優しさが怖かった

鍍金 紫陽花(めっき あじさい)

第1話

 時計が一時を指した頃に入口の鍵が回る。


「ただいま」


 父親の間延びした声が深夜の居間に響く。

 返事するか考えているうちに父親の足音が大きくなっていた。


 語尾を強く「ただいま」と言ってきた。私の背中は言葉の槍に刺されてしまったので心を整理するしかない。


「ああ、おかえり」


 まるで気付きませんでしたって演技を添えた。父親の爬虫類じみた目が私を上から下を眺める。


「珍しいな。部屋を出ているのか」


 腹部辺りに粘膜が貼ってあるような違和感がある。機嫌を損ねないように幾つかの回答を用意した。


「バイト終わったから」

「そうか。早く寝ろ」

「うん」


 この街を飛び出したい。そう強く願う時は、決まって人と会話した後だった。

 父親は機嫌が悪いと首を絞める。叱りと言って殴ってきた事もあった。

 青あざ付けてありがとうございますって、言い返す胆力はない。何か分からないけど、ごめんなさいって媚びるしかなかった。

 怒った次の日は甘いお菓子を用意してくる。

 私は自分の部屋で眠った。

 そして、嫌な頭痛に起こされる。

 人はいつか死ぬと慰めながら部屋を出る。


「おはよう」

「おはよう」


 母親は仕事の服に着替えていた。

 私の中には二人いる。嫌味ばかりいう半分と、卑しさを嫌う半分だ。その嫌味な私が、母を手伝わないお前は悪人だと罵る。



「ご飯作ったから食べて」


 冷蔵庫へ山盛りに積んでいくおかずが母と父の繋がりだ。

 私は料理を運んで口に付けていく。

 私は通信制の学校に通っている。1ヶ月に1回は教室で授業を受けなければならない。

 先生は私の過去に準じた優しさを振りまいてくれた。その居心地の良さで勉強に辿り着ける。

 優しくされるほど泣きなくなるのはなぜだろう。


 バスに揺られて三十分。私が降りたバス停から五分かけて歩くと大きなビルが現れた。私と同じように背中の曲がった人が入る。


 ビルの中は騒然としていた。不良の人たちが下品な笑い声を立てている。あるいはスーツを着た男もいた。


 今日の先生は相談に乗ってくれる人じゃなくて動揺する。授業を聞きながら自分と戦って、深呼吸を意識した。

 私は今日ぐらいは心が持ちますようにと念じる。


「ねえ、今日のテレビを見た?」

「ああ。出〇面白かったよな」


 不真面目な人が自分勝手な振る舞いを押し通す。これが正しい行いだと見せ付けてくるから、意志の弱い人たちは強い人間だと錯覚してしまう。それは私も同じことだった。

 どうしたら良かったのか。

何が正しいのか、そればかりに頭使っていたら学力が落ちた。このままじゃダメだって親の金で学校行って、それで身につけたのはバスの乗り方だけだ。この歳にもなって親の金で生きている。ご近所さんの挨拶を返せない。

