣いて、寝よう。

 そう思っていると、大きな声が上から降って来た。

「おい、森島。帰んな! お前には帰宅するという選択肢は存在しない。お前は今から俺とマンツーマンで創作活動にいそしんでもらう。特別にスイートルームを予約済みだ。さあ来いっ! 青春と、童貞の射精は待ってくれないぞ」

「そんな誘い方があるかっ!」

 見ると、麻生くんと、井上くん。二人が、私を見ている。

 誰も、口が裂けても言わないが、学校一のイケメンと、好きな人がダブルで目の前にいるという現実に、私の頭はパニックを起こしている。

「えっ、あの、えっ? もしかして、作文のこと?」

「そうだ。俺はこれから部活がある。よって、お前は二分くらいで文章をしたためろ。あと最低でも一つは笑えるところがなかったら書き直しだからな。俺が代筆してやってもいいが、その場合対価におパンティーをいただく」

 バシィ! 麻生くんの頭に、井上くんのツッコミが入る。

 い、痛そう。

 でも、ふふっ。

「そうだ、その顔だ。いいか、森島。学校で泣くな。俺が委員長でなくても心配になる。ぶっちゃけお前の笑顔はたいして可愛くないが、泣き顔よりははるかにマシだ。笑え。笑えば人生は楽しいんだ」

「みんな気付いてたよ、森島さんが泣いてたこと。みんな気になってたけど、なんて言えばいいか分からなかったんだと思う。将はこんな奴だからさ、素直じゃないけど、こういう時、楽だろ? 安心して、あーだこーだ言いながら、作文ガンバって。俺も部活あるから付き合えないけど、応援してる」

「うん。ありがと」

 ありがとう、麻生くん。ありがとう、井上くん。

 だけど。

 私は今笑顔だけど、この笑顔が、綺麗だったらって、やっぱりちょっと思う。


 生活指導室。

 入るの初めてだな。

 向かい合わせのソファと、真ん中に机と灰皿。

 麻生くんは奥のソファにどっかりと座り、私は原稿用紙とシャープペンを構えて苦戦中。

 カリカリカリ。ケシケシ。カリカリカリ。

 音が、大きく聞こえる。

 耳を澄ませば、グラウンドからは運動部のかけ声。

 だけどこの部屋は、静かだ。

「森島」

「なに?」

 話しかけられて、私は手を止めて麻生くんを見る。

 麻生くんは携帯を見つめたまま話し出す。

「例えばだ。トイレの大にこもっている時に、たまたまクラスのモブが自分の悪口を言っていたとしよう」

「………」

「モブたちは、あいつらは、ただ会話していただけだ。毎日顔合わせて、毎日無限にネタがわいてくる訳じゃない。なんかあるだろう? 自分と関係のない誰かをちょっと悪く言って、笑い合う、みたいな、な。俺には理解できんが、モブとはそういう物らしい。あいつらは、お前が嫌いなんじゃない。憎んでもいない。お前はただ、たまたま会話のネタにされて、たまたまそれを聞いてしまっただけだ。今日は特別悲しい日じゃない。今日は昨日と同じ今日だった。そうだろ?」

 麻生くんは、私は、麻生くんは、そうか。この人、思っていたよりもずっと、人を見ているんだ。

 だけどね。

「違うよ」

「あ?」

「昨日と同じ今日だったら、私はこんなに泣いたり笑ったりしない。麻生くんや井上くんの言葉を、こんなに大切に思ったりしない。昨日から続く今日だったから、なんか、なんかムダじゃない。変かな?」

 そう言うと麻生くんは携帯を机の上に置き、初めて私の顔を真っ直ぐに見た。

「森島」

「はい」

「お前は見てくれよりもずっとイイ女だ。自信を持て。自信をもって誰かに話しかけ、誰かの肌を想い、誰かの声を聞け。叶うか叶わないかじゃない。太一はお前が思うよりもずっと、イイ男だ。お前がぶつかっていけば、あいつは誠意を返してくれる。井上太一は、そういう男だ」

 この、胸の、気持ち。

 張り裂けそうな、熱量。

 何かが、音を立てて弾けた。

 井上太一がイイ男だなんて、お前に言われなくても、知ってんだよっ!

 だからこんなに、苦しいんだよっ!

