4.6cm


 高校入学まで二日。四日前から話は進んでいなく、失望していた。頭を抱えて苦しむ毎日。楓とも連絡がとれていない。


 電話を掛けることもできた。しかし気まずくなることを怯えた。楓自体を忘れてしまったことも有り得る。楓の声を聞いても何も感じなさそうだった。

 立ち込める空気を断ち切れるのは、楓だけ。

 もう鉛筆は、電動鉛筆削りで削れる程の長さがない。カッターで思い出が削れないように慎重に鉛筆の先を尖らせる。


 スッ、スッ、という音が響く。心は「無」に近い。

 そして指を滑らせ、人差し指に刃が入ってしまった。


「ああああああ!」

 俺の心は爆発し、座っていた椅子を蹴飛ばしてしまった。

 指から血が滲む。

 思うようにいかない自分にいきり立って、もはや自分を操作することでさえ難しくなる。感情のまま行動する、それこそ猫のような理性のない動物のよう。


 思わず俺は、

 握っていた鉛筆を投げた。

 

 楓のものだと、忘れて。


 ――4.8cm











 高校入学前最後の朝。アラームで目覚めた九時。


 未だに小説は完成していない。


 どうしても完成させたものを見せたかった。しかし行き詰っていた。

 今はなんとか完成させようと思っている。


 思ってはいるものの。

 文は何度も書かれ、何度も消される。そして鉛筆はカッターで削られる。


 スッ、スッ、スッ


 ――4.6cm


 落ちる消しゴムのカス、木くず、そして思い出。

 部屋の中で、黙って鉛筆の先を見た。


「……何やってんだろ」

 マラソン中に道を外れ、ゴールを見失ったランナーのようになっていた。小説を書く目的を、どこかに置き忘れてきたようだった。


 首を横に振る。

「……楓のためだ」

 声は頼りないものになりつつある。

 なんとしてでも、貰った鉛筆で小説を完成させなければ。


「推敲するか……」

 俺は気分転換に推敲をすることにした。このまま無能な自分にさいなまれていても、一字も綴れない。

 俺は、過去に書いた自分の文章を見るとリフレッシュできた。それに望みを託す。


 重なっていた原稿用紙の山を崩し、一枚目を取った。

 そこには自信ありげな字がある。

「こうなるなんて知らずに」

 自分を気の毒だと思った。


 只管ひたすらに推敲をした。文法上の間違いは沢山あった。それを直す。

 やっといつもの自分に戻れる。また小説を書く励みになる。

 希望の光が少しずつ差し始めていた。


 しかし、すぐ雲がかかる。


 次のページ。白猫が黒猫にパンを渡すシーンだった。

 俺が思い出を参考にしたのは確か。


 しかし、懐かしめなかった。

 むしろ、原稿用紙を持って震えていた。


「何だ、これ……」

 