 こんなはずじゃなかった。

子供の頃は、もっと将来が輝きに満ちているはずだった。


「授業中だから私語禁止です」

「はーい」


 周りのせいにしても自分に返ってくる。私は今日も勝てなかった。

 授業が終わった私はビルを出る。その場所に先ほどの自分がいる気がした。目も当てられない痛々しさに目を背けたい。


 私は震える指で切符を抜く。バスの中は人が少なかった。


「あれ」


 私は聞き覚えのある声を聞く。


「どうしたのこんなところで」


 振り向くと男性がいた。

 一重で鼻のでかい彼は私を友達のように接してくる。


「えっと……」

「覚えてないのか?」


 男は葉月と名乗った。

 私は首の後ろが冷たくなる。


「それにしても変わんねえな」


 葉月は見下した態度を取る。私はただのジャージ姿だった。


「なに、してるの」


 話しかけられるほど仲良かった訳じゃない。彼に質問するだけで限界だった。


「何って。ここの近くに学校あるんだよ」

「そ、そうなんだ」


 皆は昔の知り合いに遭遇したらどうしてる。また経験が無いところを突かれてしまった。

 葉月は一向に離れようとしない。一コマ空いたから時間があるようだ。


「飯行こうぜ。奢るよ」

「いいって。別に」

「遠慮するなって」


 私は強引に連れ去られる。

帰りたい気持ちが心の中で叫ぶ。断り方を知らないから、ただついて行くしかなかった。

 葉月はうどん屋に入っていく。中に入ると茶色の板が全面にあり、首をあげると値段の書かれたうどんって張り紙があった。


「ここ美味いんだよ」


 葉月は私の意向を聞かずに注文を取っていく。勝手に進む状況に目を丸くした。


「お前って今何してるの?」

「え?」


 葉月は割り箸を取り出し、私の方に置いてくる。


「何もしてないわけじゃないでしょ」

「……今は、通信制の高校に通ってる」

「そっか」


 それから彼は自分の話をした。

 彼の注文したうどんが到着する。美味しそうな出汁の匂いが鼻の上をつんとさせた。


「え、おいしい」

「だろ?」


 葉月は好青年のような笑みを浮かべた。

 こんな日も悪くないかもしれない。私は父親の呪縛から逃れられた気がする


「それにしても通信制か」


 口の中でうどんの麺を切る。

 彼の皿は空っぽだった。


「まあ誰にでもきつい時ってあるよな」

「え?」


 辛いことは今に始まったことじゃない。失敗から学習しないことに嫌気がさしている。


「わかる。俺も今の学校きついもんなー」


 視界が暗転する。口の中に出汁の味が居心地悪く残っていた。パーカーの紐が汁につきそうだ。


「ご心配ありがとう」

「もしかして下手な事言っちゃった?」


 器には冷めた汁しか残っていない。


「葉月くんって地元の友達と遊んでる?」


 ああっ。私はなんて残忍で性根の腐った考えをしているんだ。


「……どうしてそんなことを聞く?」


 彼は疑う目つきで訴える。そんな姿勢に、どこか親近感があった。

 そうかと私は理解する。


「ねえ、また会わない?」

「え、お、おう」


 それから葉月と会うようになった。心を許すのは、同じ匂いがしたからだ。


 彼は寂しがり屋だった。話を聞いてやらないと拗ねる。私が意見すると嫌な顔をした。自分が優位に立たないと気分が悪くなるようだ。そんな姿が面白くて、何度も意地悪をした。