 涙が、溢れた。溢れてきた涙が、原稿用紙を汚す。

 もういやだっ、もういやだっ、もういやだっ!

「叶えたいんだよっ! ムリじゃダメなんだっ! 抱きしめてキスをしてセックスしたいんだっ! たいち、くんが、どこかの誰かになるなんて、嫌なんだっ!」

 激昂していた。前も後ろも分からなくなるくらい、取り乱していた。

 一瞬で沸騰して、熱くて持てない鍋みたいだった。

 私の顔はきっと真っ赤で、ブサイクで、でもそんなことはもう、関係なかった。

 あの時の事が忘れられない。あの時の事が今も頭の隅っこにいる。

 笑ってる、太一くん。

「あぁっ。あああぁ。うわぁーーー」

 誰かの前で泣くなんて、いつ以来だろう。

 涙はただ温かくて、夏の空気が、ただ暑い。

 なにもかもなにもかもなにもかも、ただ全部流して、壊れたように泣いていた。


「ゴメン」

「いや。俺は今の今までアイドルの平野麗美のことを考えていたからノープロブレムだ。どうだ、少しはすっきりしたか?」

「うん、した。麻生くんの物言いはほんとムカつくけど、心がちょっとだけ届いてきたから、許してあげる」

「それから、一度だけ言おう」

「ん?」

「お前に話しかけるのを、俺は躊躇っていた。太一に頼んで、結果、お前に悲しい思いをさせた。済まなかった」

「ううん。私にとって一番ベストな選択肢だったよ」

 そう言うと、麻生くんは意外な物でも見たような顔になって、こう言った。

「お前、実はホントにイイ女だったんだな」

「じゃあさっきのは、ウソだったの?」

「ああ。心の底から適当に言ってた」

「ホントムカつく」

 くそっ。やっぱり、やっぱりほんのちょっとだけカッコいいな、この人。

「さあ続きを書け。言っただろう、俺はこれから用事があるんだ。待っててやるから作文ごときさっさと書いてしまえ」

「気を遣うって言葉、知ってる?」

「遣ったら誰かと仲良くなれるのか?」

「なるほど」

 麻生くんは考える顔になり、そしてにやっと笑った。

「そうだな。よし、お前にいい言葉を教えてやる」

「なに?」

「これは、俺が気に入った奴にしか教えない、言わば俺の座右の銘だ。普段おちゃらけている俺が言っても笑わない、そんな奴にしか教えない言葉だ。お前にはおまけで教えてやる。聞け。『成せる事があるなら、成すべきだ』。普通だろう? だが、出来るけどやらない、みたいな、逃げている奴には絶対に響かない言葉だ。お前に響いたかどうかは知らん。だが、何か感じるところがあるなら、覚えておけ。一つの覚悟が人生を切り開く事だってある」

「うん。覚えとく」


 帰り道。

 心が、軽い。

 泣いたの、ほんと、いつ以来だろう。しかも、一日に二回も。

 帰りのバスに揺られる。進む先で日が暮れかけていて、バスの前面のガラスは、鮮やかな橙に染まっている。

 私は、オレンジ色を浴びながら、ティンカーベルを思い出していた。

 その小さな妖精は、生まれてきた赤ん坊の初めての笑顔と共に生まれ、彼女の不思議な粉を浴びると、信じれば、空を飛べる。

 勝ち気で少し嫉妬深いところのある、「ティンク」。

 私の胸に今、ティンクがいる。

 ティンクは空を飛びたくて、手を繋いで信じれば、私も飛べるような、そんな気がする。

 それくらい、心が、軽い。

 まるで浮かび上がってしまうみたいに。

 好きだって、ほんとのほんとに自覚してしまえば、心は羽よりも軽くて、気持ちはエンジンみたいに震えてる。

 太一くん。

 太一くんって名前。

 太一くんって言葉。

 太一くんって響きが、エンジンを揺らす。

 この空は、今日だけは、私だけのためだって思える。

 くるくると回る地球儀のほんの一日くらい、私のために回ったっていいじゃないか。


 翌週。朝。ホームルームが終わる。

 さあ、一限目か、と思っていると、朝のあいさつを終えた山寺先生が、私に近づいてくる。

「森島さん?」

「はい?」

 私が返事をすると、山寺先生は私の目を見つめて笑顔を浮かべる。

「話を聞こうかと思ったのだけど、必要なさそうね」

「先週の、ことですか?」

「ええ。いい顔してるわね、今日のあなた。このクラスにね、本当に悪い子なんていない。こうやって先生やってるとね、世界には本当に悪い人なんかいないんじゃないかって、錯覚してしまうの。誰もが誰かを愛している。誰もが誰かを想って、叫びたい夜を経験している。それなのに争いが消えないのはなぜなのかしらね。ふふっ、関係ない話しちゃった。森島さん。今日も笑顔で、ね」