 食べ物を楓に分けてもらった覚えはない。

 落ち着け。

 胸の辺りでギュッと手を握った。


 次の白猫が黒猫を連れて街中を駆け巡る思い出らしきものも。

 次の誰かの家の屋根の上。二匹花火を見た思い出らしきものも。

 次の裏路地を二匹で探索した思い出らしきものも。



「……知らない」



「知らない」



「知らない!」



 《《何もかも、

 忘れていた》》。

 4.6cmまで削ってしまったら、もう思い出を記憶することはできないのだろうか。


 挙句の果てに……


「……何でこれを書いたんだ?」

 制作の意図まで分からなくなっていた。

 楓のためだったはず……

 ただ楓に何を与えようとしているのか。

 分からなくなっていた。


「くっそ……」

 楓も、楓との思い出も、気力も失い、原動力であった何かも忘れてしまった俺は、静かに涙を零した。

 自分の意志でないもので、周章する。

 さらに強く手を握った。


「くっそ、……だめだ、だめだ!」

 感情は「思うようにできない自分に呆れる」という一つのものに繋がった。

 自分を蔑む。もうこんな辛いのは嫌だ。

 俺は熱情的になってしまった。


 ついに――


「うわああああ!」



――ビリリリッ……



 不快な音が、響く。

「はあ……、はあ……」

 両手には、

 裂かれた原稿。


 俺は、原稿用紙を破ってしまった。


 灰色の心は、それだけでは満たされなく。

「……ああああ!」

 崩されていた他のページも、破り、クシャクシャに丸め。


 今までの記録を0にした。


「はあ……」

 心拍数を正常に近づけようと試みる。

 俺は我に返った。

 俺の呼吸だけが、耳に届く。


「……ああ」

 部屋の無残な姿を目の当たりにした。

 そこには、今まで春休み中に少しずつ作ってきたものが復元出来ないものとなった姿でいた。破られた紙は汚くなり、愛情が込められたものとは思えないものになっている。

 自分の作品を、自分で汚した。

 段々と犯したことを実感する。


「……ああ、あああぁ」

 一語のみしか喋られない程、一瞬を後悔する。

 紙など破れば、消したも同然。

 俺は楓のために春休み中、ずっと時間を費やしてきた小説を水泡に返してしまったのだ。


 悔やんでも過去には戻れない。

「くっそ……、くっそ……」

 俺は倒れた。

 そして何の恥らいもなく、両手で顔を覆った。涙がとめどなく溢れ出てきた。


 辛かった。執筆が辛かったはずだった。今苦痛から逃れたはずなのに、より強い苦痛が生まれた。自分を情けなく見て馬鹿にした。


 結局楓との約束を破ってしまった。楓の鉛筆も限界。

 麒麟児と言われたけれども、俺はただの凡人。

 もう楓の笑顔を見られない。


「……ごめんな。楓。

 俺、やっぱ、小説……書けねえや……」


 届くはずもないのに、楓に謝った。

 俺は小説なんてもの、もとから書けなかったのだ。


 楓からも応援されているのにも関わらず、期待を裏切った。楓に合わせる顔がない。床を濡らす俺の涙。


 楓のために書いていたのに。


 笑顔を見たかったのに。




 楓に幸せになって欲しかったのに。





「……ん?」

 顔を上げた。

 涙で濡れたまま。


 おかしい。

 微熱を発したように感じる。

「風邪?」

 焦って手を額に当てる。

 何度も手を重ねて、離した。


「熱い?」

しかし、特別体温が上がっている訳でもなく、視界が歪むこともない。発熱ならばもっと正確に分かるはず。


「じゃあ、これは……?」

 体の様々な部位を触った。この謎の熱の発生源を見つけるため。


「……ここ?」


 ここだ。胸だった。

 胸は心臓の辺りで、感情を司るもの。


 胸が熱い。

 それは涙を流したから?


 それだけじゃない。

 他の感情が胸に熱を加えている。

 俺が今思っていること?



……楓?



 自問自答の末に出た答えが。

 ……楓?


「嘘だろ?フフッ……」

 少し笑った。まさかそんなこと……。

 自然と浮かんだ笑みが、嘘の笑みだと願った。

 俺が十二年間寄り添ってきたから、そんなこと……


 熱は治まらない。

「何だよ、これ」

 次は耳が火照り始めた。

 これじゃまるでいつかの楓みたい……


「いけね」

 俺は呟いて、否定しようと冷えていた自分の手で耳を握った。

 耳を冷まそうと。


 ――いや

 これもまるでいつかの楓みたい……


 本当か?嘘だろ?いや、ない。そう、全くの嘘。俺に言う。

 ただ、どうしても耳は冷めないし、現状は変わらない。


 俺は、いつしか床に転げ落ちていた楓の鉛筆を見ていた。

 もうほぼ使えない4.6cmの鉛筆。

 ずっと使っていたかった楓の鉛筆。

 楓から貰った大事な鉛筆――。


 そっか。


 俺は一つの答えに辿り着く。

 答えは俺らしくなく、はにかんでしまった。

 俺は楓に見守って欲しかった。どうしようもない俺を擁護して欲しかった。楓がそばにいて欲しかった。


 俺は、


 きっと、








「楓が好きだったんだな……」



 十二年の間で、知らぬ間に恋に落ちていた。

 楓の抜けているところ、無邪気なところ、ちょっとばかりの偉大なところ。楓の当たり前な場所ばかり気にしていた。

 恋心はそれらに隠れていただけ。俺も気付いていなかっただけ。


 だから鉛筆を使っていたかった。心も熱くなっていた。


 小説だって、楓と重ねて会えないというい心を紛らわしていた。

 悔しいけれど、繋がる。


 どんな結末だよ。

 薄っすら涙を浮かべて、俺は笑う。今なら言える。

 胸を張って好きなんだと。


 鉛筆は思い出の塊。削るたびに思い出は消える。

 しかし、削り始めに溜まっていたのは俺が気付いていた思い出。そして感情。


 裏を返せば、鉛筆を削る度に奥底に埋まっていた楓に抱く感情に気付けたのだ。

 残り4.6cmにあった、他でもない恋心。


「そんなことか。楓、そうだった。

 俺は十二年間、好きだった。うん」


 今まで正直になれなかった自分を責めた。これ以上傷付かないように優しく。

 

「拓馬は初恋いつくるの?」と昔楓に問われた気がする。

 とうに初恋は来ていた。


 連絡する勇気がなく、ほぼ空っぽのペン立ての中に封印していた携帯電話を取った。

 今なら連絡できる。今なら伝えられる。

 伝えようと思った。


 携帯を起動し、電話のアイコンを押す。そこには楓のフルネーム。『秋本 楓』。


 今までの俺なら押すことが出来なかった通話ボタンに、親指を近づける。微妙に揺れているのがよく分かった。


 あと、少し。


 思いを伝えられる。




「……やめた」

 携帯電話の電源を切った。ベッドに投げる。

 決して、まだ怯えている訳ではない。

「こんな伝え方じゃだめだ」


 楓は小説家の夢を応援してくれた。小説を書いて欲しいと言った。

 しかし、もう小説なんて書く気力もなくなった。


 俺は文字で物事を綴る。


 なら文字で。


「……ラブレターか?」

 頭をポリポリと掻く。

 またはにかんでしまった。

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