 人生ってこんなに楽しいのか。私よりも下を見て、心が清かった。


「ねえ、葉月くん。学校の友達と話さなくていいの?」


 私は頬杖をついて彼の表情を楽しんだ。不快そうに眉を細めて顔を見返してこない。


「分かっていることを聞かないでくれ」

「えー?」


 私たちは安っぽい居酒屋で冷たいだけの酒を一気にあおる。あまりに惨めな人生だから現実逃避ぐらい許して欲しかった。誰にだろう。


「だから、俺は同じクラスのやつに話しかけないだけなの」

「なんで?」

「授業中に騒ぐ中学生じみた奴らと、分かり合える気がしないんだ」

「でも、その学校を選んだのは葉月くんだよ?」

「そんなことは分かってる!」


 彼は机を大きく叩き、その反動で立ち上がる。

 目を細めて身を丸めた。


「こっからだ! 俺はここから伸し上がってやる!」


 私は胸をなで下ろす。怒りの矛先は自身の過去に向いていた。


「俺や姉貴をバカにしてきたヤツらを見返してやるんだ。そのためにあの学校へ行った。こんな苦しみは通過点だ!」


 苦しみは通過点だ。

 彼のことだから引用したのだろう。雑貨店で売られてるような安っぽい言葉だ。でも、それでも、心の何かが抜けていく気がした。


「なあっ」彼は呂律が回らない。何度か聞き返す。「なあってば」


「なに?」

「タクシー呼んで」


 葉月は膝から崩れ落ちた。身体は横に倒れて小料理の乗せられた皿が振動する。


「誰が送ると思ってるの」

「ごめんなさい」


 夜風が私の髪を優しく撫でた。私はタクシーを呼んで彼を送り出す。


「葉月、なに?」


 彼は私の袖を引っ張る。正直汚れたものにしか見えない。


「また、会えるよな」


 顔を引いた。彼が遠くに行った気がする。

 タクシーが現れて、彼は雪崩るように乗り込む。


「なんで、言っちゃうの」


 私は後部座席を見送りながら腹立たしかった。

 私は駅まで歩いていくことに決める。何故か、そういった気分で何もしたくなかった。帰ってる途中、私は寒気がする。もう分かっているはず、って心のうちで聞こえてきた。


 家に着いたのは一時頃になる。扉を開けると、リビングの明かりがついていた。

 私は部屋の方まで駆け抜ける。


「おい、挨拶の一つでもしたらどうだ」


 父親は居間の扉を開けて声かけた。


「ただいま」

「こんな時間まで何をしていた」

「友達と飲んでました」

「お前、自分が女だってこと忘れてるのか?」


 心の中が侵食される。蹲って消えたい。


「お前が誰と付き合おうと勝手だけど、連絡ぐらいしろよ」

「はい」

 

 父親は大きな足音を立ててくる。私は扉から手を離した。


「声がちいせえんだよ」


 痛い。

 コメカミを殴られて倒れた。目の裏がチカチカする。


「あっ」


 顎から汗が滴ってる。最初は勘違いしていた。私は頬を撫でて気付く。


「お前、頭から血が出てる。手当しとけよ」


 父親は振り返ってもうこちらを見ない。

 真っ暗な廊下に私は取り残された。


「逃げよう」


 家の出口に這いながら進む。視界が真っ暗になった途端、頭の中がおかしくなった。

 私は裸足のままアスファルトを蹴っていく。全てが輝いて見えたのは、怪我の生み出す錯覚だ。


 私は宛もなく歩き続けた。立ち止まったら負けた気がする。


「どうしたらよかったの」


 本当はわかっていた。

私は父親を敵にして楽になりたいことぐらい。葉月が私なら彼女に出来ると勝手に決めていること。母親は私に暴力が向くことに感謝している事だ。

 私はただ愛されたかっただけ。孤独を埋める何かを欲していた。

葉月は私のことを見下している。その嫌な目線を覗けば会えた。それは好きになるのか。なんで、好きの割合が大きくなるんだろう。


 私は葉月に電話した。

 彼はワンコーラスで取ってくれる。


「葉月、私無理だ」

『……うん。知ってた』


 街灯に虫が群がっている。その一匹があまりの明るさに焦げていた。


『……今どこにいる?』

「え?」


 葉月は自宅にいるのか。彼の声以外聞こえない。


『どこで何をしているって言っているんだ』

「さあ。ここはどこだろ。もう分かんない」

『まさか、死のうと思ってないよな』


 人影がない森の入口で私は立ち止まる。

 周りを見回したけど、彼の姿は見当たらない。


『学校を中退した理由を俺は知っている』


 私は声を潜めて口を携帯に近づけた。彼の吐く言葉を見逃さないように聞き分ける。


「……どういうこと?」

『ずっと言いたかったんだ。でも、自己満足になると思って切り出せなかった』

「何を言ってるの?」

『姉貴を救ってくれてありがとう』


 私は唾を飲み込む。周りの音が次第に聞こえてきた。夏の虫が騒いでいる。


『結局、姉貴は死んだけど、あの時の支えは貴方だった。俺は姉貴を追い詰める立場にさえいた。だから、有難う。あと、ごめん』


 空気の読めない女子高生だった。皆から無視される彼女を不憫に思い友達になった。


「辞めてよ。そんなに凄い人じゃない。私は自分より下の人に満足していただけだよ」

『それでも、嬉しかったんだ』


 そんな身勝手な私に何で有難うって言える。


「残酷だよ、葉月。そんな事言われたら」

『サツキは生きていいんだよ』


 私は空を見上げる。今日は綺麗な満月だった。


「優しさが怖いよ。また自分に裏切られるんじゃないか怯えなくちゃいけない」

『俺だってそうだよ。擦りむきながら転がって、確かめ合いながら進んでいってる。それは間違いじゃないはずだ』


 以降、彼と会話をしていない。

 現在、私は就職し満員電車を揺られている。

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