 山寺先生の背が遠ざかる。

 天然さんの、愛され先生。

 そんなことを思っていると、また声がかかって来た。

「森島さん。話、いい?」

 あ、トイレの二人だ。

 二人の顔は神妙で、用件が、分かってしまう。

「あのね。ゴメンね。聞いてると思ってなかった。私たち森島さんが嫌いなんじゃなくて、なんていうか、ほんと、ただの悪ノリで」

「森島、私もゴメン。たぶん傷つけたの主に私の言葉だよね。私、毒舌だから、思ってない言葉でもぽんぽん口から出ちゃって。ほんと、マジゴメン。森島の事、じっれたい時もあるけど、全然、全然良い子だって知ってるし。ほんとさあ、ほんとにごめん。反省してる!」

 私は二人の言葉を噛み締めて、間を開けて答える。

「大丈夫。ちゃんと伝わった。私にだって、本気の人の言葉くらい分かるよ。二人とも、いつも仲良しで、あのノリ聞いてるの、けっこう嫌いじゃない」

 そう言って、三人で笑い合う。

「なんかあったら、私たち何でもするから。ちゃんと恩返し? 違うか、お詫び込めて何でもしちゃうから。ほんと、森島さん、ほんとマジゴメン」

「さっきっから、ずっとマジゴメンだね」

「森島責めんなよお。私たちだってさ、心があって、反省だってするよ。週末とか自己嫌悪でマジヘコんだんだから。だからさ、マジゴメンだからマジゴメン。他の言い方なんて、そんなすぐ出てこないんだって」

「ふふっ。もういいよ」

 山寺先生の言葉が甦る。世界には、悪い人なんて一人もいないんじゃないかって。

 それはきっと幸せな幻想で、とても、暖かな夢だ。


 今日は何だか、先週のことがウソみたいに平和だな。

 授業も、お昼休みも、淡々と流れていく。

 何人かの人が、主に女子だけど、話しかけてくれた。

 例の二人が、お昼を一緒しよう、と誘ってくれた。

 嬉しかった。私もこれから、勇気を出して話しかけようって、そう思えた。

 だけど。

 この変化は、私の努力じゃない。

 太一くんと麻生くんと、偶然が勝手に打ち寄せてきた、奇跡みたいなきっかけ。

 だから。

 違うと思う。二人が本当に教えてくれた事とは違うと思う。

 自分から。その。一歩を。

 私は、きっと、思ってたよりもずっと、イイ女だ。

 そう、暗示をかける。


 授業が終わって、クラスは騒めいている。

 部活に行く人。帰る人。残って話す人。でも今は誰もが教室にいる、そんな時間。

 太一くんと湯本くんが、座って話している。

 湯本くんがふにゃけたドヤ顔で人差し指を立てる。

 太一くんはそれを見て大笑いだ。

「太一、今日部活は?」

「俺? いや、今日は休みだな。みんなでジョナサンでも行くか?」

「いいね。あ、でも、将くんたちは部活みたいだよ。凛子もバイトだって言ってた」

「ふうん、そうか。二人でいいなら行くか?」

「どうしよう。とりあえず歩きながら考えよ」

「そうだな」

 二人が席を立とうとする。私はその前に、ダッシュで下駄箱へ。

 別に今日、何かが起こるって訳じゃない。何かを成そうって覚悟も、別にない。

 でも、ただ眺めていた何かは、遠くにある何かじゃなくて、手を伸ばして、伸ばして伸ばしてジャンプすれば、もしかしたら届くのかもしれない、そんな何かなんじゃないかって。


 下駄箱で、靴を履き替える。

 ゆっくり、ゆっくり。

 二人分の足音が、近づいてくる。

「あれえ、森島さんじゃない。今帰り?」湯本くんが声をかけてくる。

「うん。私部活やってないし」

「そっか。あれ、ローファーじゃなくて運動靴なんだ?」

「ローファー、足痛くって苦手なんだ」

「そっか」

 三人で靴を替える。さすがに男子、早い。

 私は履き終わらなくてもたもたしている。でも、ゆっくり、ゆっくり靴を替える。

 これでもし、井上くんたちが待っていてくれたら。

 そしたら、勇気を出して。

 顔を上げる。

 二人が、私を見ていた。

 待っていて、くれた。

 それなら夢を見ても、いいよね?

「井上くん?」

「ん? なに、どうした?」

「あの、さ」

 私は思い出す。「成せる事があるなら成すべきだ」。あの、力強い言葉。私にもほんの一欠ひとかけの勇気を!

「井上くん。よかったらさ、少しだけ、お話しませんか?」

 言った! 言って、しまった。

 怖さで、足が震える。

 どう思ったかな? ゆっくりと、視線を戻す。

 湯本くんが、笑って下駄箱から出て行った。

 太一くんは驚いた顔をして、じっと、私の顔を見つめる。

「おっけ、いいよ、分かった。森島さんは、駅まで?」

「うん」

「そっか。テルのやつがバスだから、俺たちは歩くか」


「へえ、じゃあ家この辺?」

「ああ。地元民ってやつだな。最初は家から自転車だったんだけど、部活ない日は将たちとつるんでるから、みんなに合わせて俺も駅までのバスの定期買ったんだ。だから駅からは自転車」

「ふうん。須藤さんも?」

「ああ。ついでに言えば柴田もだな。碓氷は朝、駅前まで歩いて来て、そこから将とバス通学。帰りは将が駅前で降りて、碓氷は家まで乗っていくらしい」

「そう言うのって、やっぱ聞かなきゃ知らないよね」

「だな」

 並んで、歩いている。

 夕日の影が、振り向くと遠く伸びている。

 太陽に向かって歩く。

 それは、今までで一番幸福な帰り道。


 駅前に着く。

 大きな広告に映る、「石アート」の文字。

「石アート?」

 太一くんが言う。

「駅ビルの展示室みたいだね。見て、来週までだって」

「このまま帰るのもあれだしな。学割使えるみたいだし、行くか」

「うん」

 エレベーターが閉まり、私たちを運んでいく。

 想像する。

 扉が閉まった直後、太一くんは私に唇を押し付ける。

 それはおんなの子の唇が欲しかったのか、それとも私のことが好きなのか、分からないまま私の頭はボーっとして、押しつけた唇を全身で感じる。

 上に登るエレベーター。私は階を進むごとに小さく鳴る鐘の音を聞きながら、扉が開くその瞬間まで太一くんに身体を預ける。

 鼓動と、息と、知らない感触。

 そんな小さな夢を見ながら、15センチ先にいる太一くんの背中を見つめる。

「エレベーターってさ」

「うん?」

「早いのか遅いのか分かんないよな」

「それが?」

「いや、そんだけなんだけど…」

 それが緊張してくれていたから出てきた言葉なら、私は今ここで爆発したっていい。

 だけど分かんない。

 背を向けた背中は、私に都合のいいことしか喋らない。


 ガラスケースに入った、大小の石。

 大きなものは人間くらい、小さなものは豆粒ほどしかない。

 描かれる、風景、無機質、顔。

「これすごいな。一本の線とか、何ミリだよ」

「それに、絵と違って立体だよね。凹凸とか影もきっと計算してるんだよね」

「すげえな。なめてたね、駅ビル展示」

「ね。あっ、あっち。ルーペで見るやつみたい」

 私は今、主人公だ。自分の人生なのにどこか脇役みたいだった今までとは違う。マンガのヒロインみたいに私は感情を自由に晒して、気持ちをハイにして、マンガの主人公みたいに、おとこの子と過ごす私。

 何だったら少し、余裕すらある。太一くんが何となく言葉に詰まる時、自然に次の話題が出てくる。

 はしゃぎ過ぎたら、きっと痛い子だ。それだけ注意していれば、私はヒロインでいられる。

「ねえ。あれ」

「ん? 展示ここまでか。なに、お土産コーナー?」

「ううん。お土産も見たいけど、あれ。石アートの体験だって。太一くん、時間、まだ大丈夫?」

「ああ、いいけど…」

「ん?」

「いや、うん、そうだな。やってこう」

 どうしたんだろう? 太一くんは視線を合わせずに歩いて行き、体験コーナーのスタッフさんと話している。

 私は数秒振り返って、気付く。

 今、「太一くん」って言ったんだ。

 だから、あの間。

 呼んじゃったよ。意識してなかった。

「森島さん。体験できるって」

 私なんかが名前で呼んで、それなのに太一くんは意識してくれている。

 こんなちっぽけなこと、経験済みのクラスメイトが聞いたらきっと笑うだろうな。

 でも、私はこれでいい。

 これでいいんだって、胸を張れる。


「くそっ。あっ、やべっ。ちょっと、ちょっと待ってみよっか」

 太一くん、独り言面白いな。

 渡されたサイズの違う絵筆で石に色を付けていく。

 彼はこぶし大の石。

 私は豆粒大の石。

 プラスチックの容器に入った絵の具を、針のように細い絵筆の先につけ、撫でるように色を付けていく。

 私はもう表面が終わって、裏面の仕上げ。

 太一くんは両手を絵の具でべたべたにしながら、完成へのビジョンはいまだ見えていない。

 サイズが違うからしょうがないんだけど、太一くんってあんがい不器用なんだな。

 なんか、彼は勝手に何でもできるんじゃないかって思っていた。

「森島さん、どうしようこれ。塗ってくほどに掴める面積が減っていく訳よ。なんか意図しないとこに勝手に色付いちゃうし」

「とりあえず、一回、手、拭こっか」

「あ、ああ。そうだよな」

 ほんと、マジ可愛い。

 意外な一面、見せてもらいました。

「ああ、もう。いっそ現代アートみたいなのに変更するかな」

「現代アートと適当は違うからね」

「ははっ。森島さん、慣れてくると結構ツッコミできるね」

「そう? 意識したことなかった」

 しばらく黙々と作業が進む。

 できてきたな。コンタクトくらいの、太一くんの顔。

 太一くんはどうかな?

 ふふっ。

 ほんとに、なんか、現代アート。

 でも色を付ける彼の目は真剣で、こんな目で見つめてくれたらって思う。

 真剣だから、集中してるから、私の視線には気付かない。

 だから、眺め放題だ。

「ねえ、ここさあ、波線みたいにしたいんだけど、どうすりゃいいの? さっき森島さん、なんか技みたいなの使ってたでしょ? あれよ、あれ」

「別に技じゃないよ。端と端はね、細い筆で書くの。あいだを太いので塗って、また細いのを重ねて分けていく感じ。ちょっと貸してみて」

 太一くんから石を受け取る。「見てて?」なんて言いながら、黄色と黒で波線を描いていく。

「それ! それね。なるほどなあ。おっけ、コツは掴んだ」

 私は手に持っていた太一くんの石を渡そうとする。

 その時、指と指が、触れた。

 ヤバい、来るっ!

 胸騒ぎみたいな甘い波が身体と喉を包んで、全身が震えた。

 きもち、いい。

 一人で始めた夜のアレみたいに、電流が身体を駆け抜ける。

 甘い息を吐きたくて喉が苦しい。

 駄目だ、早く、普通にしなきゃ!

「ここ掴んで。ここまだ塗ってないから」

 渡そうとして、理性の端っこにあったドキドキを封じ込める。

 その時、太一くんの手が、私の手を包んだ。

「あっ…」

 ひゅうぅー、ピチャ。

 手をひいた私の手から落ちる、太一くんの現代アート。

 それは着陸飛行みたいに、見事に、絵の具の中へ落ちた。

「ご、ごめ…」

「は、ははっ」

「太一く…」

「これで、元通りだ。真っ黒。うん。付き合わせて申し訳ないけど、もうちょっと待ってて」

 太一くんは笑って手を伸ばす、私の頭を撫でようとして。

 だけど、自分の手の絵の具に気付いたのか、太一くんは手を引っ込める。

「せっかく黒くなったんだから、どうせなら銀とか使いたいよな。稲妻的な。あれ、銀って何色と…」

 ごめん、太一くん。

 でもすっごくすっごく愛おしいよ。

 神さま。全部なくなっていい。お願いだから、私のこの先の幸福が、全部なくなっていいから、この人を、振り向かせてください。


「稲妻よ。暗き天を駆ける稲妻な訳よ」

「それ、もういいから」

 太一くんはご機嫌だ。

 出来上がった太一くんの夜の稲妻と、私の太一くんの顔。

 私はその横で、おんなの子みたいに、後ろ手で腕を組む。

「結構いい時間だな」

「そうだね」

 駅ビル前のロータリー。

 辺りはもう薄闇が広がってバスやタクシーのヘッドライトがちかちかと濃紺を切り裂く。

「今日、楽しかった。夢みたいだった」

「大げさすぎ」太一くんが笑う。

「聞いて。こんな日はもう、二度とこないと思う。稲妻みたいにあっという間の、人生で一番素敵な時間だった」

「………」

 言おう。今、言える。今しか、もう、永遠に来ないチャンス。

 音が消えた気がした。目に映る風景も、吹き飛んでいく様だった。

 目の前の太一くんが、私の全てになる。

「太一くんのことが、好き。叶えたいって思う。叶わなきゃおかしいって思う。でも、太一くんの気持ちだから、太一くんが、決めて? でも、私には太一くんが全部なんだ。重くしないし、もし受け入れてくれたら、太一くんが一番好きなおんなの子になってみせる! だから、返事を下さい」

 太一くんは目を閉じ、そして開いた。

 世界中のキラキラを集めたような、水分の多い瞳が、一度空を見て、私に向けられる。

「俺は、ダメだ。ごめん」

「うん」

 知っていた。知っていた。この光景を、私は知っていた。

 背の高い、太一くんの顔を見上げていると、涙が零れた。

 その顔は戸惑っていて、苦しそうで、揺れそうな、そんな気がしていた。

「キスを、してくれませんか?」

 大胆も、ここまでいけば厚顔だ。

 だけど、砕けた今でも、叶うような気がしていた。

 こんなに切ない気持ちっ! 叶わないって、なんなんだっ!

「森島」

 太一くんが、ゆっくりと、夢みたいに、近づいてくる。

 15センチが、0になる。

 私はこのキスの意味を取り違えたりしない。

 この上ない、親愛の味がした。

 永遠が、吹き荒ぶようだった。

 この唇が私の全てで、今何かを考えている私はウソなんじゃないかって思う。

「俺、凛子が好きだ」

「………」

「ずっと、ずっと好きだった。森島の気持ちと同じように、俺の気持ちは凛子に向いてる。キスだって、ホントはきっとダメだった。でも、森島が可愛かったから、こんなこと言うの、ズルいんだけど、森島が可愛かった。でも俺は、バカみたいに、凛子が好きだ」

「私はっ、永遠にっ、太一くんが好きだよっ!」

 本当に何かが終わった。

 今でしかない永遠なんて、きっと何の意味もない。

 でも私が永遠を願ったら、叶うような、きっと俯いて過ごしてた毎日みたいに、当たり前のように、繋がる未来を、同じくらい願っていた。

 最後が、近づいていた。

 お互いの一瞬も暴走も落ち着いて、最後なんだから、最後はやっぱり、私が言わなきゃって思う。

「井上くん?」

「ん?」

「昨日と同じ今日なんてなくて、毎日毎日、新しいものが塗りつぶしていって、変わってった毎日の上に、私のも、井上くんのも、須藤さんの気持ちもある。だから。叶わなかったら、許さないから。井上くんのその気持ちは、叶えなかったらダメな恋だから。責任感じて、大事にしてあげて」

 振られて、応援して、下らない、読む気もしなかった少女マンガ。

 永遠が今、終わる。

「森島は素敵な人だ。凛子と出会わなかったら、そして森島をもっと早く知ってれば、変わってたのかも知れないけど、ありがとう。上手く言えないけれど、その気持ち、嬉しかった」

「うん」

 分かってないな。まるで分かってないな。

 この気持ちはその気持ちと同じ、世界を変える気持ちなんだよ。

 君の未来を変えていたのかもしれない気持ちなんだよ。

 背を向けて、歩き出した。

 井上くんの喉に引っかかる「待って」を聞いた気がした。

 だけど私は歩く。

「アッチョンブリケ!」

 あの日、あの時の魔法の言葉。

 呟いて、私は歩き出す。

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魔法の言葉 鈴江さち @sachisuzue81

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